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[197] ●“最驚の憑き物”体験談 Name:道開き Date:2014/07/29(火) 19:51 
NHKのBSでお盆近くになると放送される番組に、『最恐 ! 怪談夜話』というのがありました。そこで語られる、作家、文芸評論家、漫画家、俳優・・・といった方たちの生々しい霊体験談の中には、今回取り上げる話とかなり共通した“モノノケ”話もあったりして、「見える人には見えてるものなのだな〜」と考えさせられるところが多々あります。今年は放送されるのでしょうか?



◆狢(ムジナ)憑きの青年 〈平成某年7月〉

動物学上では、狸(たぬき)と狢(ムジナ)は同じイヌ科の動物とされているようです。西日本などでは、狢(ムジナ)はアナグマの別称とされているようですが、アナグマを狸(たぬき)といったり、狸のことをムジナと呼ぶ地域もあったりと、二重三重に混同されているのが実情のようです。

“キツネ憑き”はこれまでに幾度となく見てきているのですが、最近、初めて“狢(ムジナ)憑き”を経験しました。憑き物にも地域性があるみたいで、四国などでは憑き物といえば、“狸憑き”か“犬神憑き”が主流となるようです。

テレビの時代劇を見ていると、よく、“ムジナの○○”と呼ばれる人物が出てきます。一度取り付いたら、執拗なまでにとことん食らい付いていく気質の人物を形容する際に、この「ムジナ」の語が使われているように見受けられます。「どうして“狢(ムジナ)”という語が、執拗さをあらわすのに使われているのだろうか?」と、多少なりとも疑問に感じておりましたが、今回の経験で初めてその理由を知りました。本当にしつこい質(たち)なのです。

“キツネ憑き”の場合は、おキツネさんが怒り狂って、「どうしてあの様なことをしたのだ」と憑依する原因になった事柄を正すようにと主張してくるケースがほとんどです。ところが“ムジナ憑き”の場合はというと、怒りといったものも感じられず、どうするようにと言ってくるわけでもなく、一見、間が抜けた漫画チックな様子にも感じられるのですが、非常に質(たち)が悪いのです。まるで、人に憑いて弄(もてあそ)ぶことが目的であるかのようにも見受けられます。


三週間ほど前のこと、ある所からの紹介を受けたという二十代半ばの青年が神社にやって来ました。小太りで浅黒く、何となく汚らしい印象を受ける容姿の青年で、話を聞いてみると、だいぶ以前から何者かに憑かれているようだということでした。両脇の下と左右の腰に、背後からしがみ付かれており、背中に手をやるとその憑き物に触れることが出来、特にバイクに乗っている時に、体中(特に脇の下と尻の穴)を舐め回されたり、からかいの言葉を浴びせかけられたりするということでした。

更に、そのような状態にありながら、しきりに、女友だちに対する思いを話してきました。二人の女性との縁が結ばれるようにと、二つの絵馬に願いを記して掛けて行きました。
これは動物霊に憑かれている人に共通する典型的な特徴なのですが、異常なまでに異性を求めます。

話を聞いただけでも、おそらくは「モノノケ」の類ではなかろうかと思われましたが、先ずは、御神前にて御祈祷を執り行いました。
祈祷後、「どうか?」と青年に聞いてみると、「静かにしていますがまだ背中に憑いている」といいます。死霊だったら、神さまに導かれてあの世へと向かっていくはずなのに、そのまま憑いているということは、やはり、何らかの「モノノケ」の類に違いないと思われました。これは厄介なことになりそうだということもあって、その日はある程度の指導をするにとどめ、後日、再度来社するようにと話して聞かせました。なにせ、低級な「自然霊」というのは人間としての経験もないので、「情」といったものがなく、扱い方次第ではかなりの危険を伴うからです。

後日、ある霊能者Aさんにお願いして加わっていただき、憑き物の正体を確認してもらうことにしました。すると、その当日の朝方、Aさんは不思議な霊夢を見たといいます。その青年が、親と口論になり、家を飛び出して車を運転していた際に、かなり古い時代に、狸を食していた集落の人たちがその骨を捨てた場所があって、その“塚”のような所をタイヤで踏んでしまった情景が見えたということでした。そして、やたらと臭いニオイが残ったのが印象的だったそうです。さらに巨大な蟻たちが秩序正しく働く状況も見え、そのように人は勤勉でなければならないのだという教えの夢も見たということでした。


神社で、三人で会いましたところ、青年の背中に憑いているのは尾が二本もある「モノノケ化」した野狸だということでした。
更に驚きだったのは、前回にも増して青年の顔が狸のようになっていたということでした。両目の回りには輪のようなものができ、鼻先が尖って見えます。キツネ憑きになった人は、目がつり上がってキツネのようになりますが、それと同様です。

これまでに他の人たちにも憑いてきたのだろうか?どうしてこの青年に感応してきたのだろうか?・・・といった疑問も多々感じられ、青年にあれこれと問いただしてみました。すると、青年は山菜採りが好きだったらしく、ある山道の行き止まりになっている場所にバイクを止めて、山菜採りを始めた時から総てが始まったと言うことでした。(後日、その場所を清める為にお祓いに行きました。)

Aさんに害を及ぼしては申し訳が立たないので、当日は、そのまま帰ってもらい、後日、その青年と私の二人きりでお祓いの神事を執り行うことと致しました。


何冊かの関係書物に目を通し、様々な対応策を考えながら神事に臨みました。
「人になど憑いていないで、山に帰りなさい。故郷に帰りなさい。山の神さまの元に向かいなさい」と諭しながらお祓いを執り進めていきました。そうしている内に、青年は「取れました」と嬉しそうに言い、満面に笑みをたたえ、晴々とした様子で帰っていきました。あまりの嬉しさに、当方に対するお礼の言葉は忘れてしまったようでした。

ところが、その夜にまた青年から電話があり、「神主さんの姿が見えなくなったら、またどこからかやって来て憑いてきました」と言います。その憑きモノは結構な策士で、あれこれと欺いてくるみたいです。

「それでは毎晩、お風呂に入る際に、粗塩を身体に擦りつけて、身を清めてみなさい」と教えますと、数日後には、「その時には一端離れるのですが、またどこからか戻って来て、糞のような、カエルの腐ったような悪臭を身体に付けて逆襲して来るのです」と言います。

「そして、夜中になると、ピシィー、ピシィーと唄を歌っているような声を出してみたり、神主さんの上げる祝詞(のりと)の真似をしてからかったりします。私もたまりかねて、バカな真似をするなと叱りつけますと、顔を爪で激しく引っ掻いてきます。あまりの痛さに、おそらく顔が血まみれになっているだろうと思い、鏡で顔を見てみましても不思議なことに何ともないのです。・・・・本当につらいです」ということでした。

かなり辛そうなので、急遽、電話口でお祓いを施しますと、「ヤバイ、ヤバイと言って、その時はおとなしくなりますが、時間が経つとまたからかい始めます」という。

離れてから納まる場所がない為、いつまでも青年の身体に憑こうとしているのだろうかとも考えられましたので、「それでは、祠(ほこら)を設けて祀(まつ)ってあげるから、そちらに移るように伝えてみなさい」と話すも、それでも「絶対に離れない」と言い張っているという。本当に質(たち)の悪いムジナです。



※東京の浅草寺の伝法堂裏には鎮護堂という祠(ほこら)があり、「鎮護大使者」の称号を与えられ、多くの崇敬者たちに、火難・盗難防止、商売繁盛をもたらしてくれる“狸神”として信仰されているが、始めは寺の境内に住む狸の憑依からはじまったようです。徳島の青木藤太郎大明神だとか、讃岐の蓑山大明神だとか、阿波の太三郎狸だとか、“分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)”伝説で有名な群馬県館林市の守鶴和尚狸だとかも同様らしい。


これは長期戦になりそうだとも考えられ、青年の怠惰な生活に感応して憑いた節もあるので、「とにかく気持ちで負けないことが一番だから。自分自身がしっかりすることが大事なのだから」と話して聞かせました。親に対しても、この件については全く話していないということなので、まずは一切を話しなさいと伝えるも、かなり複雑な親子関係のようでした。青年はしきりに自殺を口にするようになりました。そして、ここ数日は連絡が無くなっており、こちらで電話してもつながりません。安否が気遣われました。



◆“狢(ムジナ)”憑きの青年、その後 

その後、一月ほど経過し、ようやく青年から電話が入りました。親には打ち明けたということですが、家族は皆、神仏が嫌いな人たちらしく、なかなか話を信じてもらえず、病院に行くように言われているとのことでした。その後、本人は寺社回りをしていたそうですが、一向に問題は解決せず、また当方に電話をしてきたということでした。再度、神社においてお祓いの祈祷を執り行ないました。

(私)「それでは、前回、神社に来て御祈祷した際に、家でお祀りするようにと渡した御札とお守があるでしょう。お守よりも御札を身につけた方が遙かに効き目があるから、時代劇の旅装束に見られるように、風呂敷のような布に御札を巻いて、そのムジナとあなたの背中の間に、“白鬚神社”の文字がムジナに向くように身につけてみなさい。さらに、それに加えて入念に御神入れした御札を4体渡すから、両手両足に同じようなやり方で巻いてみなさい。そして、これまでに教えたことは、毎日きちんと実践し続けなさい」と話して聞かせました。

翌日、青年から電話があり、しばらくぶりで、ぐっすりと眠ることが出来たということでした。その後、また連絡が来なくなりました。


さらに数ヶ月が過ぎ、「また、お祓いをお願いしたい」と青年から連絡が入りました。その後の経過について聞いてみると、以前のように、映画『エイリアン』に出てくる、エイリアンの幼虫が顔にへばり付いたときの様な、強力な背中への貼り付きは無くなり、かなり緩く、弱くなってきているということでした。ただし、何か気に食わない事があるとすぐに、「このバカ、殺すぞ!」という言葉は、今でも吐いてくるし、夜中に歌う曲も、青年が普段から聴いている、ビーズやケミストリーのポップス曲に変わったということでした。


(私)「とにかく、その憑き物が、居心地の悪いような、波長が合わないような状況を作りだし、それを維持していくようにしてみなさい。そして、微弱になって消えていくのを、辛抱強く待ってみなさい」と話して聞かせました。

※少しでも浄化の時期を早めようと考え、「十種神宝(とくさのかんだから)」の御名を唱えて、鎮魂の術を施してみました。青年の話では、施術されている際には、憑き物の罵倒する声が微弱になり、遠くから聞こえているような感じになるのだそうです。間違いなく嫌がっているようで、効果はあるみたいです。



◆百鬼夜行??? −“ムジナ”憑きの青年、その後A 

一年の時が過ぎ、青年に憑いているムジナもだいぶ弱まってきているらしい。「この野郎、殺すぞ!」といった暴言は今でも時々吐いてくるのだが、貼り付きはかなり緩くなって、背中にフワフワと漂っているだけのようになっているとのこと。  

彼の場合、霊感が強いとされている人たちがよく見る、死霊といったものは全く見えないらしく、「モノノケ」「妖怪」といった類の“モノ”たちの姿はしょっちゅう見ているようなのです。

現在の彼は、未明の暗い内に家を出なければならない新聞配達のアルバイトに就いているということなのだが、ある時などは、仕事先に向かっていつものように原付バイクを走らせていると、小さな子供なのかなとも思われる数人の人影らしきものが、車道と歩道を分離するコンクリートの縁石に腰掛けて話し合いをしている姿が見えたのだそうだ。こんな夜中に変だなと思いながらもバイクを走らせ近づいていくと、その小人物たちもバイクに乗っている彼に気付いたらしく、彼の方をふり向くや否や、いっせいに立ち上がって、道路脇の用水路の中に飛び降り、その中をひたすら逃げ去って行ったということだ。

また、ある時には、男女の性別不明のミイラのような姿をした“モノ”が、髪を振り乱したまま、バイクに乗る彼の前方の道路を横切って行ったこともあったという。これらの“モノ”たちは、彼に憑いているムジナの仲間たちだったのだろうか。
彼の場合、そういった“モノ”にチャンネルが合ってしまっている状態のようです。(おそらくは、彼の目が、背中に憑いているムジナの視覚をも兼ねて働いているからなのでしょう。)

彼とは別な人物の話になりますが、山を開発して分譲された、新興のニュータウンに住んでいる方なのですが、夜中に、巨大な目玉のバケモノが道路を歩いている姿を見てしまったそうです。特定の人たちに、こういったお化けの様な姿で可視化されて見えるのは、恐らくは「山のモノ(精霊)」たちではなかろうかとも考えられます。特別の場合を除いては、見た人に害を及ぼすことは無いようです。

『陰陽師』等の漫画や映画に描かれている平安期の京都の夜の闇の様子は、まさに「百鬼夜行」といった観があります。当時の人たちは現代人に較べて、「見える」人たちの数が多かったのではなかろうかとも考えられますし、当時の政治や文化といったものが微妙に関係して、“疑心暗鬼”的に様々なモノを見させていたようにも思われます。江戸時代中期の儒学者で政治家でもあった新井白石などは、本気で“鬼”の存在を信じていたようです。
現代の沖縄でも、“キジムナー”の名で呼ばれる、「真っ赤っか」なガジュマルの古木の精霊の姿が、あちらこちらの神社の境内や「ウダキ」と呼ばれる斎場で、「見える人には見えている」ようです。



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※《参考》

●スピリッチャリズムにおける「高級霊と低級霊」
一般によく“狐憑き“と言われるものがあります。これは動物霊ではなく、現世に姿を現したことのない低級自然霊、または低級自然霊と化してしまったものによることが多い。自然霊とは、この世に肉体を持って姿を現したことのない霊です。いわゆる稲荷、天狗、龍神、たぬき等です。本当に絵で見られる姿をしているわけではなく、そのような性質を持つ“エネルギ−体”と考えて下さい。

自然霊にも低俗なものから超高級なものまであります。まず頂点に立つ“神”、“高級自然霊”、“妖精(フェアリ−)”があります。自然霊には、天候など、自然界を司る働きがあります。
特に人間に良い影響を与えているのは、背後霊のなかの自然霊です。もともと人間の始祖は自然霊であり、人間の背後霊を調べてみるとよく龍神、天狗、稲荷等、神の予備軍とも言える自然霊が支配霊としてつかさどっていることが見受けられます。これらはまだ、霊界における新しい魂の自然霊であるから、まず、現世において人間をつかさどって守ることにより、神となる修行をしていくと言われています。
背後にいる霊の系統(霊系)が、人間の個性として強く現れます。龍神霊系の人、天狗霊系の人、稲荷霊系の人。

問題となるのは中級より低い自然霊です。“神の使い”である霊であることが多く、人の生業を見てくれたりもします。ところがこれらの霊は大変に俗っぽく、与えた分の見返りは必ず得ようとする性質があります。最初のうちだけ熱心に詣でていても、感謝の心を忘れたりすると、怒り狂います。霊障によって知らせようとしたりします。おろそかにされているうちに、人間の子供のようにグレて低級化していく傾向があります。
自然霊は子供を産むように分霊し、消えていきます。

このような自然霊に対する説得はなかなか難しく、人霊と違って情がありません。肉の家族を持ったことがないので情けというものがないのです。情に訴えることができないのです。だから自然霊は慎重にあつかうべきで、常に敬意を払い、簡単に呼び出そうなどとしてはいけません。
霊界について中途半端な知識を持ち、このような低級霊を呼び込んでしまい惑わされてしまう人は以外に多い。憑依状態が長く続けば続くほど、憑依霊は居心地が良くなる。憑依とは憑く霊ばかりが悪いのではなく、呼び込む自分が一番悪い。「神は人に悩みなど与えていない。神は問題のみを与えているのだ」という。

『自分のための「霊学」のすすめ』より  江原啓之 著


[196] ●「お迎え」の有無は天の判断一つ Name:道開き Date:2014/07/15(火) 09:32 
下の書き込み〔195〕●『大霊界』に続きます。二年ほど前に、氏子の一人の方から聞かされた話で、よく耳にする「臨死体験」の典型的なお話になります。

その方は、自分の所有する農業用ビニールハウスの中で一人きりで作業をされていたということでした。その内に気分が悪くなり気を失ってしまいました。するといつの間にか、複数のご先祖様達が姿を現わされたといいます。そして、その方に向かって「お前はまだ、こちらの方に来なくてよいから、早く家に帰りなさい」と語りかけたのだそうです。

そこで、その方は、突然、意識を取り戻し、そして、自分で起き上がって家まで歩いて帰り、救急車を呼んで入院したといいます。あとは脳梗塞の治療を受け、すぐに退院して普段通りの生活に戻られています。

こういった体験をされた方というのは、逆に、長生きしている人が多いようです。


[195] ●『大霊界』 Name:道開き Date:2014/07/13(日) 09:44 
映画シリーズのUだったか、Vだったかの、「丹波哲郎がお迎えにあがりました」というコピ−が非常に印象的だったことを覚えています。映画の内容は、スウェーデンボルグの『霊界著述』がベースになっていると思われます。スウェーデンボルグ協会の協力が制作字幕に載っていたことを記憶しています。

半月ほど前、東北大学の実践宗教学を研究されている三名の先生方がお越しになられました。末期医療のホスピタリティーや被災地におけるメンタル・ケアの観点から、「臨床宗教師」研修を開催されているとのことでした。

自分なりに、被災地におけるメンタル・ケアという観点から震災直後の頃のことを思い出してみますと、氏子の方たちのメンタル・ケアだとかいったことは、とてもじゃないが考えられる状況ではなかったというのが本当のところです。誰もが、まともに互いの顔を見合わせることができなかったし、へたな励ましの言葉なども、とてもじゃないが掛けられたものではありませんでした。それなりに顔を合わせて話が出来るようになるまでには二年は掛かったように思います。それだけの時間の経過が必要でした。これは被災した人たちの共通認識だと思います。

