[153] 「日本の歌 心の歌 3 」 投稿者:道開き投稿日:2006/05/17(Wed) 12:02 |
当然、日本の唱歌に限らず欧米の音楽だって良いものはいいです。
子供の頃から映画が好きだったもので、また映画の話になりますが・・・
高校一年のとき、初めて、オードリー・ヘップバーン主演のミュージカル映画『マイ・フェア・レディー』を観たときのこと。当時は、ビデオもDVDもなかった時代で、古い名画を観るには、映画館でリバイバル上映されるのを待つか、テレビ放映されるのを待つかのどちらかしかなかったのでした。
ようやく、みたくてみたくて仕方のなかった映画がやってきたということで、休日とはいえ、朝早くの電車で仙台まで出かけて観ることとなりました。
午前の部の第一回目の上映を観た後、感動のあまり席を立つことができず、そのまま午後の部の二回目の上映も観ることとなりました。「踊り明かそう」「運が良けりゃ」・・・聴き覚えのあるミュージカルナンバーの数々。「あれ、この曲も知っている。これも聴いたことがある曲だ」と、ただただ、感動、感動で鳥肌の立ちっぱなしといったところでした。まるで異次元空間を旅しているかのような数時間でした。
そして、このまま家に帰るのはもったいないと思われ、更に、夜の部の三回目の途中まで観て、さすがに帰宅時間も気になったので、後ろ髪を引かれる思いをしながらも映画館を出て帰路に着いたのを覚えています。帰りの電車の中でも夢心地で、家についてもそうでした。更に、その後、三日間ぐらいは感動の余韻に浸っていたように記憶しています。
社会的にどうとか、歴史的にどうのこうの、イデオロギー的にどうだこうだとかは全く関係なく、ただただ「良いものはいい」という思いだったのでしょう。
子供とはいえ、無意識に「温故知新」の真理を感じ取っていたのでしょう。・・・おそらく。
(そんな大層なことではまったくないのですが・・・・)
私的には、『陰陽五行説』は“バランス学”だと理解しています。「古きを温め 新しきを知る」という考え方だって、物事の“取捨選択におけるバランス感覚の真理”を端的に言い現している言葉のようにも受け止めています。よって、音楽の教科書にもバランスのとれていることを望みたいだけなのです。
結局、何が言いたいのかというと、義務教育においては、「基本的なことをバランス良く教えてもらえればいい」ということであって、あまり幼い内に、流行りものを持ち込んできて、学校側で極端な教え方をする必要など全くないということです。
農業をやっている人(・・・植物を種から育てたことのある人)なら、すぐに理解が出来ると思うのですが、幼い芽を出したばかりの植物に、ただ単に早い成長を促そうと考えて不必要に肥料をやっても枯らしてしまうだけです。根っから丈夫な種は更に成長を早めて大きく育って行くでしょうが、他の多くのものを枯らしたのなら何にもなりません。一部のエリートだけが育って行けばよいというものではないと思われます。
小学校への英語の導入も似たような問題を孕んでいるようにも思われてなりません。
新しい流行り物は、本人が興味さえ持てば、ほおっておいても自分から進んで学習して行くものと思われます。ロック音楽に興味が持てれば、自分からエレキギターやドラムの演奏を始めようとするでしょうし、パソコンや車、メカに興味を持てば自分からそれらのものをいじくりだすようになるでしょう。
但し、文学でも、音楽でも、いわゆる「古典」と呼ばれるものは、学校で教えなければその後に学ぶ機会はかなり少なくなってしまうと考えられるのです。
さらに、「よく学び よく遊べ」でないと“人格形成のバランス”だって上手くいかないことでしょう。つまり、“遊び人”でも困るし、“ガリ勉”でも困る。・・・・・・・・・・・
こういったことを考えてみると、本当に「教育の現場」って大変だなぁ〜とつくづく思われます。精神的に障害を持ち始める学校の先生が増えていると言われていますが、何となく解るような気もします。
とにかく、一番に望まれるのは、「温故知新」や「よく学び よく遊べ」の感性を身につけずに育ってきた“偏差値エリート”の文部官僚が、「ゆとり教育」云々のように、頭の中だけでこしらえた“非現実的教育方針”を打ち出したりといった、余計なことをしないことだけを切に願います。これが一番心配です。・・・・・・日本の今後の為にも。
[152] 「日本の歌 心の歌 Part2 」 投稿者:道開き投稿日:2006/05/12(Fri) 20:04 |
以下の「唱歌」も、もの心ついた頃の私が、幼心に「いいなぁ〜」と思われた2曲です。私が「いいなぁ〜」と感じたのだから、今の日本の子供たちだって、必ずや「いいなぁ〜」と感じることでしょう。
♪『里の秋』♪♪
静かな 静かな 里の秋
お背戸(おせど)に 木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんと ただ二人
栗の実 煮(に)てます 囲炉裏端(いろりばた)
明るい 明るい 星の空
鳴き 鳴き 夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんの あの笑顔
栗の実 食べては 思い出す
さよなら さよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ 父さんよ 御無事でと
今夜も 母さんと 祈ります
♪『茶摘(ちゃつみ)』
夏も近づく 八十八夜
野にも山にも 若葉が茂る
あれに見えるは 茶摘ぢゃないか。
茜襷(あかねだすき)に 菅(すげ)の笠
日和(ひより)つづきの 今日この頃を
心のどかに 摘みつつ 歌う
摘めよ 摘め摘め 摘まねばならぬ
摘まにゃ 日本の茶にならぬ
とにかくこういった、「世代を越えて共通の価値を見出せるもの」をしっかりと残していかないと、日本の社会が、「各世代ごとに分断されて」しまいそうで、日本の将来が心配になってしまいます。
子供たちが、“親殺し"や“校内暴力"に走ったりしないように、早い内からこういった「唱歌」を聴かせて行った方が良いと考えられます。
[151] 「日本の歌 心の歌」 投稿者:道開き投稿日:2006/04/25(Tue) 09:20 |
最近、日本の唱歌にどっぷりとハマっています。特に、芹洋子さん、ダーク・ダックス等の、所謂、“聴かせる歌手”の方たちが歌う「唱歌」がいいのです。
今国会において、ようやく「教育基本法」の改正案が通過することになりそうです。これは、日本の国家にとっては大いなる慶事だと思われます。教育は百年の計、国の一つの大きなターニング・ポイントとなるはずです。教育基本法に伝統、文化、公(おおやけ、公共性)、愛国、宗教性に関する文言が組み込まれます。
戦後の日本社会の混乱の元凶はそういったものを教育から排除しようとした“教育の荒廃”にあったとも考えられているからです。
最近の音楽の教科書にも、『夜空のムコウ』、『翼をください』、ビートルズの『イエスタデー』、『ミッキーマウス・マーチ』等の大衆受けする曲が載せられたりしているということです。個人の自由、平等、愛、喜びをうたった歌もそれはそれでいいのだけれど・・・
その分、“自然と人の織なす生活のさま”を表現した、格調高い、文語調の、魂にしみこんでくる抒情詩の「唱歌」が削られてしまった。
『夏は来ぬ』♪♪
卯(う)の花の 匂(にお)う垣根に
時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ
五月雨(さみだれ)の 注(そそ)ぐ山田に
早乙女(さおとめ)が、裳裾(もすそ)濡(ぬ)らして
玉苗(たまなえ)植うる、夏は来ぬ
橘(たちばな)の 薫(かお)る軒端(のきば)の
窓近く、蛍(ほたる)飛びかい
怠(おこた)り諌(いさ)むる、夏は来ぬ
楝(おうち)ちる、川べの宿の
門(かど)遠く、水鶏(くいな)声して
夕月すずしき、夏は来ぬ
五月(さつき)やみ、蛍飛びかい
水鶏(くいな)鳴き、卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ
『朧月夜』♪♪
菜の花畠(ばたけ)に、入り日薄れ
見わたす山の端(は)、霞(かすみ)ふかし
春風そよふく、空を見れば
夕月(ゆうづき)かかりて、におい淡(あわ)し
里わの火影(ほかげ)も、森の色も
田中の小路(こみち)を、たどる人も
蛙(かわず)のなくねも、かねの音も
さながら霞(かす)める、朧(おぼろ)月夜
ベスト・セラーとなった、解剖学の権威・養老猛司先生の『バカの壁』を読んだことがあります。