宮澤賢治の「雨にも負けず 風にも負けず」の詩に出てくる“でくのぼう”の様になって、ただ、おろおろしていたというのが本当のところです。他に成すすべなど有りませんでしたので。ただただ、被災した家の神棚や氏神社、井戸の「ご神ぬき」の祭祀を、求められるままに普段の通りに行っていただけでした。自分も氏子の方々も、共に半ベソをかきながら、神様に今後の良き導きを願う内容の“祝詞(のりと)”を奏上するだけでした。我々神職にとっては、祝詞が総てですから。

期末医療のホスピタリティ−の観点から思いを巡らしてみると、『ゴースト ニューヨークの幻』という古い映画がありますが、非常に良くできたスピリチュアル映画だと思っています。この世とあの世の関係が分かりやすく描かれた秀作だと私は考えています。
特にラストのシーンが素晴らしい。この世への執着から解き放たれた主人公を、ウッピー・ゴールドバーグ演じる黒人霊媒師があの世へ向かうことを促すシーンです。「さあ、お迎えがいらしたわよ」と。
あの世への霊道が開き、浄化された霊人たちの姿がぼんやりと映し出され、その方たちに囲まれながら主人公の霊はあの世へと向かっていきます。


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※参考

★本田霊学とスピリチャリズム
良くない事が続くと、何でもかんでも霊の仕業にしてしまう人がいます。逆に、霊の存在など一切信じようとしない人もいます。どっちもどっちだとも思われますが、しかし、明らかに憑霊が原因しているというケースは多々あるものです。

特定の場所に執着を持ち、恐れと悔恨の中でもがき苦しんでいる霊もいます。生者の磁気的オーラに入り込み、生前の利己的で邪悪な性向のまま欲望のはけ口を見出そうとしている霊たちもいます。

体調がすぐれない時には、先ずは病院に行って診察を受けることが第一です。しかし、医者に診てもらっても原因が特定できない病気というのも多々あります。ある時期を境に人格が変わってしまったとか、大酒飲み、薬物飲用、その他の癖、自殺願望、犯罪など・・・憑霊が原因しているケースは少なくないとも考えられます。

そういった生者に害を及ぼしている霊というのは、(1)「自分が死んでいることが解らない」、 (2)「向かうべき死後の世界があることも解らない」でいます。

より高い霊界へ進歩した霊人達(浄化された高級霊たち)は、これらの迷える霊達を救い出し、正しい方向へと導こうと常に努力しています。
迷いの中に執着し、もがき苦しんでいる霊は“霊眼”が開かず、何とかして向上の道へと導こうとしている近親者の霊達が“お迎え”に来ても、その存在に気づくことすら出来ません。ましてや、生者の磁気的オーラに入り込んで憑依している霊ともなると、こういったお迎えの霊達から見ると全くの行方不明状態なのです。

憑依を受ける側の人にも条件があります。@生来の霊媒体質、A精神・神経系統の疲労、B急激なショックなど。つまり、生命力が低下すると抵抗力が弱まり、霊の侵入が容易になるようなのです。
更に、最悪なケースは、C一見、無害な自動書記やウイジャ盤(西洋盤コックリさん)の実験をしている内に精神を患ってしまった人たちの場合です。


今から100年ほど前の米国に、このような憑依霊の犠牲となった患者たちの治療に当たった精神科医のスピリッチャリストがおりました。カール・A・ウィックランド博士です。1909-18年には国立シカゴ精神病学会の会長を務めたほどの社会的に認められた人物で、霊媒だったアンナ夫人の協力の下で心霊研究の書を著しています。
『Thirty Years Among the Dead(邦題「医師の心霊研究30年」)』。
同じく医師であり、心霊主義者でもあった、「シャーロック・ホームズ」シリーズの作家としても有名なコナン・ドイルなどはこの書を篤く推奨しています。

患者に軽い静電気をあて、憑依霊を同席させたウィックランド夫人に移転し、諭すという方法を取りました。(“本田霊学”における「鎮魂帰神法」に類似しています)

その際には「心霊に関する法則に精通するとともに、常識と識別力が必要であり、さらに、科学的方法は心霊研究においても非常に価値ある手段となる」としています。
(“本田霊学”における「審神者(さにわ)」の条件とも同じです。)

キー・ワードとしては、「思念の集中」という言葉が何度も出てきます。つまり、かなりの遠隔地にいる精神異常と見られている憑依霊の犠牲者や家などに対して、心霊サークルで行われている一連の思念法を行うと、霊界の協力者の高級霊人達がサークルまで憑依霊を連れて来て、霊媒者のウィックランド夫人の身体に入れてくれます。
(これも“本田霊学”で最重要視している「鎮魂力」とも非常に共通しています。)

ウィックランド夫人は常に霊界側より、“慈愛団(マーシイ・バンド)”と呼ばれる強力な高級霊人のグループによって守護されていたといいます。悪霊達も「類は友を呼ぶ」的に徒党を組む傾向にあるようですが、世の中を善なる方向へと導こうと働きかけをしている霊たちもグループを組んで動いているようです。ウィックランド夫人に限らず、優良な霊媒の背後では、こういった善良なる霊団が組まれているということです。

★★★
当社におけるお祓いや御祈祷の場合も、数多くの神さまたち(“白鬚神社神霊団”とでもお呼びすべきか)がお働きくださいます。
サークルを組織して「思念の集中」を行わなくても、御神前において誠意を込めた「祝詞を唱える」ことで、同じ内容の事が行われているようです。
磁気オーラに入り込んでいる憑依霊を除く場合も、電気ショックを加えなくとも“言霊の力”のみによって神気を集め、その神気をオーラ内に注ぎ込むことで、外に取り出すことが可能となります。

論理面では“スピリッチャリズム”の方が優れていると思われますが、実践面では“本田霊学”の方が優っているように思われます。


[194] ●半夏生(はんげしょう) Name:道開き Date:2014/07/03(木) 07:11 
1年を24分した「二十四節気」の各節をさらに3分し、5日ごとに分け、気象、自然、動植物等の変化を自然暦的な伝承で表わしたのが「七十二候」で、その夏至節の末候にあたるのが半夏生(はんげしょう)です。やがて「雑節」の一つに数えられるようになりました。
元々は夏至から11日目、現在では太陽が黄経100度を通過した日と定義されており、新暦の7月2日頃となります。

梅雨の終期にもあたり、農家では遅くともこの日までには田植えを済ませる目安の日とされた。「半夏半作」といって、この日以後に田植えをしても収穫が少ないという意味の諺(ことわざ)もある。そのほか、畑の作物の播種期の終わりとする地方も多く、この日に畑に入るのを禁じたりする慎みの日でもあった。
この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、大雨になることが多い。地域によっては「半夏水」(はんげみず)とも言う。


「半夏(はんげ)」とは、もともとは仏教用語で、九十日に渡る僧侶たちの夏行である夏安居(げあんご)の中間、四十五日目の呼称であったのが、この頃に畑地に生える「からすびしゃく」という薬草の別称としても用いられた。半夏生とは、「半夏(はんげ)」が生える時期ということになる。


「二十四節気」や「七十二候」は元々、黄河中・下流域の大陸的気候を反映したものであり、日本に較べて、やや寒冷な気候から生じた名称が多いように考えられるが、多くの用語は長い年月を経て、日本の四季とうまくフィットしてしまい、何とも言えない風情を醸し出しているようにも思われます。

自分もこの言葉の持つ響きが好きで、昨年、庭に「半夏(はんげ)」(からすびしゃく)を植えました。一月ほど前から芽を出し始めていた。


[193] ●サッカーW杯一次リーグ敗退 Name:道開き Date:2014/06/27(金) 09:47 
最初に断っておきますが、今回の日本代表選手を批判する気などは微塵もありません。ただ、日本人、日本文化等について様々なことを考えさせてもらえる良い機会であったことは間違いないと思われます。

「技巧、スピード、連携、連動」といったものは確かに強みにはなるのだろうけれども、いよいよの所での刹那的な局面においては、健さん主演の任侠映画に出てくる「殴り込み」のような、ドス一本を片手に持って、たった一人(ないし、助っ人が加わった場合には二人になるのか)で敵方に乗り込んでいって決着を付けるといった「個の凄み」みたいなものが無いとやはりダメなのかな〜とも思われました。
どうしてヤクザの話を持ち出すのだといわれそうならば、“サムライ”を象徴する存在でもある宮本武蔵が、吉岡一門数十人を相手に戦った「一乗寺下り松の決闘」でもいいです。(これもどこまでが実話なのかはわからないけれど)

例えば、相手方のディフェンダーと1対1になった時、相手を“大きな壁”だと認識して、見方へのパス・コースを探そうとするのが日本選手の戦い方のように思われます。南米の一流選手を見ていると、その相手方のディフェンダーをかわして置き去りにしてしまえば、ゴールへのビッグ・チャンスを作り出せると認識して、そのまま乗り込んで行っているように見受けられます。

大きく言えば、南米の選手と日本選手の違いはこれだけだと思われます。(言うだけなら簡単なことは百も承知しています)

セルジオ越後さんがよくテレビ解説で口にする「日本には上手い選手はいるんだけれど、恐い選手がいない」という言葉が、普段は「またまた辛辣なコメントをしているな」程度にしか思わないのが、今回のコロンビア戦後には、その言葉がジワーっと染み込んできたのも事実です。

日本の選手はもう少し、空手、柔道、相撲は勿論のこと、ボクシング、レスリング等の「格闘技」も研究して、身につけていくのも一つの手ではないでしょうか。サッカーはかなり格闘技の要素が含まれた球技のようにも思われます。


[192] ●「神事」 Name:道開き Date:2014/06/11(水) 07:01 
「我田引水」と取られるかもしれませんが、世の中で起きている事件には憑依霊の仕業によるものが少なくないと考えています。(かと言って、何でも悪霊のせいにしてしまうのも良くありませんが・・・)

我々のような祭祀者たちが、今後どんどん軽く扱われてゆき、存在自体ができなくなってしまったなら、いったい誰が世の中の「清め祓い」を行うようになるのだろうか。この事に関しては常に心配をしています。本当です。このまま科学が発達してゆき、悪霊の浄化装置のようなものの開発でも行われるのだろうか???


人々が集い神事を執り行なうと、高次の神様は降りてきませんが、何十、何百柱(はしら)といった大勢のお使いの神様達がお姿を現わします。他にも神使の霊獣たち(龍や霊狐のようなもの)や、どういう訳か解りませんが、ご先祖様達までやってきます。見えない世界というのは決して単純なものではなく、密教の曼荼羅(まんだら)に描かれている様に、霊的なもので満ち溢れているゴチャマンカイな世界なのです。




※参考

●セアンス(集団儀礼)   

超自然的存在の何たるかを見抜き、これに対処するための必要な知識と技術を具えた人物が“霊界の専門家”シャ―マンである。シャ―マンは、依頼者に憑依(ひょうい)した霊的存在の正体を突きとめ、最善の儀礼的処置を講ずる。この役割を果たすとき、シャ―マンは「守護霊」を呼び出してみずからに憑依させ“憑霊状態”を作りださなければならない。したがって一般に『セアンス』と称される「シャ―マンと憑霊患者を中心とする集団儀礼においては、両者ともに憑霊状態におかれていることになる。」この場合、シャ―マンも患者・依頼者も等しく霊に憑かれているのであるが、両者の憑霊の性格には著しい違いが三点ある。


@シャ―マンはその役割をはたすのに不可欠の条件として、神や精霊(守護霊)を自発的、積極的に招き、みずからに憑依させるのにたいして、憑霊患者は意図的に霊を呼び出してみずからに憑かせたわけではなく、それは不幸で偶然の出来事として受けとめられることが多い。(「自発的憑霊」と「非自発的憑霊」)


A普通の(非自発的)憑霊においては、その人物の行動が、つねに他人にたいして何か特別なメッセ―ジを送るとは限らない。それは基本的には、精霊の顕現を身体的に表現してるものと見なされる。ところが、シャ―マンにあっては、“交通・交流”に強調点がおかれる。超自然的存在は単にみずからを表現するのみではなく、人々に対して何事かを伝えるものと見なされる。非自発的に憑霊された人物よりも、より高度に“統御(コントロ―ル)”されている。


B非自発的憑霊においては、憑霊する霊は一般に悪しき属性を有し、社会によっても異なるが、当該社会のパンテオン(神統)の下部に位置するものが多い。これにたいして、シャ―マンに憑依する「守護霊」は、総じてその社会において不幸、災害をもたらすような超自然的存在を駆逐し、排除できるほど強力でなければならない。

◆シャ―マンの祖神、祖霊、又は、何らかの関わりのあった動物霊(パワ─アニマル)などが守護神、守護霊となる場合が多い。


なお、シャ―マンの中には、最初に“非自発的憑霊”を経験し、最後に“自発的憑霊”によって役割をはたす職能者になってゆく者が少なくない。夢や幻覚、幻聴が続き、ときおり神が姿を現して話しかけたり、身体に触れたりする。こうした経験と並行して身体の調子が狂い、憂うつな日が続く。シャ―マンを訪ねて相談すると、神がその人物に“神に仕える者”になるよう勧めているのだから、神の道に入りなさいと忠告する。種々の事情から忠告に従わず、普通の生活に執着していると、心身異常は増幅し、命にかかわるといわれる状態にまで進む。

 シャ―マンの忠告をいれて神の道に入り、みずから神(守護霊)の憑依をうけるようになると、心身異常は消え、やがて超自然的存在と人間とのいろいろな関係を意図的に統御できるようになる。“召命型のシャ―マン”に見られる『シャ―マン化の過程』である。
  


佐々木宏幹著『シャーマニズム』(中公新書)より


※佐々木先生は宮城県気仙沼市出身です。十数年前にお会いした際にはペーパーナイフを頂戴したことがあります。


[190] ●“ヘリカアル・ライジング”・・太陽暦も「ナイルの賜物」??? Name:道開き Date:2014/05/14(水) 10:11 
今日、世界的に普及しているグレゴリオ暦は、古代ローマ時代のジュリアス(ユリウス)・シーザーが制定したユリウス暦を改暦したものです。そのユリウス暦はというと、遠征先のエジプトで使用されていた太陽暦を基にして策定されたものとなります。

「エジプトはナイルの賜物」と云われますが、毎年同じ時期に起こるナイル川の氾濫は、古代エジプト人に穀物を生産するために必要な肥沃な土壌のみならず、1年を365日とする太陽暦をももたらしました。


◆ソティス(シリウス星)
古代エジプト人が何故、シリウス星を重要視したか。それは、全天で一番明るい星であったということもありますが、もう1つ、当時はシリウス星が太陽に近接して、約70日程姿を隠した後、日の出直前に現われるようになると、程なくしてナイル川の増水が始まる現象が確認されていたからです。このシリウスの“ヘリカアル・ライジング”(日の出前出現)する日が、エジプト暦の元旦とされました。ユリウス暦でいうところの 7月19日頃です。
シリウスは、太陽神ラーの娘で、エジプトのみならず古代地中海世界で最も信仰を集めた女神イシス(ソテイス、ソプデト)の化身ともされていました。


しかし、エジプト暦が生まれた当時はナイルの氾濫予測に有効であったシリウスの“ヘリアカル・ライジング”でしたが、シリウス自体の固有運動(恒星もそれぞれ固有の運動をしており、少しずつ位置が変化する)と歳差(地球自転軸の向きが約 25800年の周期で移動する運動)の影響でその時期が変化し、洪水予測には使えなくなってしまいました。

シリウスは、エジプト文明の黎明期にたまたま偶然に洪水予測に適する位置にあったのでした。つまり、時代が少しでもずれていたならば、古代エジプト人は1年を365日とする太陽暦(正確に言えばシリウス暦〈恒星暦〉)を手に入れることはできなかったということになります。

実際にファラオが使用した公式の暦は、1年=365日で、4年毎に生ずる1日のずれは考慮されておらず、「うるう日」の概念はありませんでした。このずれについて、エジプトの神官達は知っていたようなのですが、元旦は、ソティスの出現、及びナイルの増水からどんどんずれてしまいました、それが再び一致するまでの365×4 = 1460年を「ソティス周期」(シリウス周期)といいます。「ソティス」とはエジプトでのシリウスの呼び名です。

4年に一度の「うるう日」を入れるようになったのはBC. 238年のことです。なお、ソティス日とシリウスの出現がきちんと重なった記録としては、紀元139年があり、これの逆算により、太陽暦(ソティス暦)の発祥は、BC.1321年、BC.2781年、あるいはBC.4241年頃ということになりますが、BC.4241年頃という説が支持されているようです。


◆エジプト暦
エジプト暦は、30日を一月とする12ヶ月と、最後の月に付け足される 5日間の余日をもって 1年としていました。(12ヶ月 × 30日 + 5 = 365日)
1年を12ヶ月に分けている点を見れば、もともとの原始エジプト暦も太陰暦であったことが推察出来ます。



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※参考  「古代地中海世界」について



《@多神教の土壌》

古代の地中海世界の信仰形態はというと、各地域とも数多くの神々を崇拝する、いわゆる多神教でした。オリエント(メソポタミア、エジプト)、ギリシア、ローマ、小アジアのいずれの地域でも特に篤く信仰されたのは“愛と豊穣と多産をもたらす地母神”、即ち“女神”たちです。
シュメールのイナンナ神、アッカドのイシュタル神、カナンのアナト神、小アジアのキュベレ神、フェニキアのアシュタルテ神、エジプトのイシス神・・・・・ギリシアのアフロディーテ神(ラテン語名はウェヌスであり、英語ではヴィーナス)等・・・・・