現代社会は都市型(脳、意識)に偏向しすぎていて、それと対をなしてきた田舎型(身体、無意識)がなおざりにされ、社会全体としてのバランスを崩していると。・・・
「個人の礼賛」が過ぎ、「共同体の崩壊」をもたらしていると。・・・・
アウシュビッツの強制収容所に収容され、地獄の底を体験したV.E.フランクルという心理学者が、一貫して「人生の意味」について論じている内容をも取り上げていました。
(『夜と霧』、『意味への意思』、『〈生きる意味〉を求めて』等の著書あり)
「人生の意味は外部にある。自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。」つまり、
「人生の意味は、常に周囲の人、社会との関係から生まれる」と。
[150] 急告!!!!! 投稿者:道開き投稿日:2006/03/19(Sun) 10:50 |
最近、この掲示板上において、本サイトの趣旨からみて不適切と思われる書き込みが多くなりました。当分のあいだは書き込みできないように設定させていただくこととなります。
尚、当方からの書き込みは、これまで通りに行わせていただきます。
[149] 『国家の品格』3 投稿者:道開き投稿日:2006/03/19(Sun) 10:49 |
本から、その一部を抜粋してみます。
●欧米人の「論理の出発点」
1688年の名誉革命を擁護し、「王権神授説」を否定するためにジョン・ロックにより書かれた『統治二論』。“国民主権”を唱え、著書中に「人間は生まれながらにして完全な“自由”を持つ。人間はすべて“平等”であり、他の誰からも制約を受けない」とも記しました。
そして、個人は自由に快楽を追求してよい、全能の神が社会に調和をもたらしてくれるから、と述べました。なんと無責任でデタラメな発言でしょう。ロックこそは、自由主義、功利主義、近代資本主義の祖と呼んでも過言ではないでしょう。
ロックの言う“自由”や“平等”は、「王権神授説」を否定するピューリタンの考えに過ぎず、私から見ればほとんどが独断です。
“自由”の強調は「身勝手の助長」にしかつながらない。“自由”と“自由”は正面衝突します。たとえば“言論の自由”は“プライバシーを守る自由”と衝突します。“平等”と“平等”も衝突です。“平等”な条件で競争すると「弱肉強食」となり、貧富の差が大きくなり、「不平等」となります。
ロックの背景には、16世紀の宗教改革に始まったカルヴァン主義の「予定説」があります。カルヴァン主義は当時のヨーロッパでも理解され難かったらしく、プロテスタント間の大論争となり、教会の分裂などを引き起こしました。
経済学の出発点となったアダム・スミスの「国富論」はロックの経済版であることは明らかです。アメリカ式の「市場経済」はこれを元としている。
“自由”と“平等”はアメリカ合衆国の「独立宣言」に再登場となります。
「我々は次の事実を自明と信ずる。すべての人間は平等であり、神により生存、自由、そして幸福の追求など犯すべからざる権利を与えられている」と、
ロックの言葉の焼き直しをしました。
その宣言をおこなった後の第三代大統領トマス・ジェファーソンがアメリカの先住民を大々的に迫害し、黒人奴隷を百人以上も所有していました。
アメリカ式「市場経済」において、確率微分方程式という高等数学を用いた経済理論より作られた金融派生商品「デリバティブ」は、最大級の時限爆弾のようなものとなり、いつ世界経済をメチャクチャにするのか、息をひそめて見守らねばならないものになっている。
●民主主義と「真のエリート」論
大前提となる「成熟した国民による」民主主義、国民主権、主権在民とはいっても、「国民は永遠に成熟しない」もの。
「真のエリート」というものが、民主主義であれ、国家には絶対必要で、この人たちが、暴走の危険を原理的にはらむ民主主義を抑制するのです。
一万人の殺人犯がいても、先進国家は何ともない。しかし、一万人の真のエリートがいなかったら潰れます。
真のエリートには二つの条件があります。第一に、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、「何の役にも立たないような教養をたっぷりと身につけていること。」そうした教養を背景として、「庶民とは比較にもならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。」