アレクサンドロス大王の東征に始まる「ヘレニズム期」(BC3世紀頃)には、各地域間の交流も盛んとなり、“信仰の融合”が起こりました。つまり、これらの女神たちは同一神であるとの解釈がなされたりするようにもなります。
膨大な『世界宗教史』を著した宗教学者のエリアーデなどは、“ヘレニズムの宗教融合”は人類史上の大事件であったとさえ指摘しています。

やがて、ヘレニズム世界は共和政ローマに飲み込まれ、それらの地域の神々が後のローマ帝国内に流れ込みます。
いずれも救済宗教〈教団〉のかたちを取り、エジプト系のイシス、小アジア系のキュベレ、イラン系のミトラ(歴代の皇帝たちから尊崇を受け、後に大天使ミカエルとしてキリスト教に取り込まれた)、ギリシア系のディオニソス(バッカス)などは、特に民衆の心をとらえました。
※唯一神ヤハウェを崇拝するキリスト教もこれらの救済宗教と同様にローマに入りました。

小アジア系のキュベレ女神などは帝政期の貨幣にも刻印され、公認の祭儀が捧げられていました。なぜこの異国の女神がローマの貨幣にまで刻印されたのか。それは、前216年のカンネの戦いで、ローマがハンニバル率いるカルタゴ軍に大敗北を喫し、数万の兵士を失った際(その戦死者数を上回る戦闘は第一次世界大戦までなかったといわれるほど)、その原因を自分たちがあがめるべき神への崇拝を怠ったからではないかとの自問に至ったことによるとされているみたいです。
つまり、当時の地中海世界で広く霊験あらたかと信じられていた巫女シビュラの予言にうかがいを立てたところ、小アジアのキュベレ女神であると出たため、女神の聖石をローマの都に迎え入れて祭礼を行った後に大勝利した事に因むようです。

※後に、キリスト教会の権威が強まりすぎて「暗黒の中世」と呼ばれるようになった時期には、これらの巫女シャーマンたちは悪魔を崇拝する魔女として裁判に掛けられ火あぶりにされました。いわゆる「魔女狩り」です。
信仰の多様性、寛容性を失い、どうにもならないところまで行き詰まった中世キリスト教社会でしたが、14世紀、古代ローマの中心地だったイタリアで、“ルネサンス(文芸復興、古代復興)”という精神運動が起こり、天才たちが描いた芸術作品上に古代の神々が甦りました。(ボティッチェリの絵画「ヴィーナスの誕生」などに見られるように・・・)

※“悪魔”という概念
古代メソポタミアにおいては、神々に対する祭礼の儀式を怠ることはありませんでした。それでも不幸な出来事は起こり、それには何かが神々の意志に反しているからだと考えられ、罪を意識するようになります。罪に対しては罰が宣告されます。それを執行する者こそが悪魔でした。専業の呪術師により、聖水や薬草を使用した「悪魔祓い」が行われ、呪文が唱えられました。
映画『エクソシスト』の冒頭のシーンも、メリン神父がメソポタミア(イラク)の古代遺跡を発掘中に悪魔ルシファーの像が掘り出されたところから話が始まります。


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《A一神教の起源》

映画『十戒』に描かれているのは、預言者モーゼがヘブライ(イスラエル)の民を率いてエジプトから「約束の地」カナンに向かったという、旧約聖書の中の一節「出エジプト記」です。

旧約聖書の伝承では、ヘブライ人の族長アブラハムの一族はメソポタミアの都市国家ウルを出て遍歴をつづけ、いったんカナンの地に入ったあと、孫のヤコブの世代にエジプトの地に寄留を許されたと記されています。その後、その地で子孫を増やしましたが、エジプトから長年にわたる過酷な労働を強いられたとされています。

★アクエンアテンの一神教
古代エジプトの信仰は太陽神ラーを中心とする多神教です。特徴としては、強烈な“来世信仰”が挙げられ、あの世での復活が説かれる『死者の書』が有名です。

さらに、神々ですら従わなければならないとされる“マアト”という概念が挙げられます。それは、「真理」であり、「正義」であり、「秩序」であり、「法則」でもありました。ギリシア人の基本的価値観である「真、善、美」を一つに合わせたようなものだともされています。

その様な伝統的多神教のエジプトで、新王国第十八王朝のアメンヘテプ四世(BC14世紀)はアテン神(太陽神ラーの別名らしい)のみを唯一神としてあがめる宗教改革を断行し、ほかの神々への信仰を禁じます。みずからの王名もアクエンアテン(「アテン神に有用なる者」)と改めました。しかし、この王の死後、すぐに伝統的信仰に戻り、唯一神信仰がエジプト社会に根づくことはありませんでした。

やがて、太陽神ラーの娘ともされる慈愛あふれる愛の女神イシス信仰がローマを始め地中海世界全域に広がって行くことになります。

「出エジプト記」を、このエジプトの唯一神崇拝者集団が国外追放のなかで蒙った苦難の物語ではないかとする研究者もいます。精神分析学の草分けであるフロイトなども、預言者モーゼはエジプト人であり、アクエンアテンの唯一神への信仰をヘブライの民に伝えたものではなかろうかといった説を唱えています。

★ユダヤ教の成立
映画『十戒』といえば、モーゼがヘブライ(イスラエル)の民を率いてエジプトから逃れる途中、紅海の水が二つに分かれて道ができるスペタクルシーンが最も有名ですが、シナイ半島に辿り着き、40年さまよった後に「約束の地」カナンに定住します。

映画では、シナイ山でモーゼが神から「十戒」を授かる際に、イスラエルの民が偶像崇拝をして狂乱騒ぎをするシーンがでてきます。これは一時期、ヘブライの民が、農耕民だったカナン人の主神バアル(嵐の神、豊穣と多産を約束する神)信仰へと傾いた史実を現しているようです。

ダヴィデとソロモン王の時代に栄華を極めますが、前587年に新バビロニア王国にユダ王国が滅ぼされ、イスラエルの民は都バビロンへと連行されます。(「バビロン捕囚」)
その後の三世代にわたる受難の歴史の中でユダヤ教が成立します。エリヤ、アモス、エレミヤ、エゼキエル、イザヤなどの預言者がでて、イスラエルの民がバアル神崇拝などに染まることを激しく非難し、モーゼ以来の「律法」を厳しく守っていくようにと主張します。

●ゾロアスター教
BC14〜10 世紀頃(詳細は不明)、伝統的多神教であったイランで、預言者ゾロアスターによって創始されたゾロアスター教も唯一絶対の神アフラ・マズダを崇拝します。その教義は、「善と悪」、「光と闇」といった“二元論”に集約されます。後のローマに入ったミトラ教や、キリスト教、イスラム教の説く「天国と地獄」「天使と悪魔」の概念にも強く影響を与えたとされています。
なによりも「善行によって救済される」ことが強く説かれました。

●イスラム教
6世紀後半、多神教を伝統として来たアラビア半島で、唯一神アッラーからの啓示を受けたムハンマドが、ユダヤ教とキリスト教を土台に発展させた一神教の厳格な信仰を説きます。

イスラム教では、「旧約聖書」はもちろん、「新約聖書」も神から与えられた啓典と認めていますが、「ユダヤ教徒とキリスト教徒は、それらの内容を誤って伝えている」と主張しています。神が最後に地上に遣わした預言者ムハンマドを通して授けられた「コーラン」こそが、旧約、新約の二つの聖典を確証づける最も優れた啓典だとしています。



◆◆「一神教と多神教」の境目◆◆
一神教の中にも多神教的側面があり、多神教の中にも一神教的な側面があり、その区別はかなり曖昧であるとされています。
例えば、キリスト教のカトリックなどはかなり多神教的です。それは原始キリスト教の時代に他の異教の信仰を取り込んだ際の痕跡を多く残しているからです。

★“天使”信仰
ゴッドの手足となり、つまり、唯一神の使いとして働くのは数あまたの天使たちです。これを、神道的な呼称でいえば、八百万(やほよろず)の神々たちであり、大天使ミカエル大神とか、ガブリエル大明神とでもなりそうです。仏教的に表現すればミカエル天とか、ガブリエル菩薩とか、モロニ−大権現とでもなるのではとも考えられます。
又、神道の中にも、天御中主神(あめのみなぬしのかみ)といったゴッド的な神様もおられるし、仏教でも大日如来とかはそうです。

さらに、同じ宗教内でも、宗派によってかなり神観念が違ってきます。神道にもかなりキリスト教的な教派もありますし、仏教の真宗なども阿弥陀仏の唱名が第一で、かなりキリスト教的です。

★“聖母マリア”信仰
地中海世界が「ローマの平和」の中に統合されていくとき、各地域の“女神信仰”はエジプト伝来の“イシス信仰”に集約されていきます。キリスト教はそれをさらに“聖母マリア信仰”に読み替えていきます。マリアとイエスの「聖母子像」などはイシスとホルスの像の転用だとされています。これら女神たちがまつられていた神殿の場所に教会を建立することを奨励しました。

しかし、それは“女性原理”の受容としては不徹底であり、そこに一神教宗教の最大の課題が残されたとされているようです。
いく度かの宗教会議を経た後、マリア信仰を認めないネストリウス派(景教)が分離したりもしましたし、プロテスタント(新教)諸派も聖母崇拝の観念は薄いです。

★祭礼・風習
「クリスマス」はミトラ教の冬至の祭礼を、「カーニバル(謝肉祭)」はゲルマンの春の到来を喜ぶ祭を、「ハロウィン」はケルトの収穫感謝祭を取り入れたものだとされています。

★“聖人”崇拝
布教の際に弾圧を受けて亡くなった殉教者たちを積極的に称揚することが行われました。「諸聖人の日」が定められ、「聖像(イコン)」が使用されるようになります。


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《Bスピリチュアルな問題について》

古代オリエント世界においては、「死者の書」をもつエジプト人と「最後の審判」を説くゾロアスター教のペルシア人(現イラン人)を除いて、明確な来世観を持った人々はいなかったようです。

★エジプト
何と言っても、しっかりとした来世観が示されていたのはエジプトです。マアト(真理)に従い、心正しくそれを守って生きれば、人は必ずあの世の神々のもとで幸せに暮らせるという約束がありました。死の問題については、希望や救いが人々の心を支えていたようです。
地中海全域に広がったエジプトの女神“イシス信仰”の根底の部分にはこの来世観があり、それで人々に迎え入れられたのだとも考えられます。

★ペルシア
ペルシアのゾロアスター教では、魂における善悪の葛藤の中、正義に従って善行を重ねた者だけが救済され、死後の「最後の審判」において天国に行くことができるとされました。ローマ帝国内で隆盛を極めたペルシア伝来の“ミトラ教”の根底部分には、この来世観があったようです。

※イシス信仰やミトラ教にくらべてキリスト教の場合は、度重なる弾圧を受けたこともあってか、4世紀に入ってからローマ帝国から公認され、後に国教とされましたが、さほど大きくもない教団だったようです。コンスタンティヌス帝により国教化されたことで、短期間の内に教勢が広がったとされています。

★ギリシア
古代ギリシアやローマでも、死後の世界は「沈黙と暗黒の黄泉の国」でしかなかったようです。神々に対する共同体の祭祀は捧げられましたが、個人の信仰、死後の来世観については希薄だったようです。「生あるうちに人生を楽しめ」といった人生観が存在しました。

そういった中でも、古代ギリシアにおいては、「不死なる神々の世界に近づき、生と死を連続したものとして感じよう」とする人々もいたようです。その中でも、前15世紀頃の「エレウシスの密儀」は名高いものがあります。こういった個人あるいは私人としての密議宗教の中から、しだいに“魂”という観念が生まれたとされています。

中でも「オルペウスの教え」といったテキストが伝わっており、それらがギリシア人の一部では重んじられていたようです。「肉体と魂との二元論」「魂の転生」の概念が、数学者ピュタゴラス、哲学者ソクラテス、プラトンに多大なる影響を与えています。

「魂はすべて不死なるもの」、「魂は人間の形の中に入る前にも、肉体から離れて存在していたのであり、知力を持っていた」、肉体はわれわれを閉じこめる監獄であるから、死は「魂の肉体からの解放」であり、人生の目的は、来世で神々と共に生きるために、魂を磨き浄化することにある。 (ソクラテス)

「魂は犯した罪のために償いをしており、拘束されるために牢獄にかたどった囲いとして、身体を持っている」、「死骸となった肉体は死者の影のようなもの・・自己の行為を報告するために、〔死後は〕あの世の神々のもとへ立ち去っていくのだ」 (プラトン)

※オルペウス教徒やピュタゴラス派は自分たちの謎めいた教義を隠そうとしていたようですが、ソクラテスとプラトンはおおやけにして議論しています。


[189] ●“太陽の暦”&“月の暦” Name:道開き Date:2014/05/01(木) 14:37 
太古の人たちは、月が約30日かけて形を変えていくことや、太陽の高さや昼夜の長さが約365日周期で変化を繰り返し、それに伴って季節が推移していくこと、新月(1日)や満月(15日)になると海は大潮になる(正確には1〜2日後)といった、潮の干満と月との関係・・・等をかなり詳細に把握していました。

イギリスのストーン・ヘンジ、日本の東北地方に残る縄文時代のストーン・サークル、エジプトのピラミッドなどの古代遺跡群をみても、そのことが容易に理解できます。特に、夏至、冬至、春分、秋分といった「二至二分」などは完全に把握していたようです。

こういった、絶え間なく繰り返す太陽や月の運行を正確に把握して、自分たちの生活のリズムとして役立てていこうという試みが暦を生みだしました。


◆暦法◆
暦は、人類にとって社会生活を営む上で必要不可欠なものであり、いわば生活規範ともいえるものです。暦法を大きく分けると、太陰暦、太陰太陽暦、太陽暦の三つがあります。他にも、自然暦、恒星暦といったものもあります。


◎自然暦
文化の未熟だった時代の原始的な暦法です。四季の推移によって生じる気象、動植物などの変化を観察して、一種の生活暦としたもの。季節変化をもとにしている為、必然的に太陽暦に近くなります。一年を通算しなかったり、日数も数えず、均等な月を用いなかったり、何月何日という認識を持たない場合もあります。
生活体験の累積によって決められた暦なので、地域限定的なものとなります。稲作を始める時期を知るための「種まき桜」や、ある特定の山の残雪の形象が翁(おきな)のかたちに見えると、「種まき爺さん」が姿を現わしたとして稲作の開始時期を知る風習などは、一種の自然暦とも言えます。



●太陰暦
人類が最も早い時期に暦として体系的に利用したのは月の満ち欠け(朔望)でした。即ち、月が地球を一周する際の周期的変化である朔望月(平均29.53059日)を基準として定めた暦が太陰暦です。十二朔望月(平均354.3670日)を一か年と定める為、純粋な太陰暦の一か年は、一太陽年(一回帰年)より約11日短くなり、実際の季節の推移に暦上の月日が合わなくなり、農耕等にとって大変不便になるという欠点があります。イスラム暦がその好例です。



●太陰太陽暦
太陰暦に季節変化〈二十四節気〉など、太陽暦の要素を取り入れて作られた暦です。
中国においては、すでに殷の時代(BC17世紀〜BC11世紀)には用いられていたとされています。日本における明治五年以前の旧暦や、ユダヤ暦・ギリシア暦・バビロニア暦などもこの暦法の一種です。
太陰暦の一か年は一太陽年より約11日短くなるので、大の月(30日)と小の月(29日)とを組み合わせ〈連大法〉、ほぼ三年毎に閏(うるう)月を設けて〈置閏法〉、暦と季節とのずれを補正しました。したがって、同じ月が二度ある年もあり、暦の上での一年は、日数が一定ではありませんでした。


※《連大法》
月の地球に対する公転の長さは平均29・530589(朔望月)なので、約0.5日の端数が生じる。(実際の月の運動は不規則で、秋から冬にかけては遅く、春から夏にかけては速い)この端数を処理するためには、29日の「小の月」と30日の「大の月」とを繰り返せばほぼ満足できるのだが、33.3か月ごとに一日分の誤差が生じてしまう。そこで、「大小大小大小・・・・・」という組み合わせを33か月(2年と9か月)続け、それに一回の「大の月」を重ねることでほぼ解消できる。つまり、この周期の終わりに「大大」と二か月「大の月」を重ねる方法を「連大法」という。
このやり方を「平朔法」というが、朔と望などがずれることが起き、日食が月の一日ではなく、月食が月の15日か16日でない日に起こることになる。その後の天文学の発達とともに、月の実際の朔望に暦を正確に合わせる「定朔」法が取られるようになる。


※《十九年七閏法》
BC.6世紀頃には、19年に7回の閏月を置く「十九年七閏法」が発見され、ギリシアではBC.5世紀のアテネの天文学者メトンが提唱したとされて「メトン法」と呼ばれ、中国では十九年を一章としたところから「章法」と呼ばれた。




●太陽暦
太陽の黄道上の運行周期を元にして作られた暦法で、地球が太陽の周りを一周する一太陽年(一回帰年)の長さに基づき暦年を設定しています。季節とのずれはないが、月の運行(月の満ち欠け)は考慮されない為、月の周期と一致しない欠点があります。

一か年を365日とし、四年毎に閏(うるう)年を置き、一日を加えて366日として補正します。現在、世界の共通暦として用いられているグレゴリ暦や、それ以前に用いられていたユリウス暦、そして、エジプト暦、マヤ暦も太陽暦の一種です。

現在、オリンピックが開催される年の二月の日数を29日と定めて閏年としているが、100年目ごとの年は、その西暦年数が400で割り切れるときだけを閏年とする。即ち、一太陽年は、平均365.2422日だが、長い年月の間に生じる狂いを、400年の間に三日間を閏年としない決まりによって調節している。それ故、1700年、1800年、1900年は閏年とせず、1600年、2000年は閏年となる。
1582年、ユリウス暦からグレゴリオ暦に改暦したのは、この規定を付け加えることによって、1年に11分14秒ほど、128年で1日長くなるという誤差を無くするためでした。それにより、約3300年で1日の違いを生じるだけの正確な暦法となりました。


[186] ●「日本は極東のスイスであれ」と意図したが・・・ Name:道開き Date:2014/03/31(月) 11:52 
最近テレビで、マッカーサー道路についてのニュースをよく耳にします。虎ノ門から豊洲に至るこの道路は、実際は関東大震災後に後藤新平らによって策定された計画の1つだったらしく、帝国議会の反対によって計画が廃止されたということです。終戦後も、環状2号線として都市計画が決定されたが、当時のGHQは「敗戦国に立派な道路は必要ない」「これでは戦勝国の記念道路のようだ」と、むしろ反対の立場を取ったみたいで、GHQが虎ノ門の米国大使館と湾岸エリアをつなぐ軍用道路の整備を計画しているとの噂から、マッカーサー道路と呼ばれたらしい。

この道路が開通したなら、人や車の流れが変わるだけでなく、街そのものが一変してしまうことでしょう。一地域の道路インフラ1つを取ってもそうなのだから、国の制度を変えると世の中が一変してしまうのは当然のことだと思われる。その様な政治・経済・文化に関わる大改革が、日本を占領した連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーによって、70年前の日本で行われました。

マッカーサーと聞くと、ついつい、元通産官僚の目で歴史を詳細に分析する、堺屋太一・元経済企画庁長官の著『日本を創った12人』を想起してしまうのだが、以下はその中からの抜粋となります。

「財閥解体」「農地解放」「労働組合の確立」、六三制、PTA活動、ホームルーム等の「教育改革」、スクリーン(映画)・スポーツ・セックスの「三S」といった「アメリカ文化の普及」と「日本的精神主義の否定」、「男女平等」、天皇制を支える基盤と考えられた「日本的大家族制度の廃止」・・・・・と、政治・経済・文化面での様々な改革を行っているが、

外交面では、日本を「対米追従」にすることができ、マッカーサーの意図はほぼ完全に成功したとされている。日本側も経済的に大きな利益を得たが、安全保障に関する意識の低下をもたらした。
政治体制面では、「投票制民主主義」と「地方自治」との組み合わせは急速に空洞化してしまい、「中央官僚集権型」になってしまった。
経済面でも、中小企業と小規模自作農の自由競争社会というマッカーサーの意図は急速に外れ、官僚主導の官民協調、業界内談合体質へと戻ってしまった。

といったように、マッカーサーの意図は、その通りになった部分、ならなかった部分、日本的な風土にマッカーサー的思想を入れた結果、一種の科学的変化を起こして別物が生まれた部分等、いろいろな面があるのだという。


◆参考
以下に、「農地解放」を参考として取り上げてみます。

「財閥を解体し、再び財閥が出来ないようにアメリカ型の独占禁止法を布いて、中小企業を発達させる。同時に農地を解放し、小作をしていた人々が土地を持てるようにする。土地を持った農民は保守化するので、大都市集中にはならないだろう。小規模自作農と農村に点在する中小企業の国なら、軍事産業は発展しないから再び世界に害を及ぼす国にはならず、平和で美しい国になるだろう。日本は東洋のスイスであれ」と考えた。

小さな農地を得た農民たちは、マッカーサーが考えた通り、土地を大切にして農業を続けたし、農林省も小規模自作農を優遇した。だが、その子どもたちは中学か高校を卒業すると、さっさと都会へ出て会社に勤め出した。このため小規模自作農は高齢化し兼業化した。
皮肉なことに、中高年が農村に残り、若者だけが企業に勤めた結果、この国には「年功序列」と「終身雇用」の閉鎖的雇用慣行が生まれ、大企業の経営を拡大するのに役立った。「経営の五五年体制」を確立する上で、若年層だけが雇用できたのは企業にとって有り難いことであった。

しかし、小規模自作農の創出は、社会的に見ると、マッカーサーの意図を実現するのに役立った面もある。それは、「家族制度を解体」したことである。農地改革のおかげで、父母は農村にいるが、中学や高校を卒業した子供たちは大都会に出てサラリーマンになった。このため、親と子の居住地が引き離された。日本の家族は、物理的な居住地の分離によって核家族化したのである。会社の寮や社宅に住んで、家族を養わなくてもいいから安い賃金で働くという仕掛けを生み出した。日本にあまり大きな工業力を持たせたくないというマッカーサーが考えたのとは逆のことが起こってしまったのである。

日本の家父長を核とした家族制度を、天皇を長とする国民国家の原型、日本的封建社会の根本と見ていた。ヴィットフォーゲルなどの古い社会学者のいう「アジア的専制」を、そのまま日本にも適用した見方である。
だが、実際には家族制度の破壊は「会社人間」を大量に生み出し、規格大量生産を実現することになったのである。要するに、マッカーサーの日本改革は、日本人の倫理観と美意識を変え、家族制度や地域構造を改め、社会階層を一変させた。しかし、官僚主導の体制を打ち破ることはできなかったし、規格大量生産の近代工業社会を形成するという明治以来の日本人の夢を実現する上では、むしろ大きなプラスになった。精神主義の否定が、日本人を「会社人間」の「エコノミック・アニマル」にしたのである。



◆◆◆◆◆
当時のアメリカの頭脳が結集したGHQの想定ですら、これほどにズレてしまうのである。
今回の東日本大震災による原発事故では、“運良く”日本は国家の滅亡から免れることが出来た。人が想定する事は外れるものだと考えた方がよいと思う。
「想定外」などという言葉を使用することのないよう、ありとあらゆる想定をしてもらい、何十年か後の全原発廃止まで、決して電源喪失といった事態を起こさないようにしてもらいたい。

今度同じ様な事故が起きたならば、再び“天佑”が得られるとは限らない。おそらく日本は終わってしまうでしょう。そうしたら日本人は祖国を持たない民族となってしまいます。一時は同情されてもその後は、戦前のユダヤ人みたいに世界中で虐げられ続けることになってしまいます。


[185] ●「目には見えない苦労」 Name:道開き Date:2014/03/13(木) 07:34 
昨年、宇多田ヒカルさんの母親で、演歌歌手の藤圭子さんが夭逝されました。藤さんは、幼い頃から、浪曲師だった父親と三味線奏者〈瞽女(ごぜ)でもあったらしい〉の母親に連れられて旅回りをし、農家の納屋を借りて寝泊まりをしたこともあったそうです。歌手引退後には、音楽プロデューサーの宇多田さんと結婚され、アメリカで愛娘のヒカルさんを育てられたということなども、何となく、テレビで見知ってはおりました。

その後のヒカルさんの才能の開花は、“アメリカ在住の音楽プロデューサー”の夫と共に、優秀な音楽教師を付けたりして、ワールド・クラスの英才教育を施してきた成果なのだろうとも考えていました。(悲しいかな、横文字のカタカナ職名の肩書きに弱い日本人の一人でもある自分・・・)。
ところが、昨年のメディア報道により、実際は、北海道・東北からアメリカに舞台を移しただけの、映画『はなれ瞽女(ごぜ)・おりん』風な、現代版「風雪流れ旅」とでもいった、芸能ファミリー(一家)生活を送っていたということでした。

宇多田ヒカルさんから生まれ出た数々の名曲は、シャーマニズムの賜物であることは間違いないでしょうから、あれだけの素晴らしい曲が世に生み出されるための下準備は、見えない形でシッカリと進んでいたということになるのでしょう。ヒカルさん自身も、生みの苦しみを、幼い頃から家族と共に担い続けてきたのでしょう。

「人は、他人の成功したところだけ見て羨ましがったりもするけれど、その人がそこに辿り着くまでに積み重ねてきた苦労がどれだけのものであるかは見えないもの」と美輪明宏さんがよく語られるお話などは、本当のことだと思います。



★参考 《芸能と陰陽道との関係》

日本には、古来、“伝統的祝福芸”という系譜があります。

「お・め・で・と・う・ご・ざ・い・ま・す!」

と、お祝いの言葉を述べながら、傘を用いて、ありとあらゆる物を回してしまう、染之助・染太郎師匠の、やたらと明るい祝福芸が思い起こされます。そのルーツを探っていくと、【ホカイビト(祝祷人)】に辿り着きます。

★★★★★★
●【ホカイビト(祝祷人)】
諸国を漂泊しながら、「祈祷(きとう)」とか、ある種の呪術的「芸能」を生業とした人たちのことを言います。いわゆる“門付(かどづけ)芸”の源流に位置し、相手の一家の幸福と繁栄を祈願して舞いながら、祝言(しゅうげん)を述べるという形態をとりました。今日でも行なわれている?・・・歌手や芸人が地方巡業を行なう「ドサ回り」だとか、「流し」などといったもののルーツはこの辺にありそうです。

食物を容れて持ち運ぶ【行器(ほかい)】を持っていたので、【乞児(ほかいびと)】とも呼ばれました。その【行器(ほかい)】は呪具を収める容器でもあったとされています。
つまり、古代の遊行神人は、言祝ぎ(ことほぎ)の寿(ほかい)を述べる【祝言人(ほかいびと)】であると同時に、門 (かど) 毎に食物を乞う【乞食人(ほかいびと)】でもあったということです。

人を祝福するという呪術的行為は視点を変えれば、人を呪詛することも可能となります。つまり、【ホカイビト】と一口に言っても、【唱門師(しょうもんし)】や、【陰陽師】、【山伏(修験者)】などをも兼ねた者も多く、その辺の定義は判然としない部分が多いようです。

●【唱門師(しょうもんし・声聞師)】
現在の漫才(万歳)の祖とも言える【千秋万歳(せんずまんざい)法師】のことで、一般には民間の【陰陽師】と見なされ、通常は寺院に隷属し、寺院の掃除などの雑務をしながら、祈祷を行ったり、暦を売ったりしていました。

●【七道(しちどう)の者】
大和地方においては、奈良の興福寺に隷属する形で、
@【猿楽】 A【歩き白拍子(しらびょうし)】〈平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及び、それを演ずる芸人。男装の遊女が今様や朗詠を歌いながら舞ったもの。〉
B【歩き巫女】〈口伝の呪文を唱えて“巫女舞”をしながら神憑りとなり、“口寄せ”という託宣をおこなった。〉、
C【歩き横行(おうこう・陰陽師の一種)】、 D【鉦叩き”(かねたたき)】、 E【鉢叩き(はちたたき)】、 F【猿飼(さるかい・“猿回し”のこと)】といった職業を持つ者たちのこと。【猿回し】は、もとは馬の安全息災を祈る儀式に用いられていました。


★★★★★★
さらに、“舞踏”と「陰陽道」との関係について。

★“田楽(でんがく)”は、もともとは寺に属していた呪師の芸を様式化したもので、やがて、“狂言”や“能楽(猿楽)”と成って行きます。いずれにせよ「穀物の豊穣祈願のための呪術的祭祀」といった考え方がその根底にあります。

そういった“田楽”などの諸雑芸を“能”として集大成させたのが世阿弥(ぜあみ)です。その著書『風姿花伝(花伝書)』は、まるで「陰陽道の秘儀書」といった側面を持ちます。

★“能”、“歌舞伎”などの、舞台を踏みとどろかす所作は、陰陽道の「反閇(へんばい)」という呪術的行為につながります。“相撲”の四股(しこ)を踏むという行為も「反閇(へんばい)」の変形であるとの説もあります。

つまり、舞踏というもの自体が呪術的所作であり、舞踏者は一種の呪術師でもありました。“能楽”には、神が宿るとされた翁(おきな)や、死者や鬼などが登場しますが、そういったことの現れです。


[184] ●土地柄こそを第一に Name:道開き Date:2014/02/20(木) 08:57 
酷く傷ついたこの被災地・野蒜の手当が本格的に始まろうとしています。3年が経過してようやく堤防や嵩上げ道路の工事が始まろうとしているのです。当地域では高台集団移転地の山土を利用して元地の諸工事のほとんどを押し進める計画なので、他の地区に比べて進捗状況がかなり遅れているようでもあります。しかし、「今年が復興元年になるのだ」と思うと希望がふつふつと湧き上がって来るのも確かです。目に見えて復興が感じられる明るく輝いた年になるのが楽しみです。

とにかく「蝦夷地(えぞち・東北地方)」らしい、「奥松島」らしい景観に復興させていくことが第一だと考えます。何処の国のどういった地方なのかが分からなくなるような地域にだけはしてもらいたくないのです。観光客は「奥松島」の景観や風土を求めて来訪するからです。被災したショックで、多くの方たちが郷土に対する自信を失い、地元の良さが見えなくなっている時でもあるので、バブル期に乱立したの「オランダ村」だとか「ニュージーランド村」の様な奇をてらうだけの施設などは造ってもらいたくないです。千年先、万年先を見据えた「土地柄」を大切にした町作りをして行きたいものです。


●安倍(安部・阿部)一族 
自分が現在、興味を持っているものを取り上げてみると、先ずは「縄文」であり、縄文文化を引き継いできた「蝦夷(えみし)」であり、現在の「東北」であり、そして、正史から突如として姿を消した古代氏族「物部(もののべ)氏」の祭祀ということになるのでしょう。

母親が石巻の阿部姓の家の出身ということもあって、必然的に、岩手県出身の直木賞作家、高橋克彦氏の著作に行き着くことになる。
『火怨・北の燿星アテルイ』では蝦夷の英雄・阿弖流為(アテルイ)と征夷大将軍・坂上田村麻呂を、『炎立つ』では安部貞任と源頼義・義家親子、そして、奥州・藤原氏と源頼朝・義経兄弟、物部氏の末裔たちを描いている。

奥州安倍氏のルーツを、「大化の改新」直後に蝦夷地遠征を行った阿倍比羅夫(あべのひらふ)にあるとし、遣唐使の阿部仲麻呂や陰陽師・安倍晴明なども、孝元天皇の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の流れを汲む阿部=安倍一族から出てきた人たちだという。
古四王(こしおう)神社など大彦命を祭神として祀った神社が秋田や岩手に多いのはそのためだとしている。

さらには、「国つ神」を祀っていた出雲地方をルーツに持つとされる、神武天皇の東征で征伐された大和(奈良)地方の土豪・登美能那賀須泥毗古(とみのながすねびこ、一般には長髄彦〈ながすねひこ〉)の姓が安日(あび)だったということだが本当だろうか???・・・・『古事記』『日本書紀』には書かれていないし、もしかしたら物部氏の伝承が記されている『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』だとか、偽書とされている古代東北の歴史が記された『東日流外三郡史(つがるそとさんぐんし)』などに書かれているのだろうか?????

物部氏のルーツは、間違いなく天つ神の御子・饒速日命(にぎはやひのみこと)と長髄彦の妹・登美毗女(とみびめ)の間に生まれた宇麻志麻遅命(うましまぢのみこと)にあります。

現在の安倍晋三総理の父・晋太郎氏は「うちのルーツは岩手にあって、厨川(くりやがわ)の戦いの後、伊予に流された安倍貞任の弟・宗任(むねとう)の末裔なんだよ」と、よく人に語っておられたということです。


ルーツ話はさて置き、とにかく蝦夷たちの戦闘能力は非常に強かったことだけは確かなようです。唐の歴史書『通典』には、日本からの遣唐使が一人の蝦夷を都の長安に連れて来て第三代皇帝・高宗に拝謁した際、その前で約50メートル離れた的を射させたところ百発百中だったと記されている。平将門が、板東において無敵の強さを誇ったのは、蝦夷との戦いを繰り広げていたからだということ。それならば、蝦夷はいかほどまでに強かったのかということになる。


自分の「縄文」「蝦夷」「東北」「物部」に対する思いは高橋克彦氏とかなり共通するところがあるとは思うのだが、しかし、何でもかんでも、「天つ神」対「国つ神」、「大和朝廷」対「蝦夷」の構図で描いたり、常に中央から搾取され続けてきた東北といった捉え方も、一面では真実ではあるのだろうけれども、歴史的・地理的必然みたいなものも勘案されるし、どこかの隣国のように何でもかんでも「反日」、みたいなスタンスだけは取りたくない。

近世のドイツやイタリアのように、個々の都市の力が強すぎて統一国家としての海外進出に出遅れてしまったという歴史もある。反中央、反権力だけでは国内がバラバラになってしまって、隣国を利するだけになると思われる。長い間、自分たちの国家を持っていなかったユダヤ人がどれ程までに虐げられ続けて来たことか。クルド人、ウイグル人、チベット人の苦難を見ていてもそう思う。蝦夷をそれと同じ括(くく)りにしてしまうのもちょっと違うように思われます。
「地方主権」的な考え方ではなく「地方分権」こそがベストなのだと思われる。「中央集権」だと官僚組織ばかりを肥大化させてしまうのでそれも良くないです。県や市は、単なる国の出先機関になってしまうからです。


[183] ●「里山資本主義」と田舎の神社 Name:道開き Date:2014/02/01(土) 06:57 
藻谷浩介著『里山資本主義』を拝読させて頂きました。「里山資本主義」とは、お金の循環が総てを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、お金に依存しない、「マネー資本主義が生み出す歪みを補うサブシステムを再構築しておこう」という考え方なのだそうだ。
つまり、大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動なのだという。確かに、“循環型社会”を目指す「スマートシティ」のシステムとも共通点が多いように思われる。

「天災はマネー資本主義を機能停止させる」「マッチョな解決に走れば副作用が出る」等、なるほどと思われる論点が多く見受けられる。東日本大震災やバブル崩壊後の政府の打ち出してきた様々な経済政策を見てきて、我々は多くのことを学んでいる。確かに、今あるものをどう使うかということはかなり重要なことなのだろう。