第二条件は、「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があることです。
昔の、旧制中学、旧制高校は、こうした意味でのエリート養成機関でした。
現在の官僚は真のエリートにあらず、いわゆる「偏差値エリート」です。
●真の国際化とは
“グローバリズム”は、冷戦後の世界制覇を狙うアメリカの戦略に過ぎない。グローバリズムは「歴史的誤り」。世界を“アメリカ化”、“画一化”してしまう。「市場経済」は、社会を少数の勝ち組と大多数の負け組みにはっきり分ける仕組みなのです。
“情緒や形”を育てる主力は読書なので、小学校から英語を教えたりするよりも、「若い時こそ名作を読め」。
国際社会というものはオーケストラみたいなものです。オーケストラには、例えば弦楽器ならばヴァイオリンとヴィオラとチェロとコントラバスがある。だからといって、それらの楽器を合わせたような音色の楽器を作って、オーケストラに参加しようとしても、必ず断られる。オーケストラはそんな楽器は必要としないからです。
ヴァイオリンはヴァイオリンのように鳴ってはじめて価値がある。「日本人は日本人のように思い、考え、行動して初めて国際社会の場で価値を持つ」。
●国家の底力
どんな国でも経済的に発展する場合、常に工業の発展がベースとなります。金融やサービスによる繁栄は、偽の繁栄であり長続きしません。長期的に経済発展する国は、数学や理論物理のレベルが高い。
こうした「すぐ役に立たないことを命がけでやっている人たちの層が厚い」ということが、「国家の底力」と思う。
結局、伸びる国というのは、国家にそのような厚みと余裕がないと、長期的な発展はあり得ない。
●天才の出る風土
面白いことに、天才は人口に比例してあちこちから出現しているわけではありません。一定の国、一定の地域からしか生まれていない。
例えば、国の人口が四百万人にも満たないアイルランドという国は、数学、文学の面でもキラ星のごとき天才を生み出しています。
天才を生む土壌には三つの共通点がある。
その第一は、「美の存在」です。美しい田園風景、壮麗な寺院・・・が回りにあること。
第二は、「跪(ひざまず)く心」があるということ。“神仏”や“偉大な自然”、“伝統”といったものに跪けるかどうかです。
第三の条件は、「精神性を尊ぶ風土」です。“役に立たないことをも尊ぶという風土”です。文学、芸術、宗教など、直接に役に立たないことをも重んじる。“金銭や世俗的なものを低く見る”。そういう風土です。
[148] ありがとうございました。 投稿者:AI投稿日:2006/03/18(Sat) 17:30 |
お返事が遅れてもうしわけありません。
辛抱強く毎日神棚に手を合わせてみます。
ありがとうございました。
[147] Re:こんにちは 投稿者:道開き投稿日:2006/03/16(Thu) 09:09 |
男女を問わず、誰でも外にでれば7人の敵は間違いなくいるでしょうし、どうしても仲の良くならない、そりが合わない親子、兄弟だって多くいると思われます。
相田みつをさんの『にんげんだもの』じゃないですが、人間、いや、動物として生を受けた限りはそういったことはある程度仕方がないことにも思われます。
そういった、人と人とのトラブル事は、神様に俯瞰的に見てていただいて、良き方へと導いていただけるようにお店に神棚をお祀りして、AIさんでけでも常に心の中で手を合わせるようにして行ってみたらいかがでしょうか。
ほとんどの会社、ご家庭でも、そのような仕方で神様の御守り、お導きを得ようとなさっているのでしょうし、単純なようですが根気強くそういった事を続けていくしかないのではと思われます。
[146] ご相談させてください 投稿者:AI投稿日:2006/03/15(Wed) 21:57 |
初めて書き込み致します。義理の兄弟の仲があまり良くなくて心配です。義弟の方が無信心なのに対し、兄の方は信心深い事から始まり、義弟はなにかと反発しているようです。現在自営業をしていて同じ職場にいるのですが、意見の違いで度々衝突します。こんな状態が続くことで兄弟がばらばらになってしまうのはとても嫌なんです。なにか私に出来る事とかはないでしょうか?