こういった考え方を神社に当てはめてみる。田舎の神社(民社の場合)はこれまでもずっと「里山資本主義」的なやり方で地域社会の信仰と向き合って来ている。そういったやり方でないとやっていけないのだ。マンモス教団や旧官社である有名大社の良いところは真似したいとも思うが、そのままのやり方を取り入れてしまったなら大変なことになってしまう。周りの様々な信仰とも折り合いよくやっていかなければならないのだ。

大東亜戦争当時、「別天神(ことあまつかみ)論争」というものがあった。軍部や官僚の間で、神道思想を一つの学説に統一する決定がなされた。『古事記』の造化三神他五柱の別天神(ことあまつかみ)を否定し、民族神としての「天照大御神」を唯一最高の神とする、宮内省掌典(しょうてん)・星野輝興の学説であったという。
それに対して異を唱えた当時の神道思想界の重鎮、葦津珍彦(あしづうずひこ)や今泉定助らの論文が発禁処分とされ、「天之御中主神」を重視する立場の論文なども次々と発禁処分となった。

葦津珍彦先生らは、このような国家権力を用いた神道思想を統一しようとする試みに屈することなく、猛然たる反対運動を起こして、逆に星野の著作を発禁処分に持ち込み、退官させることで事態の収拾をはかった。因みに、葦津先生は神道における“神憑り”の重要性についても語っている。

神道というものはそういうものなのだと思う。「あれも、これも、それも、みんなが神道なのだ」とした方が、極めて神道的であると思われるのだ。クールジャパンを象徴するものの一つ“居酒屋”のメニューの様に、和食のみならず、洋食、中華と、何でもありの方が、日本的であり、神道的なのだと思う。“ゆるキャラ“だって、フナッシーだけではつまらない。クマモン、遷都くん、小っちゃいおっさん等がいっぱい居た方が面白いのだ。



以下に、多少なりとも自説を記したいと思う。

今日の神社界では、暦の頒布・普及に務めているにも関わらず、神職教育の中に、「暦」や「陰陽五行説」に関する学習カリキュラムは組まれていない。 家庭祭祀には五つの柱が有
ると思う。

◎伊勢信仰 (神棚祭祀)
◎産土信仰 (神棚祭祀)
◎祖霊祭祀 (邸内社、霊舎、仏壇)
◎日本古来のアニミズム信仰(井戸神、竈(かまど)神等)
●旧暦文化 (暦神信仰、年中行事、人生儀礼)

だ。この中の何れかをないがしろにしても、家庭祭祀における他の信仰をも弱めてしまう。これらの信仰は総て互いに補完関係にあるのだ。年中行事や人生儀礼、各種のお祓いなど、暦が信仰の入り口となるケースは非常に多い。家庭祭祀が喪失されてしまった家では、神社との繋がりは希薄になってしまうのが必定だ。よって、暦の知識の習得は、神職としての早急な課題だとも考えられる。

明治18年には、國學院大學の前身である皇典講究所に請われて、高島易断で有名な易聖・高島嘉右衛門(呑象)が「神道実用論」と題する講演を行った。明治21年には、熱田神宮の神職等に請われて講演を行っている。余談になるが、民間人として最初に明治天皇に拝謁の栄を賜ったのも高島嘉右衛門だということだ。斯界がアカデミックになりすぎる以前にはそういった時代もあったのだ。

それが無理であるならば、せめて、神職教育の中に「民俗学」を必須科目として組み込んでもらいたい。國學院は民俗学のメッカでもあるのだから、それ程難しいことではないように思われる。神道古典の学習ばかりでは習得できない、民衆の信仰形態を学ぶことが出来るからだ。そうすれば必然的に暦の知識や仏教、道教の知識なども学ばなければいけなくなってくる筈だ。


[182] 丑三つ時に見る夢(幻影) Name:道開き Date:2014/01/28(火) 13:36 
数日前、又もや寝ている間に、夢の中で生々しくリアルな体験をした(ように思われる)??
その内容はというと、酷く破損した一台の車があり、その後ろ側に自分は立っていた。運転席側のウインドウから右手だけが一本外に出ていて、全く動かない。「男性の遺体だな。津波で亡くなられた方だろうか?」と思いつつ、左前方に目をやると、白い死装束の着物姿の男性が水から引っ張り上げられている最中で、びしょ濡れの状態で横にされていた。

その遺体を横目にそのまま歩いて行くと、突如として、狭苦しいほどに身動きの出来ない、真っ暗な密閉空間に閉じ込められてしまった。
その瞬間、私は「トホカミエミタメ、トホカミエミタメ・・・・・」と、“三種祓い詞”を唱え始めていた。すると、自分を閉じ込めて覆っていたものが取り払われ、輝かしいほどの光明に包み込まれた。

そこで目が覚めて時計を見遣ると、午前1時57分だった。やはり、いつも通り、この種の夢(orヴィジョン)を見る時と同じ「草木も眠る丑三つ時」であった。数日が経過してもなかなか色あせない真に生々しいヴィジョンの夢であった。

後になってよくよく考えてみると、自分が押し込められた狭く真っ暗な空間は、遺体を納める棺桶だったのではなかろうかとも思われた。この時刻に、自分が「トホカミエミタメ、トホカミエミタメ・・・・・」と“三種祓い詞”を唱えて防御に努めているというパターンの時は、間違いなく良くないことが起きていたのだと思われる。

私を葬り去ろうと考えている人の思いが生き霊となってやって来たのだろうか???それとも死に神か??? ・・・とにかく、こういった魑魅魍魎(ちみもうりょう)のようなものに対しては、キリスト教の祈り、仏教の念仏、陰陽道や道教の呪術といったものより、発祥も定かではなく、意味も不明な、縄文の代から伝えられて来たものとも考えられる、日本古来の「神ながら」(神道)の神言「トホカミエミタメ」が最も有用であると考えている。

このことについては、これまでにも幾度となく記してきた。神社界はもっとこういった無形文化遺産をこそ人類にとっての宝物として真剣に残していくことに努めるべきだと思う。私的には、神主になって最も喜ばしいことを挙げるとするならば、この神言に出会って、この言葉の持つ言霊と自分とが互いに交霊することが出来たことだと考えている。

明治・大正期頃までの神職には、こういった古伝を大切にしている人物も大勢いた。現在では、民間の神道系教団でのみ大切に扱っているようにも見受けられる。「中臣の祓い」を継承している「大祓詞」や、平田篤胤の作とされている「禊祓い詞」のみを大切に扱うだけでは、余りにも層が薄っぺらになってしまいそうな気がしてならない。神職が神主であり続けることができず、余りにも神官的になって(官僚化して)しまうとも考えられるのだ。

「布留(ふる)の社」とも呼ばれる石上(いそのかみ)神宮に伝わってきた「ふるへ ゆらゆらと ふるへ」の“布留の言(ふるのこと)”なども同様で、こういった神言は神社界のみならず、人類にとっての宝物以外の何物でもないとも考えられる。これらのものを過去の文献の中だけのものにしないようにして行かなければならない。


[181] ●運 勢  2014  Name:道開き Date:2014/01/02(木) 13:21 
今年の立春は、2月4日の07:17頃が「節入り」となります。

旧暦の「節切り」(二十四節気の)では、この日が一年の始めとされ、“年変わりの節気” と呼ばれています。 立春は雑節の基準日でもあり、八十八夜、土用、二百十日などは立春から起算されます。
“運勢学”上の「九星」も、この時刻を境に【運勢盤】上を遁甲(とんこう・・・移動)します。つまり、「年回り」が変わるのです。

今年は《四緑木星》の年なので、今回も又、「干支・九星術」の《四緑木星》年生まれの方の、月ごとの特徴を少しばかり挙げてみます。



●《四緑木星》年「八白土星・寅(とら)」月生まれの女性
〔今年は、2月4日の07:17〜3月6日の01:09までに生まれる女性〕

・外見的に二つのタイプに分けてみます。
【Aタイプ】淡島千景、越路吹雪、多岐川裕美、冨田靖子、マルシア、オノ・ヨーコ、山本リンダ
【Bタイプ】菊川怜、鈴木早智子、酒井美紀、渡瀬マキ
・・・・といった方たちです。

・楽天的な面と非常に強い個性の面の両面を持つが、自分なりの厳しさがある。
・博愛心が強く、みんなの為に尽くすという正義の態度で人に接するところがみられる。
・楽天性の強い人は、趣味・道楽にふけりやすく、頼まれない事までも親切にしてやったり、干渉もする。
・個性の強い人は、早くから自主独立の道を切り開くため努力精進し、才能を伸展させます。
・苦労もいとわぬ朗らかさを持っているので、家庭人となれば家庭を大事にする主婦となる。



●《四緑木星》年「七赤金星・卯(う)」月生まれの男性
〔今年は、3月6日の01:09〜4月5日の05:55までに生まれる男性〕

・岩城滉一、的場浩司、上岡龍太郎、忌野清志郎、コロッケ、田辺誠一、高村正彦(国会議員)、ダニエル・カール、山口智充、村田雄浩・・・・・といった方たちです。

・慎重な実行型で、人の心を和らげる如才のない人が多い。自己本位に物事を考えるが、派手でなく押し進める。
・気迷いが多く、あれもこれもと手を出し失敗しがちな所がある。
・自分の尺度で物事推し測る所があるので誤算生じやすく苦悩することがある。
・一つの事をする場合、迷わず粘り強く実行する意志力を強められれば信望も高くなり成功する。
・片意地を張って黙り込んでしまう一面がある。
・家庭を大切にする人が多い。



●《四緑木星》年「七赤金星・卯(う)」月生まれの女性
〔今年は、3月6日の01:09〜4月5日の05:55までに生まれる女性〕

・持田香織、芳本美代子、熊谷真美、松崎悦子(チェリッシュ)、山本陽子、浅茅陽子、有働由美子(NHK女子アナ)、あき竹城・・・・・といった方たちです。

・外見的には、緑の黒髪で艶のあるストレート・ヘアーの方が多いように思われます。
・頭を働かせて行動するタイプの人が多く、身だしなみも良く、自分のセンスを上手に表現する。
・外見は派手なようであるが、内実は地味で保守的な考え方をする。
・迷い心が多少あって行動的ではないが、言葉に裏がないので信用され、好かれるタイプです。人によっては物事はっきり言うので煙たがられるところもある。
・母性型で家族を大事にする人で、家族の悪口を聞くと腹を立てて向かって行く。



●《四緑木星》年「六白金星・辰(たつ)」月生まれの男性
〔今年は、4月5日の05:55〜5月5日の23:01までに生まれる男性〕

・外見的には二つのタイプに分かれるみたいです
【Aタイプ】地井武男、加藤浩次、三宅裕司
【Bタイプ】モト冬樹、藤田まこと、永六輔
・・・・といった方たちです。

・明朗活発で繊細な神経を持ち、綿密な計算をした上で行動する慎重なタイプの人が多い。
・機知・機転に富んでいるので営業やサービス業には適している。
・猪突猛進するところがあり、物事独断で進めたがる性なので失敗しやすい所がある。
・記憶力は高い方で、金運に恵まれてはいるが、無頓着に流れやすいので蓄積は余り見られない。
・結婚相手はしっかりした握り屋の方がよく、派手好みの女性は注意した方がよい。
・酒色に溺れないことが肝心です。



●《四緑木星》年「六白金星・辰(たつ)」月生まれの女性
〔今年は、4月5日の05:55〜5月5日の23:01までに生まれる女性〕

・森高千里、遠藤久美子、鈴木杏、原沙知絵
・・・・といった方たちです。

・陽気で明るい性格の人が多く、利欲には余り興味なく執着のない方です。
・人を喜ばせるのが好きなタイプで、面倒な事でも丁寧に教えてやるサービス精神に富んでいる。
・交際は上手な方で相手を喜ばせるが、家庭にあっては口やかましく無精な反面を持っている。
・夫にはよくつかえ、自分のペースにリードしながらも夫を助ける主婦となる。
・外向面での才能があるので、この才能を上手に発揮できれば成功する人である。



●《四緑木星》年「五黄土金星・巳(み)」月生まれの男性
〔今年は、5月5日の23:01〜6月6日の03:07までに生まれる男性〕

・外見的には二つのタイプに分かれるみたいです
【Aタイプ】槇原敬之、小沢一郎(国会議員)、小野寺五典(国会議員)
【Bタイプ】永井大、北野大(先生) 、松尾貴史、佐々木功
・・・・といった方たちです。

・見識高いが人つきあいも良く、周囲の人とよく調和をとることができる人である。
・仕事も責任を持って果たしていくため、目上や上司の受けもよく可愛がられる。
・独創性もあり、知識も豊かに持っているから、商売をしても、事業主となっても上手に成功させる。
・負けず嫌いな性で、周囲の人を自分のペースに乗せていきます。
・意地っ張りな面も持っており、器用な実行型であるが苦労を自分で蒔くことがある。
・地味であっても理知的な女性を妻にすると家庭円満にいく。



●《四緑木星》年「五黄土金星・巳(み)」月生まれの女性
〔今年は、5月5日の23:01〜6月6日の03:07までに生まれる女性〕

・扇千景、EPO、東ちづる、長沢まさみ
・・・・といった方たちです。

・明朗で活発な人が多く、頓智があって洒落気を持っている。
・人に頼まれると気前よく引き受ける女丈夫な面を持っているので、頼りがいのある人として信望を集める。
・自尊心は高い方で、自分の考えに固執する片意地な面もある。
・根は潔癖であるので自分の意に反したことをされると怒気を含んで腹を立てるところがあり、自分の偉さを誇示したがる所もある。
・家庭にあっても理論好きな教育ママ振りを発揮するが、家計のやりくりは上手にやってのける。



●《四緑木星》年「四緑木星・午(うま)」月生まれの男性
〔今年は、6月6日の03:07〜7月7日の13:18までに生まれる男性〕

・橋下徹(大阪市長)、中村俊輔(サッカー)
・・・・といった方たちです。

・思慮が深く、物事のケジメをわきまえた堅実なタイプの人が多く、物事の処理は上手にやってのける。
・外見は柔和であるが、苦労性で自尊心も強く、自己本位なところがある。
・交際も広く、口も上手で、頼まれれば能力を考えて世話もしてやる。
・言葉遣いに気をつけないと思わぬ事で失敗することがあるから注意した方がよい。
・倫理観も強く持っていて人当たりも良いので信頼される。
・若い時代は苦労することが多く年と共に充実してくるが、意地っ張りが強くなってくるから、この点に気をつけて老後の安泰の基盤を作るよう努力することが肝要です。



●《四緑木星》年「二黒土星・申(さる)」月生まれの女性
〔今年は、8月7日の23:09〜9月8日の02:12までに生まれる女性〕

・黒柳徹子、田丸麻紀、白石美帆(女子アナ)、桜井洋子(NHK女子アナ)、野田聖子(国会議員)
・・・・といった方たちです。

・理性のある明朗活発な人が多いが、気迷いがあるため、せっかくの機会を逃すことがある。
・自己意識が強く、自己顕示の思いが強いので派手や見栄をつくろいます。
・人には親切でオシャレもする。人に好かれる面も持っている。
・感情の起伏が激しいところもあり、喜怒哀楽をはっきり出し、ややもすると癇癪を起こして難癖をつけて人を困らせたりすることがある。
・人つき合いはそれなりにするが、好き嫌いがはっきりしているため親友は少ないようである。
・家庭生活では、自分の個性をよく知ってくれる男性でないと長続きできない傾向となるため注意することが必要です。



●《四緑木星》年「一白水星・酉(とり)」月生まれの女性
〔今年は、9月8日の02:12〜10月8日の17:59までに生まれる女性〕

・浜崎あゆみ、涼風真世、中山エミリ、本仮屋ユイカ、山瀬まみ、黒木瞳、石田ゆり子、渡辺美奈代、鈴木杏樹、仙道敦子
・・・・といった方たちです。

・口やかましい人が多いが、活動的によく働く。
・落ち着きが足りないが負けず嫌いなので頑張り、自分本位の所はあるが職場では上下の区別をわきまえて仕事に励む。
・自分のことには相当きびしく、苦労性の所はあるが利害関係については敏感である。
・人によっては欲深い面もあるが堅実型が多く、貯蓄には関心が高い。



●《四緑木星》年「九紫火星・戌(いぬ)」月生まれの女性
〔今年は、10月8日の17:59〜11月7日の21:15までに生まれる女性〕

・天地真理、阿川泰子、江波杏子、池内淳子、草笛光子、室井滋、今陽子、小田茜、京野ことみ、青山テルマ
・・・・といった方たちです。

・聡明であるが、見栄を張り体裁を飾る面がある。
・まじめな人が多く、警戒心も強い方であるため、新しいものにも関心を示すが控え目である。
・不平不満があっても愚痴を言わず勤めるし、雰囲気づくりも上手なので目上の人や同僚の信頼を集める。
・他人の陰口を言ったり、干渉したりしないかわりに、自分を批判したり、中傷したりする人には、徹底して抵抗する。
・人物本位に相手を選び、夫には貞淑に仕えます。



●《四緑木星》年「八白土星・亥(い)」月生まれの男性
〔今年は、11月7日の21:15〜12月7日の14:12までに生まれる男性〕

・鶴田浩二、平幹二郎、長瀬智也、宍戸錠、高良健吾、松任谷正隆、大地康雄、堀内健(ネプチューン)
・・・・といった方たちです。

・誠実さと冷静さを持ち、大胆な面も持ち、個性的な性格を持った人である。
・変わったセンスを持っているので変わった人とみられがちであるが、好奇心と冒険心もあるので独特のアイデアを表現する。
・この人は勤め人には向かないので事業家として成功する。
・負けず嫌いで欲張りの所があるが、良い協力者を得れば、反発しながらも協力者の意見を取り入れる仁徳も持ち合わせている。
・短気で口べたであるため、直言的に物事を言うところがあるので損なところもみられる。
・ワンマン亭主であるので子どもからは好かれないが、慈愛のある妻の協力があれば成功する。



●《四緑木星》年「六白金星・丑(うし)」月生まれの男性
〔来年1月6日の01:26〜来年2月4日の13:07までに生まれる男性)

・三浦友和、坂本龍一、上島竜兵(ダチョウ倶楽部)、吉村作治(先生)、長門裕之、山田雅人、ウド鈴木(キャイ〜ン)
・・・・といった方たちです。

・思慮も深く現実的なタイプで、いい加減な事が大嫌いで、物事の白黒をはっきりさせたい性格の人である。
・合理的な考えを持ち、指導的立場に立つことを考える支配欲は強い方である。
・人に頭を下げることが嫌いで、ごまかしたりする人を軽蔑する。
・根は優しいところがあるので困った人には手を貸します。
・組織の中に入って活動することは好まないタイプなので、独立自営の道に進めば成功する。
・家庭では妻の自由を認めてやれるタイプの人が多い。



●《四緑木星》年「六白金星・丑(うし)」月生まれの女性
〔来年1月6日の01:26〜来年2月4日の13:07までに生まれる女性)

・外見的には二つのタイプに分かれるみたいです
【Aタイプ】楠田枝里子、田中真紀子(国会議員)
【Bタイプ】石野真子、樹木希林
・・・・といった方たちです。

・従順で物わかりの良い聡明な人が多く、自尊心高く、見栄っ張りで自分を大切にする人である。
・強情なところがあり、独占欲も強く、上に立つ支配欲も強い方で、女丈夫のタイプでもある。
・独特のセンスと企画性を持ってよく働くので重宝がられるところもあり信頼度も高い。
・家柄とか学歴を意識するところもあるが、新しいことを求める進歩性も持っている。
・自分を上手にコントロールしないと失敗するので注意が必要です。
・家庭では、子どもの躾は厳しさを持つが、理解力のある貞淑な妻として家庭を守ります。


[179] ●“グローバリゼーション”への対応 Name:道開き Date:2013/12/18(水) 17:23 
アレキサンダー大王の大遠征によりヘレニズム文化が起こり、インドや中国西域にギリシア文化を伝え、ギリシア・ローマにはオリエンタル文化をもたらしたりした。イスラム勢力が南ヨーロッパに広がったり、逆に、キリスト教勢力が北アフリカや中東に広がったり・・・・と、民族や宗教が広範な活動を始めると、様々な形で文化融合が起こり、グローバリゼーションが進展します。

クリスマスも近いので、以下に、北欧におけるキリスト教の伝搬にともなう宗教融合を表わす様々な祭りを取り上げてみます。日本に仏教が伝わり、民俗信仰を取り込んでいった流れと全く同じ事が起きていました。日本古来の小正月行事や田植え前の様々な祭りと北欧の太陽信仰に関わる様々なお祭りは非常に類似しています。

仏教やキリスト教、イスラム教等の世界宗教と呼ばれるものは、土着の信仰を取り込んでグローバリゼーションを展開させようとします。それに対して、土着の信仰は、もたらされて来るものを取り込んで、グローバリゼーションに対応します。我が国古来の信仰を伝える神道(神ながら)は、長い歴史において、道教や陰陽道、仏教、キリスト教的なものを取り込みながら今日に至っています。

外来信仰が入り込む以前の古い信仰を追求していく国学的アブローチは、私的には、非常に興味深く、面白きわまりないことではあるのですが、あまりそのことにこだわり過ぎると世の中のグローバリゼーションの動きにに対応できなくなります。純粋培養ほど脆弱なものはないですから。「それはそれ、これはこれで、いいものはいいのだ」として、他宗教の良いところをどんどん取り込んでいけばいいのだと思われます。インドのウパニシャド哲学における「輪廻転生」「因果応報」などの思想は、仏教を仲介して、日本人の精神の奥深いところにシッカリと根付いています。私も経験的に信じています。「それは、古くから神道が説いて来たことではない」などと否定してしまったのなら、我々のような、様々な信仰が交錯した土壌に接するところに身を置いている末端の神主などは、世の人たちとどの様に接していったらよいのでしょうか。・・・・



※参考

●クリスマス(聖誕祭)
ユール(冬至祭)〈北欧語〉は、古代ヨーロッパのゲルマン民族の間で、冬至の頃に行われた祭りのこと。のちにキリスト教との混交が行われたが、北欧諸国では現在でもクリスマスのことをユールと呼ぶ。北欧のユールには、キリスト教伝来以前の習慣と結びついた、独自の様々な習慣がみられる。

ユールは、元々は北欧を含むゲルマン民族の祭りだった。太陽が再び力強い生命を持つ日を新年とし、北欧神話の神々、それも豊穣と平和の神ヴァン神族ではなく、オーディン(北欧神話の主神にして戦争と死の神。詩文の神でもあり吟遊詩人のパトロンでもある。魔術に長け、知識に対し非常に貪欲な神)にビールや猪や豚などを捧げた。クリスマスの料理を並べたテーブルは、「ユール・ボード」といい、この日に現れる霊たちに特別に用意された。季節や農作業の変わり目、特に冬至は、死者の霊、悪魔、魔女などが大挙して現れるといわれ、夜は、ユールレイエン(ワイルドハント)が現れた。

中世には何日もかけて宴会をし、火を焚き、生贄をささげた。たき火(ボーンファイア)は暗闇や寒さと戦う太陽の象徴であった。人々は火の回りで歌ったり、飲み食いをしたりし、亡くなった人々の霊も宴席に参加するとされた。

ノルウェーではガンドライド(魂の騎乗)とも呼ばれ、過去1年間に亡くなった人々の魂が空を駆け抜け、駆け抜けた地域の土地は肥沃になると信じられた。



●聖ヨハネ祭
夏至祭では、町や村の広場に横たえられた柱に、樹木の葉や花の飾りがつけられ、若者たちが中心になって柱を立てる。この祭は、ドイツやイギリスで行われる五月祭の柱(メイポール)と類似しているが、北欧(スウェーデン、フィンランド、で)では5月初旬には花が乏しいため、夏至の時期に祭を行うようになった。人々はその周りを一晩中踊り明かし、たき火をたいて、その上を飛び越える。これには恋占いや、縁起かつぎの意味が込められている。民族衣装姿の人、花の冠をかぶる女性も多い。

祭りは、洗礼者ヨハネの祝日に行われる。ヨハネはイエス・キリストより半年早く生まれたという言伝えから、クリスマスが12月25日と決められた後に、ヨハネの祝日が設置された。つまり、現在の夏至祭は、キリスト教の聖人の日と北欧伝統の季節の祝祭が一緒になった社会的文化的現象である。

また、この日の前夜に摘む薬草には、特に効果があると信じられている。特に、セント・ジョンズ・ワート(セイヨウオトギリソウ)を、イブの夜に枕の下にしいて寝ると、夢に現れる聖人のご加護があるとも、また、未婚の女性の場合、未来の夫が夢枕に立つともいわれる。 全体的な特徴としては、

・聖ヨハネの日のあたりに行われる
・薬草や朝露の神聖視
・花や葉で冠を作る(1年間の健康が約束される)
・男女の縁結びや占い
・たき火をたく
・祭りの後、川に冠を流し、それで将来を占う



●ハロウィン
ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていたが、時期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた。31日の夜、カボチャ(本来はカブ。スコットランドではカブの一種の「スウィード」を用いる)をくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン」を作り、魔女やお化けに仮装した子供達が近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリック・オア・トリート(ご馳走をくれないと悪戯するよ)」と唱える。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちは貰ったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりする。お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよい。

「ハロウィン」の語源は、カトリック教会で11月1日に祝われる「諸聖人の日」(古くは「万聖節」とも)の前晩にあたることから、諸聖人の日の英語での旧称"All Hallows"のeve(前夜)、"Hallows eve"が訛って、"Halloween"と呼ばれるようになったとされている。

諸聖人の日は、7世紀頃までは5月13日に祝われていたが、ケルト人が自然崇拝からケルト系キリスト教を経てカトリックへと改宗する過程でケルトの収穫祭に合わせてカトリック教会が諸聖人の日を11月1日に設定したとされている。カトリック教会では諸聖人の祝日は祭日としているが、10月31日のハロウィンは祭日ではなく典礼暦(教会暦)にも入っておらず、教会の宗教行事・公式行事として行われることはない。カトリック教会を含めキリスト教の多くの教派・教会では、信徒が民間行事として楽しむことを容認しているが、プロテスタントでは多様な見解があり、いくつかの福音派は否定的である。



◎ハロウィンのために魔女やお化けに仮装した子供たち
アイルランドや英国の古代ケルトの信仰では、新年の始まりは冬の季節の始まりである11月1日のサウィン祭にあり、ちょうど短い日が新しい年の始まりを示していたように、日没は新しい日の始まりを意味していた。

ドルイド祭司たちは、火をつけ、作物と動物の犠牲を捧げた。また、ドルイド祭司たちが火のまわりで踊るとともに、太陽の季節が過ぎ去り、暗闇の季節が始まった。11月1日の朝が来ると、ドルイド祭司は、各家庭にこの火から燃えさしを与えた。各家族は、この火を家に持ち帰り、かまどの火を新しくつけて家を暖め、「妖精」(「シー」と呼ばれる。女の妖精は「バンシー」と呼ばれた)などの悪霊が入らないようにする。というのも、1年のこの時期には、この世と霊界との間に目に見えない「門」が開き、この両方の世界の間で自由に行き来が可能となると信じられていたからである。

ハロウィンがアメリカの年鑑に祝祭日として記録されたのは19世紀初頭以降のことである。ニューイングランドのピューリタンなどはハロウィンに強く反対する立場であり、19世紀になりアイルランドおよびスコットランドからの大量の移民があるまでは、これが本格的にもたらされることはなかった。ハロウィンは19世紀半ばまで特定の移民コミュニティ内部のイベントとして行われていたが、徐々に主流社会に受け容れられ、20世紀初頭には、社会的、人種的、宗教的背景に関係なく、あらゆる人々によって東海岸から西海岸へ、そして全世界へと広められていった。



●イースター(復活祭)    
十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教において最も重要な祭。

復活祭を表す英語「イースター」およびドイツ語「オーステルン」は、ゲルマン神話の春の女神「エオストレ」の名前、あるいはゲルマン人の用いた春の月名「エオストレモナト」に由来しているともいわれる。つまり、ゲルマン人の春の到来を祝う祭りに起源があるということです。



●カーニバル(謝肉祭)
語源は、一つに13世紀のイタリア語(ラテン語)のカルネ・ウァレ(「肉よ、お別れじゃ」)に由来するといわれる。「断食の前夜」の意で、四旬節の断食(大斎)の前に行われる祭りであることをも意味している。

もともとカトリックなど西方教会の文化圏で見られる通俗的な節期で、四旬節の前に行われる。仮装したパレードが行なわれたり、菓子を投げる行事などが行なわれてきたことから、現代では宗教的な背景のない単なる祝祭をもカーニバルと称することが少なくない。

謝肉祭は古いゲルマン人の春の到来を喜ぶ祭りに由来し、キリスト教の中に入って、一週間教会の内外で羽目を外した祝祭を繰り返し、その最後に自分たちの狼藉ぶりの責任を大きな藁人形に転嫁して、それを火あぶりにして祭りは閉幕するというのがその原初的なかたちであったという説もある。


[178] ●「♪花は咲く ♪」 Name:道開き Date:2013/12/02(月) 20:46 
古い映画に、『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ 党宣言』というのがありました。3.11以降、このタイトルが脳裏を過ぎって仕方がありません。

何れの人にとっても、「一寸先は闇」とも言える不確実性極まりない人生ではあるのでしょうが、刹那的な快楽を求めるだけの“酒池肉林”にまみれた人生であっては実につまらないように思われてなりません。

本当に気の合う、心を許せる仲間たちと、飲んだり、食べたり、話したり、騒いだりする時間を持つことは、この上ない歓びだとは思います。しかし、その前提には、本気で取り組んでいる仕事(事柄、守るべき家族・・・)があればこそとも思えるのです。

やはり、「よく学び よく遊べ」の“バランス”が取れていないとダメ、どちらか片方だけではダメなようです。“ハレ(非日常)とケ(日常)”のバランスが上手く取れてないと、いざ、“ハレ”の目出度い時を過ごしても「心が真に晴れ晴れしくならない」のです。逆に、近い将来に“ハレ”の行事が予定されていないと、“ケ”の日常が空しく、退屈なものになってしまいます。



富や名声を得ることは人生の大きな目的にも成り得るのでしょうが、手に入れた後に自滅してしまう人が大勢いるのも確かです。逆に、手にしたものを社会の為に還元することができ、上手に“循環”させることができた賢明な人たちは、この上ない幸福感を味わうことが出来るのも確かなようです。

輪島功一さんや伊能忠敬翁のように、「好きなことに本気で取り組む」人生もいいですし、最近、BSで特集されているオードリー・ヘップバーンのように、「何が“虚”であって、何が“実”なのか」「日常、平凡の大切さ」を知り得た、“ハレ(非日常)とケ(日常)”のバランス感を悟った人生も素晴らしいものに思われました。
食べ物にも事欠いた戦時下の少女時代の体験が、良い意味でのスケール(尺度)となり、華やかな女優業を経ることによって辿り着いた人生観のようでした。   

我々だって、3.11当時は、店舗に品物が並んでいること、ガソリンがスタンドにあること、電気が通っていて家に明かりが灯っていること、水道が通っていること、仕事が出来ること、家族や身内がいること、日本という国家が存在していること・・・等、社会が上手く回っていることをどれだけ有り難いことと感じたことか。あの当時の経験を活かさない手はありません。東北のみならずオールジャパンで、オードリーのように何らかの花を咲かせていきたいものです。


[177] ●“突破口”(ブレイク・スル−)  Name:道開き Date:2013/11/19(火) 07:27 
だいぶ以前から、輪島功一&伊能忠敬、この二人の生き方がとても気になっておりました。人生の折り返し地点は間違いなく過ぎたであろう現在の自分にとって、「まだまだやる事がある!」「まだ遅くない」と、多くの諦めや閉塞感、絶望感から抜け出すための、まさに“突破口”(ブレイク・スル−)をもたらしてくれる存在のように思えるのです。


輪島功一さんは、幼少の頃に樺太から北海道に引き上げ、養子に出されて貧乏な苦役生活を送ります。その後、上京してトラック運転手や土木作業員として働くかたわらボクシングを始めたといいます。一年後には、25歳でのプロ・デビュー。翌年には、全日本スーパーウェルター級の王座に、その二年後には、世界王座に就いています。

普通に考えたなら、24歳で趣味としてボクシングを始める人ならいるでしょうが、本気でプロとして取り組む人なんていないだろうと思われますが、そこが我々凡人とは異なる人ということになるのでしょう。ボクシングを始めて四年後には、世界チャンピオンにまでなってしまっているのです。タイトルを失ってからも、二度も世界王座に返り咲きを果たしているのだから本当に凄い人です。


無事に家業を果たして隠居の身となった後、56歳から足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させた伊能忠敬も凄い人です。

現在の千葉県香取市佐原の造り酒屋の婿養子となり、家業を発展させた後、50歳で隠居を地頭所に願い出てようやく受け入れられたといいます。この頃、忠敬が興味を持っていたのは暦学でした。江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごしていたということです。この年に、19歳年下の幕府天文方・高橋至時(よしとき)の弟子になり、江戸の深川に移住し、自宅に天文台を作り天体観測を始めます。

56歳のとき、帝政ロシアの圧力が強まっていた蝦夷地の地図作りを幕府から命ぜられます。忠敬にとっては、蝦夷地の地図作りそのものよりも、もともと、地球の大きさを測ってみたいという大願の方が強く、それを達成できるということで師の至時からの話を引き受けます。それもほぼ自費で行ったというから驚きです。

その後、幕臣に取り立てられ、成り行きで東日本の地図、そして、西日本の地図をも作ることとなりました。74歳で逝去。

幕末期、この忠敬が作成した「伊能図」の精度の高さが欧米列強を驚嘆させることになります。


[176] ●「魂の記憶」 Name:道開き Date:2013/11/04(月) 07:42 
故山崎豊子さんには、本来ならば我々には到底知り得ないところの社会の裏側の部分を小説に描いていただき、数多くの事柄を学ばせていただきました。本当に感謝の一言に尽きる思いです。
山崎さんの代表作の一つに、中国残留孤児を題材にした『大地の子』という作品がありますが、やはり、いつもと同じように原作は読んでいないのですが、NHKのドラマで見させていただきました。

上川隆也さん演じる主人公の陸一心(りくいっしん)が、残留孤児としての苦難を受けながらも技師となり、日中の国交が回復した後に日本訪問団の一員として来日します。視察を終えた後の観光で宿泊したホテルで、隣り合わせた日本の団体客の宴会から聞こえた「木曽節」の歌(「木曽のな〜 中乗りさん 木曽の御岳さんは なんじゃらほい・・・・」)を聞いた際に、何とも言えない懐かしさを覚え、ソビエト軍に追われ逃避行を続ける中で失った幼い頃の記憶の糸口を見出すシーンは非常に印象的でした。実は、私にも似たような経験があります。陸一心ほど劇的なものではないのですが・・・当然です。(^^;)    

小学生の高学年の頃から中学にかけて、当時の宮城県では、日曜日の午後3時頃にテレビ映画劇場が放送されていました。そのラストに流れる音楽が、当時の自分には、気になって、気になって、仕方がありませんでした。どうして気になるのか全く解りませんでした。

そうした中、中二になった頃だと記憶していますが、スペクタクル巨編『ベン・ハー』のリバイバル上映を知りました。『ベン・ハー』は、私が生まれて初めて父親に連れられて日比谷の映画館で見た映画です。五、六歳頃だったと思います。映画のあらすじは当然全く覚えていませんでしたが、奴隷たちがガレー船で鞭に打たれて魯(ろ)を漕がされているシーン、コロシアムでの戦車競争のシーン、キリストが十字架を背負わされてゴルゴダの丘を歩かされるシーンなどは、記憶の断片に強く残っていました。DVDは勿論のこと、ビデオといった記憶媒体も何もない頃のことですから、喜び勇んで上映初日に映画館へと足を運びました。

映画が始まり、ユダヤの貴公子ジュダ=ベン・ハーが事件に巻き込まれて奴隷に身を落とす前夜の宵に、召抱えの交易奴隷サイモニデスの娘、幼なじみのエスターと十数年ぶりに再会するシーンまできたところで、BGMには、静かに、穏やかに、「ベン・ハー 愛のテーマ」が流れ出しました。「あれ、この曲、日曜日の夕方の映画劇場のラストで流れていた曲だ。これまで、やたら懐かしさを感じながら聴いていたのは、そういうことだったのか。映画の映像のみならず、背後に流れていた音楽も心の奥底で記憶し続けていたんだ」と思うと、この映画そのものに対するものとは別な意味での感動を覚えました。


ここから話は一気に変わります。私は幼少の頃から、同じ夢を繰り返し見続けてきました。どうして同じ夢を見続けるのか全く理解が出来ませんでした。その夢の内容はというと、遠くに大津波が押寄せてくるのを見てひたすら走って逃げ、急な傾斜の土手のようなところを枯れ草にしがみつきながら這い上っている自分がいるのです。青々と茂った草ではなくて枯れ草なのです。前世においてそういった体験をし、魂の記憶に残ったままの状態にあるのではなかろうかと考えていました。ところが、2年前の3.11の時、夢と全く同じ内容の体験をし、津波が来るのを見て崖を這い上っている最中も、「これまで見続けてきた夢と同じ状況下に自分はいる」と頭の隅で冷静に考えている自分がいました。過去世の魂の記憶ではなく、どうやら予知夢を見続けてきたのではなかろうかと今では考えています。


[174] ●十三夜 Name:道開き Date:2013/10/05(土) 09:14 
「十三夜」と聞いても、最近では何のことなのかピンと来ない方が多いかも知れません。
一般に「十三夜」とは、旧暦9月13日の夜の月のことを言い、「十五夜」(旧暦8月15日)についで美しい月とされています。

自分としては、原作を読んだことはないのですが、二、三年前にBSで放映された、樋口一葉の短編小説「十三夜」「大つごもり」「にごりえ」の3作品をオムニバス形式で描いた今井正監督の名作『にごりえ』が思い起こされます。

今で言う「ストーカー事件」みたいなことが描かれていたり、道楽三昧をしているが、それなりの人情も持っている放蕩息子が登場したり(最近でも、“テイッシュ”王子による会社資金のギャンブルへの流用事件も起きているが、似たようなケースではないかとも思われます)、ペーソスに満ちあふれた本当に面白い作品でした。

人の営みというのは、社会の風景がいかに変わっても、同じ様な事を繰り返しているのだということをつくづく考えさせられます。

秋のお祭りの意味も、昔も今も、全国の神社でも、各家庭でも、「神様に対する収穫への感謝」ということにあるのですが、今回は多少異なる趣旨で観月祭が下記の日程で開催されます。東日本大震災の被害を受け、仮設住宅に入居している方たちをお励ましし、楽しんでいただくための集いです。



◆◆◆「雅楽の夕べ(観月会)」◆◆◆

◎10月17日(旧暦の九月十三日)午後6時より

◎当地「ひびき工業団地内の仮設住宅集会場」において

◎宮城県神社庁主催、宮城野雅楽会(県内の雅楽自慢の若手神職の会)による

どうぞ、奮ってご参加下さい。




※参考

●九月十三夜
旧暦の九月十三日の月のこと。「十三夜」は満月より、二、三日前の月で、特に「九月十三夜」は「十五夜」(旧暦八月十五日)についで美しい月とされ、宮中では月見の宴が催された。十三夜は中国伝来のものではなく日本固有の風習である。
旧暦八月の十五夜に対し「後(のち)の月」ともいう。十五夜あるいは十三夜のどちらか一方だけの月見を「片見月」といい、嫌う風習があった。この日には枝豆や新栗を供えることから、「豆名月」「栗名月」とも呼ばれている。



●中秋の名月
【十五夜】【お月見】【名月】などとも呼ばれている。仲秋の名月を観賞する風習は、中国の唐の時代には知られていて、平安時代の日本に伝わり、貴族の間に取り入れられたとされている。

「中秋(仲秋)」とは旧暦八月の呼称ではあるが、旧暦八月十五日の称にもなる。旧暦では七・八・九月を秋とし、各々を初秋・仲秋・晩秋と呼んだ。「名月」は十五夜の月のことで、必ずしも満月と一致するわけではなく、十六夜が満月だったり、まれに十七夜が満月のこともある。その年に閏(うるう)月があったりすると、名月がかなり遅い時期になって、ススキが枯尾花(すすき)になってしまうこともある。

「芋(いも)名月」ともいわれるように、中秋の名月には月見だんご、ススキ、栗、枝豆と共に里芋が供えられる。農家の間では作物の収穫感謝祭としての意味も持っていたからである。
また、つい最近まで、こうした供物を盗んでもよいとか、この日には他所の畑に入って芋などを取ってもよいという風習が各地にあったが、学校教育上、好ましくないとされて廃止になった所が多い。

さらにこの日、南九州地方では、年占行事・豊穣祈願・邪霊祓除などを目的とした「綱引き」行事が行なわれる。全国的にみて他の地域では、小正月や盆の時期に行なわれているところが多い。



●重陽(ちょうよう)
旧暦九月九日の節句で、【九月節句】、【重九(ちようく)】、【菊の節句】ともいう。易では奇数を陽の数としており、「九」は陽の極数となる。九月九日はそれが二つ重なることから、大変に目出たい日とされた。

中国の古俗では、登高といって、この日に香気の強い茱萸(しゅゆ)(ハジカミ。山椒(さんしよう)、生姜(しようが)の一種)の入った袋を身に付けて高い丘などに登り、菊花酒を飲み、物を食べると邪気が払われて長寿になるとされていた。これが平安初期の日本に伝わって、宮中儀礼となり「観菊の宴(重陽の宴)」が催された。菊の花びらを浮かせた菊酒を飲んだり、菊の花に綿を乗せて朝露を吸わせたもので身を撫でて長寿を願うことなどが行なわれた。江戸時代には、五節句の一つとして幕府の式日に定められた。

この九月九日の重陽の節句の日、庶民のあいだでは秋祭といっしょに祝うことが多く、この日を尊んで、【おくにち】(「お九日」「お供日(くにち)」「お宮日」)、【おくんち】と呼び、栗飯(【栗節句】とも呼ばれる)や赤飯・餅を食べる習慣があった。ちょうど稲の刈り入れのころなので、【刈り上げ節句】ともいわれた。また、旧暦の九月九日、十九日、二十九日を総称して「みくんち」「さんくにち」などという場合もある。九州地方では、九月九日に限らず、秋祭りはすべて【おくんち】と呼んでいる。


[173] ●お相撲さん Name:道開き Date:2013/09/21(土) 17:26 
下の書き込み〔172〕に続きます。
長野オリンピックの時、浅利啓太さんの開会式の演出は古めかしいだとか、ダサイだとかいった声が、国内では多く聞かれたようでした。でも、海外の方たちは興味深く見ていたと思います。その証拠に、4年後の2002年の韓国・日本共催のサッカー・ワールドカップの海外CMには、お相撲さんたちが巨体を奮ってサッカーをするといったものまで登場していたといいます。ジェームス・ボンドよりもお相撲さんの方が、見ている人たちを幸せにしてくれます。

学生時代、帝国ホテルで給仕のバイトを2年ほどしたことがあるのですが、何かの大相撲界のパーティーがあって、羽織袴(はおりはかま)姿の力士たち数十人に囲まれた経験があります。何とも表現のしようがない不思議な世界でした。高見山関なんかは、ちょっとした小さな山といった感じでしたし、個人的にファンでした輪島関も大きかった。(前ミツを取ってから、しぼって、しぼって、黄金の左腕から繰り出される下手投げはまさに神業、その一連の仕掛けを見るのがたまらなかったです。柔道の古賀稔彦さんが一本背負いにもっていくやり方に匹敵するものと、自分では今でも考えています)

その当時、私も少林寺拳法の鍛錬に明け暮れていたのですが、「自分の突きも蹴りも、この人たちの鋼の肉体には通用しないだろう、でも、金的、目つぶしなら効くかもしれないな。恐らく、ぶちかましを喰らったら、3〜5メートルは飛ばされるだろうな」と思いながら彼らを見たことを記憶しています。同時に、何とも言えない幸福感を味わいながら彼らを見たのも確かでした。


[172] ●「しめ縄」の不思議 Name:道開き Date:2013/09/13(金) 18:25 
「注連縄(しめなわ)」とは、「神前、神域、祭場など神聖、清浄な場所を示すために引き渡し、あるいは張り巡らす縄のこと」をいいます。他にも、「一五三」「七五三」「締(しめ)縄」「標(しめ)縄」などと表記されます。

古代において「シメ」は“占有”のしるしであり、多く「標(しめ)」と表記されました。その標識の形式は、縄のほかにも、(A)「物に何かを結び付けたり」、(B)「木の枝を土地に刺したり」と多様でした。

(A)の形式は、よく神事の際に榊(さかき)の枝や串(くし)などに垂(た)らされる、紙片や布〈とくに木綿(ゆう)〉などの「紙垂(しで)」として知られています。これは「既に神様のお使いになる物になったのだ」という標(しるし)になります。

(B)の形式は、諏訪大社の「御柱(おんばしら)祭り」をモチーフにした、長野オリンピックの開会式でスタジアムの四隅(よすみ)に立てられた四本の木の柱がこれに当たります。この「四本の柱の内側は神様の領域になったのだ」という標(しるし)になります。

開会式の総合プロデューサーを務められた浅利啓太さん(劇団四季の創設者の一人)の演出によるものだったと伺っています。その内側で、当時の大相撲の横綱・曙(あけぼの)関が土俵入りを行いました。「四股(しこ)踏み」自体が土地を清める意味合いを持つ所作(しょさ)・儀式です。

日本神話では、諏訪大社の御祭神・建御名方神(たけみなかたのかみ)は鹿島神宮の御祭神・建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)と「力くらべ」をされた神様として有名で、それが今日の相撲の始まりとされています。長野県の土地柄や歴史を十分に知った上での、浅利啓太さんのシャレた演出だったのでしょう。


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「標(しめ)」を巡らさずに祭事を執り行ったりすると、神霊が降りて来るどころか、その辺を彷徨(うろつ)いている、邪霊と化した迷える霊たちが集まってきたりもしますので、シッカリとした準備を行う必要があります。

ごく最近でも、この「シメ」に関連したお祓いを2件ばかり執り行ないました。一つは、或る地区の農業法人のお祓いを行ったときの話です。元々、その場所には15軒ほどの家が建っていましたが、十数名の方たちが津波に飲み込まれて亡くなられました。農作業をされる方の中には霊的に敏感な方もいらして、そこで作業をしていると、背中から首筋にかけてゾクゾクして仕事にならず、お祓いを執り行なう運びとなったとのことでした。御幣(ごへい)をその農地の四隅に立て、(B)の形式で「標(しめ)」を作ってお祓いを行いました。その後は治まったとのことです。


もう一つの件も同じように、高台移転地の造成工事を行っている大手ゼネコンの下請会社の、300人ほどが宿泊できるプレハブ製職舎のお祓いを執り行ないました。そこで寝泊まりしている作業員のかなりの数の方たちが、寝ているときに金縛りに遭ったり、人が居ない筈のところで足音を聞いたりして、日中の作業に支障を来すことにもなりかねないので、皆で揃ってお祓いを受けたいと元請けに申し出があったというのです。

話を持ってきた大手ゼネコンの担当者も、「これまでに日本各地の工事現場を回ってきたけれども、未だかってこういった経験はしたことが無い」と困惑しておられるご様子でした。その話を伺って、逆に、あの世に赴くことが出来ずに迷っている方たちの霊がまだ多くおられるのだと、心が痛かったというのが正直な気持ちでした。

前述の農地のお祓いと同様に、約1メートルほどに切った竹の弊串(へいぐし)に、雨で濡れても大丈夫なようにと防水紙で作った御幣(ごへい)を挟み、宿舎の敷地の四隅に立てて(B)の形式で「標(しめ)」を作ってお祓いを執り行ないました。唱える祝詞(のりと)の内容は、「向かうべき所〈幽世(かくりよ)〉に神さまたちに導かれて赴くように」といったものでした。
後に、その担当者の方と役場で偶然お会いする機会があり、その後の状況を伺ったところ、完全に治まったとのことでした。

今回のことで、自分なりに考えてみたりもしたのですが、毎朝、ご神前で「大津波でお亡くなりになられた方達が、迷うことなく幽世に赴くようにお導き下さい」と祈願しているのにこういった事が起こるということは、広い範囲に「標(しめ)」を立てて行う形式を取らないと効顕が完全ではないのだろうかとも考えられるし、そもそもが、余りの広範囲では無理があるのかとも考えられます。正直、解りません。


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更に、「注連縄(しめなわ)」に関しての話になります。ある人のお祓いをしている最中に、霊たちが次から次へと憑依して自らの思いを語りだし、2時間もかかってあの世へと送り続けたという大変な思いをした経験があります。その人にお守りを持たせても霊たちはひっきりなしに入ってきて自らの思いを語ろうとしました。そのときには30数体で終わりましたので何とか無事に済みましたが、もしこれが数百体、数千体の数に上っていたのなら手の施しようがなかっただろうと後で考えると、背筋の凍る思いがしました。

その後、苦肉の策として、ビニール製の紐に防水紙で作った小さなシメ縄を作り、その方の胴体に廻してもらい、神様の“占有”物となる形を取ってもらいました。不思議なことに、それ以降は、憑霊現象が神様のコントロール下に置かれることとなったのか、霊たちがその人に憑依することができなくなり、完全な解決ではありませんが、何とか急場を凌ぐことができたという経験があります。

「バカなことを言うな」と叱られても困るのですが、もし、その様な体験をすることになってしまった際には、「俺はそんなバカげたことには関係したくない」と逃げたりせずに、取りあえずはやってみるだけのことはあると思います。但し、やらずに済むのならそれに越したことはないのでしょうが。・・・・・


[171] ●「未来は そんな悪くないよ Hey! Hey! Hey!」 Name:道開き Date:2013/08/24(土) 13:51 
私は特にAKB48のファンということでもないのですが、今回の『恋するフォーチュン・クッキー』は、とても良い曲だと思います。聴いてて涙が流れました。

「占ってよ、恋するフォーチュン・クッキー、

未来は そんな悪くないよ Hey! Hey! Hey!

ツキを呼ぶには 笑顔を見せること

運勢 今日よりも良くしよう  Hey! Hey! Hey!

人生捨てたもんじゃないよね・・・・」


自分たちが中・高生時代に味わった、ただただ明るい未来志向のアイドル文化を感じられるからだと思います。アイドルたちが世の中に向かって、こういったプラス思考の言葉を発するということは非常に重要なことで、ある意味、総理大臣の発する言葉以上にメッセージ性を持つ場合もあるかとも思われます。

尾崎豊さんやブルー・ハーツもたまには良いのですが、基本的には、明るく前向きな方がいいです。ジャニーズ系も、基本的には、余り見たいとも聴きたいとも思わない方なのですが、『勇気100%』のような良い曲がパッと出て来たりもしますので、ムゲには出来ないところがあります。
歌い踊るアイドルたちから発せられる未来志向の明るいメッセージは、虐待やイジメ、受験勉強などに苦しむ現代の多くの若い人たちにとって、どれだけの救いとなることでしょう。


ここからは映画の話に変わります。BSで『追憶』が放映されていたので久々に録画して見てみました。青春映画と言えば、私的には、この『追憶』か『エデンの東』ということになります。間違いなく10回以上は見ている作品です。
ロバート・レッドフォードとバーバラ・ストライサンドが主人公の映画ということになっていますが、私的に見れば、バーバラ・ストライサンドの映画だと思います。バーバラ抜きでは成り立たない映画だとさえ思っています。完全にロバート・レッドフォードを喰っていました。若い頃は、ソフィア・ローレン、ブリジット・バルドーなどと同様に、「クセの強い顔はちょっと」と思っていましたが、今改めて見てみるととてもお綺麗でした。
バーバラ演じる、田嶋陽子先生のようなキャラクターの主人公は、良くも悪くも非常に前向きでプラス思考です。何度見ても面白く、勇気をもらえる作品です。本当の名画だと思います。


[170] ●祭祀目的の施設とアイテム Name:道開き Date:2013/08/19(月) 17:42 
「この世に在る総ての物は神(霊)性を帯びている」、よって、「総て在る物は神(の一部)」だとするのが“アニミズム”の世界観です。それならば、神社や神棚、御札や御守といったものは取り立てて必要ではなくなるのではないかという人もいるかもしれません。そういう方に対しては、「そういった祭祀目的の施設やアイテムといったものは、神さまとコンタクトを取るための“増幅”装置、モバイル装置と捉えればよい」とお答えしたいです。

その様な“アニミズム”的世界からもたらされる情報を、より確かなメッセージとして受け取り、そういった世界との相互交通を可能とする存在がシャーマンであるとするのが“シャーマニズム”となります。つまり、そういった祭祀に関する施設や用具といったものは、「シャーマニックな装置・アイテム」という意味合いを持っているのです。

神道の基盤は“アニミズム”と“シャーマニズム”ですから、そういった祭祀目的の装置やアイテムといったものは非常に重要なものなのです。「しめ縄」が張り巡らされた内側は、神聖な場所となるため邪霊は入ってこれなくなります。邪霊は「塩」を嫌います。清め祓いの言霊(ことだま)を受けると清まっていきます。「狐狗狸(こっくり)さん」「ウィジャ盤」等のアイテムを使用している内に呼び込んでしまった邪霊は、物凄いのがやって来ます。「何でそのようになるのだ」と聞かれても、「その様になるものはその様になるのだから仕方がない」としか答えようがないのです。

これは科学の場合も同じだと思われます。「どうして宇宙があるのか、どうして生物が存在するのか、電気は、原子力は、物質は、元素は・・・・???」「無ければ無くても良かったのではないか????」と聞かれたとしても、科学者も「そもそもが既に存在しているのだから仕方がないだろう。それらのものを探求していくしかないだろう」としか答えようがないと思われます。


[169] ●「御神体」と「神社境内地」との関係 Name:道開き Date:2013/07/22(月) 09:46 
大津波襲来から10日ほどが過ぎ、海水も引き、規制も解かれたので、どうにか歩いて鳴瀬川河口の白鬚神社まで行けるようになりました。津波の高さが10メートルにまで及んだ地域ですから、社殿は流失して何も無くなっているだろうとは思いながらも、一縷の望みは持ち続けていましたが、その望みはすぐに打ち砕かれてしまいました。

しばらく現実を前にして呆然と立ちつくしていましたところ、ふと、ガレキと化した社殿の残骸の下に、見覚えのある錦(にしき)の布が目に止まりました。それは神社の「御神体」が入った箱を覆っていたものでした。毎年、春と秋の例大祭前日とお正月を迎えるための大掃除の日に限って、神社の御本殿の中にまで入って清掃をしていたので記憶がありました。

ガレキの中をくぐり抜けその場所まで行って確認してみたところ、「御神体」は無事に箱の中に収まっていました。おそらく、神社の建物全体が津波によって後ろの山に押しつけられ続けたのでしょう。後ろの山は、丁度、両腕を広げて受け入れるような形状をしていましたので脇の方から流出することなく、神社の前には川の堤防がありましたので、津波の引き波で海まで持って行かれることもなく、境内地に留まり続けたのでしょう。他の境内末社の「御神体」の無事も確認できました。当日は一人でどうすることもできなかったので、無事を確認したのみで避難先の名取市の姉の家にもどりました。

それから二、三日後のことです。どういう訳か胸騒ぎがして仕方なく、居ても立ってもおられなくなりました。翌日、車を借りて神社まで来てみましたところ、「御神体」のあった辺りのガレキが撤去されていて、そのすぐ側に一台の重機が横付けされていました。慌てて「御神体」を探したところ、収まっていた箱は壊されてしまっていましたが、「御神体」そのものは無事でした。どうやら津波で傷んだ堤防を補修するための重機らしく、国土交通省の河川局で用意したもののようです。取り急ぎ各「御神体」を車に積み込んで、当時、津波被害は受けていましたが比較的無事だった宮司宅の神殿にお遷し致しました。そのまま今日に至っております。又、被災地では携帯が使用できない状態になっていましたので、姉の家に戻ってすぐに県の神社庁に連絡を入れて事態の詳細を説明し、被災神社に重機などが入らないように手配してくれるようにと御願いしました。

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現在、新境内地の測量も無事に終え、登記まであと少しのところにきています。「御神体」は無事だったのですが、旧境内地がスーパー堤防用地となってしまうため、「御神体」をお祀(まつ)りする神社境内地が無い状態なのです。

そもそも神社境内地とは、神霊にお鎮まりいただくための、或いは神霊にご降臨いただくための、「魔法陣」のような、或る種の“装置”みたいな構造になっているのものなのです。
〈これまで幾度となく当掲示場に記してきましたが、邪霊にコンタクトするための装置といえば、日本で言う「狐狗狸(こっくり)さん」の元にもなった、西洋伝来の「ウィジャ盤」等があります。かなり歴史的には古いもので、その起源はギリシア・ローマの時代まで遡れるかもしれません。もしかしたら、メソポタミアの古代ペルシアあたりにルーツがあるものなのかもしれません。〉


日本の神社の起源は、縄文時代早期の
●「環状列石(ストーン・サークル)」・「列状配石」などの祭祀遺跡にあります。


それが、
●「磐境(イワサカ)」
神霊を招く聖なる場所とするための、外界との「境界となる石」。つまり、これが神社の建物を取り巻く「境内林」のルーツとなります。祭壇を設ける祭りの場合には、「四方の竹、しめ縄」が同じ働きをします。

●「磐座(イワクラ)」
神霊の依代(よりしろ)となる岩石。神さまが来臨するための石のことです。これが神社の「御神体」へと変化します。


この「磐境(イワサカ)」・「磐座(イワクラ)」は、“国つ神”をお祀(まつ)りしていた定住性の強い民が行っていた祭祀形態です。後に、移動性の強い“天つ神” をお祀(まつ)りする民がもたらしたのが「神籬(ヒモロキ)」祭祀となります。「神籬(ヒモロキ)」とは、神霊の来臨を仰ぐための、樹木や枝によって作られる臨時のモバイル施設ということになります。家を新築する際に行われる「地鎮祭(じちんさい)」がそれに当たります。つまり、祭壇に「神籬(ヒモロキ)」を立て、四方に竹・しめ縄を回らして、臨時の神社をつくって神様をお招きして祈願するのです。

とにかく一日も早く、神さまの「御神体」をお祀りするための「神社境内」を整えたいという気持ちでいっぱいです。



※参考
●「社(ヤシロ)」 
「屋代(やしろ)」のことで、屋を建てるために設けられた区域、もしくは屋の代りになる物。つまり、常設の社殿の存在しない、祭場となる特定の聖域。


●「宮(ミヤ)」
次第に、神霊の常在を願う気持ちが高まってくると、祭祀のたびに新設する簡単な建物ではなく、常設の社殿となる「ミヤ」がつくられるようになります。
「ミヤ」とは「御屋(みや)」のことで、単なる屋ではなく、”尊い建物”を意味します。

といった変遷を遂げました。


◆縄文人の「神棚」
縄文時代の中期から後期にかけて、居住地の奥壁部には“石柱(立石)”や“石棒”が立てられていたり、“石壇”とよばれる床より高い位置に平石、敷石を配したものがありします。その近くには炉がつくられ、土器や石皿を置いて供物を浄化して、“立石”に憑かるマナ(神霊)をまつる儀礼(祭祀)がおこなわれていました。


[168] ●『ある明治人の記録』 Name:道開き Date:2013/06/26(水) 15:26 
会津藩士の家に生まれ、10歳の時に会津戦争を経験した陸軍大将・柴五郎の回顧録で、『ある明治人の記録』として中公新書から出ています。明治三十三年、駐在武官であったときに北清事変(義和団の乱)に遭うも、「北京籠城」の総指揮官としての冷静沈着な行動が諸外国から賞賛された人物です。

この書には、当時の会津藩内の騒然とした様子が事細かに記されており、その内の一部を抜粋してみます。籠城して、戦いながら亡くなられ藩士たちは、それなりに本望だったに違いありませんが、どの戦争でもそうなのでしょうが、非戦闘員の方たちの亡くなり方が悲惨で、哀れでなりません。


「これら女子の始末は、それぞれの家にまかせあり、去るもよし、籠城するもよし」「婦女子にして籠城抗戦を決せるものは、すでに城中にありて部署につきたるも、その他はいまだ家中にとどまりて待機せり」

父兄は抗戦のために城中に入り、「男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪(そそ)ぐべきなりとし(一人だけ、山あいの親戚の所に遣られる)、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵量を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約し」て、祖母、母、兄嫁、姉、幼い妹が自刃を遂げる。「木村家に嫁したる姉も、負傷して動けぬ夫君をはじめ一家九名ことごとく自刃する。叔母中沢家も同様にて・・・・」


「城中にて婦女子の活躍ぶり、まこと目覚ましきことにて、敵砲丸(ほうがん)城中に落下すれば、水浸したる蓆(むしろ)、俵(たわら)の類を拡げて走り、この上に覆(おお)いて消し、その被害戦士におよぶを防ぐ。また傷者の手当、炊出しなど休む暇無く、衣服よごれ破れたるものかえりみず、血まみれになりて奮闘せる由なり。最後の時いたれば白無垢のいでたちに身を清め、薙刀(なぎなた)小脇に抱きていっせいに敵陣へ斬り込み果てる覚悟なりし」・・・・「年老いたる祖母、幼き姉妹なければ、母上は城中にて華々しくたち働きたらん」

一月に渡った籠城戦後、会津藩は降服することになったが、「藩士傷つける者多きも意気盛んにして、恥ずべきふるまいなし。全員帯刀を許されて城を出で猪苗代に護送されたりと聞く。沿道に敵軍蝟集して罵声をあびせ、唾吐きかけ、石投げつけなどするも、わが藩士泰然自若、形を崩す者なしとのことなり。・・・・」

後に、会津藩婦女子たちの城内での戦いぶりと、降服後も決して誇りを失わなかった藩士たちの振る舞いを耳にすることとなる。


「後世の歴史家たちが、会津藩を封建制護持の元凶のごとく伝え、会津戦争においては、会津の百姓、町民は薩長軍を歓迎し、これに協力せりと説くものあれども、史実を誤ること甚だしきものというべし。百姓、町民に加えたる暴虐の挙、全東北に及びたること多くの記録あれど、故意に抹殺されたるは不満に堪えざることなり。」

「一般藩民より募兵せるに、多くの応募をみたるほどにて、・・・農民より募兵せるに二十歳より四十歳にいたるもの二千七百・・・・力量ある者をあつめて力士隊、山伏修験者などにより修験隊、猟夫によりて猟師隊、僧侶は奇勝隊に編入し・・・これらの隊を編成するにあたり強制することなく、他に身寄りあらば逃るるもよしとの布令あり。」


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長州征伐時に高杉晋作が編成したとされる奇兵隊ほかの諸隊については数多くの歴史番組でも取り上げられて有名ですが、会津藩内でも同じ動きが起こっていたようです。勝てば官軍で、長州藩の義勇兵については頻繁に取り上げられますが、会津の場合はほとんど取り上げられたことがないのが現実のようです。

家老の西郷頼母の、母、妹2人、妻、5人の娘たちが親戚12人と共に自刃したことはよく取り上げられますが、会津藩内で同様の自刃を遂げた方たちの数はどれ程までに上ったのでしょう。明治に入ってからでも正確に調べられたことがあったのでしょうか。それとも、どうでもよい賊軍内で起きた出来事として黙殺されてしまったのでしょうか。より詳しく会津戦争のことを記した資料はどこにも残っていないのか。


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明治ニ年、佐幕の南部藩より陸奥国二戸、三戸、北の三郡を割き、これを旧会津藩に与えるものにて斗南(となみ)藩と名付く。冬の氷点下二十度にまで下がる下北半島の火山灰地での生活は、耕す鍬(くわ)もなく、伏する褥(しとね)なく、寒風に蓆(むしろ)を張り、草の根を噛む有様で、「餓死との戦い」はまとに乞食にも劣る有様であったという。

「会津に対する変わらざる聖慮の賜物なりと泣いて悦びしも、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪に他ならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。」



明治十年、西南の役が起こり、討伐の詔勅が下された際には、「芋(いも)征伐仰せ出さる、めでたし、めでたし」「今にして一矢を報いざれば地下の父母に申し訳ない」と翁の三人の兄を始め、多くの旧会津藩士たちが東京に馳せ参じ鹿児島に向かったということです。

これとは逆に、西郷の反乱を、会津旧藩士と志を同じくするものと解釈して、討伐軍に加わらなかった者たちも少なからずあったという。会津の怨みを、反徒征伐に利用されてはたまらぬと考えた者たちも多かったらしいのです。


[166] ●日本の“おもてなし”文化 Name:道開き Date:2013/05/23(木) 07:30 
下の書き込み〔165〕年越しの夜 に続きます。
10年ほど前に小泉内閣が打ち出した “ビジット・ジャパン構想”は、海外からの観光客の来訪を促そうというもので、現在では円安の追い風を受けて非常に功を奏しているようにも見受けられます。この一年は過去最高の来訪者を数えたと昨日のニュースでも取り上げられていました。

“おもてなし”という言葉で表わされる日本独特の「ホスピタリティー」文化は、来訪する神々や御先祖さまを四季折々の食材で饗応した、日本古来の“おまつり”文化とも関連性があるようにも思われますが、いかがなものか。アカデミー賞を受けた宮崎アニメの『千と千尋の神隠し』の舞台になっていたのは八百万の神々を“おもてなし”する湯宿でした。


※参考

●お盆
正しくは【盂蘭盆(うらぼん)】、あるいは【盂蘭盆会(うらぼんえ)】といい、古代インドの梵語(ぼんご)(サンスクリット語)の、「さかさ吊(つ)り」を意味する「ウランバナ」を語源とする。これは、亡き母が地獄でさかさ吊りの苦しみに逢っていることを知った釈迦の弟子のひとりが、釈迦の教えにより七月十五日に衆僧に供養し、その功徳によって苦しみから母を救ったという盂蘭盆(うらぼん)経の説話に由来している。

しかし、お盆の行事の中には、仏教と関係のない要素も多分に含まれており、日本古来の、初秋におこなわれていた【祖霊祭】の名残りともされる。正月から半年後の旧暦の七月の満月のころ、祖先の霊が訪ねて来るという信仰は元々あったもので、その際に供物を載せる容器を日本の古語で「ボン」といったことから、盆になったという説もある。

現在では、【旧盆】(旧暦の盆)ではなく、新暦八月十三日〜十五日(又は十六日)の【月遅れ盆】で行っているところが多くなっている。以前までは、七夕(たなばた)と重なる七日ごろに「墓掃除(はかそうじ)」や「盆道作り」が行なわれ、魂(たま)祭り前の禊(みそぎ)に関連した「井戸さらい」や精霊迎えの「七夕馬(たなばたうま)」が作られた。これを【七日盆】と呼び、この日から盆の準備を始める地方も多い。

「盆の入り」の十三日の夕方には「迎え火」を焚いて、【精霊(しょうりょう)】(祖霊)や【新精霊(あらじょうろう)】(新仏〈しんぼとけ〉)、一緒に家までついてくる【外精霊(ほかじょうろう)】(無縁仏)をも迎え入れ、十五日(又は十六日)の夕方の「送り火」で送り出して「盆明け」となる。

盆棚(ぼんだな)には真菰(まこも)で編んだ茣蓙(ござ)を敷き、麻幹(おがら)やきゅうり、茄子(なす)で作った牛馬や盆花(ぼんばな)が据えられ、うり・すいか、なし、ぶどう等の季節の果物、菓子や素麺(そうめん)などが供えられ、四隅に立てられた青竹に引き回された縄(なわ)には、ホオズキや稲苗、サヤ付きの豆類が吊(つる)し下げられた。

また十三日には「迎え団子」といって、餡(あん)のついた団子を、十五日(又は十六日)には「送り団子」といって白い団子を供える風習もある。


●正月
十二月八日(又は十三日)を過ぎた頃から、一年のケガレを祓い落とす「煤払い」や「道具納め」、松飾り用の「松迎え」、「餅つき」などの一連の正月を迎えるための行事が行われる。正月行事の基本は、「トシ(年)神」と呼ばれる神格を家々に迎えまつることにあります。

この神の性格は複雑で、「トシ」とは「稲」を表す古語でもあり、農耕を行って来た人びとの間では「農耕神(穀霊神、田の神)」としての性格が強く、個々の先祖としての性格が浄化され大いなる神へと高まった「祖霊神」としての性格も見られます。

十二月の大晦日の晩に来訪されて、ほぼ半月間家々に滞在し、一月十四日の夜から「小正月」と呼ばれる十五日の朝にかけて(又は、七日の「飾りおろし」の日)、松飾りを焼く「ドント焼き」の煙に乗って、神の世界へと帰って行くとされている。

人々は「餅」や若水で作った「お雑煮」、「おせち」などを供えて年神をもてなしました。年神に供えた「鏡餅」には年神の霊が宿り、それを食べることで一年の無病息災が保証されると考えました。「お年玉」も同様に、年神の魂(タマ)を分与してもらうことに由来します。


●彼岸(ひがん)   
日本独特のもので、日本古来の先祖の霊を供養する習俗に仏教行事の彼岸会(ひがんえ)が結びついたもの。春、秋の二回あり、春分の日、秋分の日を中日とし、その前後三日間をさします。

彼岸のころは、太陽が真東から昇って真西に没するが、後に、この方向に阿弥陀如来の極楽浄土があるという西方浄土説と関係づけられました。「彼岸」の名称は、仏典の波羅蜜多(はらみった)という梵語(ぼんご・サンスクリット語)を漢訳した「到彼岸」という語に由来したもの。「生死の世界である此岸(しがん)の煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)して涅槃(ねはん)の世界に至る」という意味です。

春の彼岸には「牡丹餅(ぼたもち)」が、秋の彼岸には「お萩餅(おはぎもち)」がお供えされます。

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