[145] 『国家の品格』 2 投稿者:道開き 投稿日:2006/03/15(Wed) 19:05 |
結局のところ、真理となるのは「温故知新」であり、・・・・“思想”や“文化”、”制度”を受け入れる際には、その“取捨選択”においては慎重な上にも更に慎重に行うべきだということになるのでしょう。
[144] 今一番の話題の著、『国家の品格』 投稿日:2006/03/15(Wed) 10:10 |
ここ最近、テレビ等のメディアで仕切りに取り上げられている一冊です。著者は数学者で、お茶の水女子大教授の藤原正彦氏。『武田信玄』『八甲田死の彷徨』『聖職の碑』等で有名な作家、新田次郎、藤原ていさんのご次男だそうです。
(以下は、前文よりの抜粋となります)
・・・・・イギリスから帰国後、私の中で「論理」の地位が大きく低下し、「情緒とか形」がますます大きくなりました。ここで言う「情緒とは、喜怒哀楽のような誰でも生まれつき持っているものではなく、“懐かしさ”とか“もののあわれ”といった、教育によって培われるもの」です。「形とは主に、“武士道精神”からくる行動基準」です。
ともに日本人を特徴づけるもので、「国柄」とも言うべきものでした。これらは昭和の初め頃から少しずつ失われてきましたが、終戦で手酷く傷つけられ、バブルの崩壊後は、崖から突き落とされるように捨てられてしまいました。なかなか克服できない不況に狼狽した日本人は、“正気”を失い、“改革”イコール“改善”と勘違いしたまま、それまでの美風をかなぐり捨て、闇雲に改革へ走ったためです。
経済改革の柱となった“市場原理”をはじめ、留まるところを知らない「アメリカ化」は、経済を遥かに超えて、社会、文化、国民性にまで深い影響を与えてしまったのです。“金銭至上主義”に取り憑かれた日本人は、マネーゲームとしての、財力にまかせた法律違反すれすれのメディア買収を、卑怯とも下品とも思わなくなってしまったのです。
戦後、「祖国への誇りや自信を失うように教育され」、すっかり足腰の弱っていた日本人は、世界に誇るべき我が国古来の「情緒と形」をあっさり忘れ、市場経済に代表される、欧米の「論理と合理」に身を売ってしまったのです。
日本はこうして国柄を失いました。「国家の品格」をなくしてしまったのです。現在進行中の“グローバル化”とは、「世界を均質にするもの」です。日本人はこの世界の趨勢に敢然と戦いを挑むべきと思います。普通の国となってはいけないのです。欧米支配下の野卑な世界にあって、「孤高の日本」でなければいけません。「孤高の日本」を取り戻し、世界に範を垂れることこそが、日本に果たしうる、“人類への世界史的貢献”と思うのです。・・・・・・・・・・・
〈目次〉
第一章 近代的合理精神の限界
すべての先進国で社会の荒廃が進行している。その原因は、近代のあらゆるイデオロギーの根幹を成す「近代的合理精神」が限界にぶつかったことにある。
第二章 「論理」だけでは世界が破綻する
「論理を徹底すれば問題が解決できる」という考えは誤りである。帝国主義でも共産主義でも例外はない。「美しい論理」に内在する四つの欠陥を指摘する。
第三章 自由、平等、民主主義を疑う
自由と平等の概念は欧米が作り上げた「フィクション」である。民主主義の前提条件、「成熟した国民」は永遠に存在しない。欧米社会の前提を根底から問う。
第四章 「情緒」と「形」の国、日本
自然への感受性、もののあわれ、懐かしさ、惻隠の情・・・・。論理偏重の欧米型文明に代わりうる、゜「情緒」や「形」を重んじた日本型文明の可能性。
第五章 「武士道精神」の復活を
鎌倉武士の「戦いの掟」だった武士道は、日本人道徳の中核わなす「武士道精神」へと洗練されてきた。新渡戸稲造の『武士道』をひも解きながら、その今日性を論じる。
第六章 なぜ「情緒と形」が大事なのか
「情緒と形」の文明は、日本に限定すべきものではない。そこには世界に通用する普遍性がある。六つの理由を挙げて説く、「情緒と形」の大切さ。
第七章 国家の品格
日本が目指すべきは「普通の国」ではない。他のどことも徹底的に違う「異常な国」だ。
― 「天才を生む国家」の条件、「品格ある国家」の指標とは。
[143] 当社の御祭神についてA 投稿者:道開き投稿日:2006/02/17(Fri) 20:01 |
★白鬚神社・比良明神・新羅神
滋賀県は琵琶湖の西岸、比良(ひら)山を中心とした比良連峰のふもとに鎮座する白鬚神社は、湖水に浮かぶ赤い大鳥居で有名です。社伝によると、垂仁天皇二十五年(BC4年)、皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)がこの地に来て社殿を建立して創建したとされる。
御祭神は猿田彦神。この地方の地主神であるともされ比良明神・白鬚明神とも呼ばれている。天智天皇の勅旨(ちょくし)によって比良明神の神号を賜ったとされる。
別説として、白日神〔筑紫の国神〕、または新羅神(しらぎがみ)であるともされている。
白の字のつく神社は朝鮮渡来の神を祀っているところが多く〔白峯神社、白山神社、白山比盗_社、白太夫社・・・等〕、この明神は、白鬚をたくわえた老翁の姿で現れるとされる。
★天台宗との関わり
新羅(しらぎ)から招来した神として園城寺(三井寺)の伽藍鎮守として祀られるとともに、広く天台寺門派における“護法神”とされているのが新羅(しんら)明神です。円珍(えんちん・智証大師)が平安時代初期に求法のために入唐したときに招来させたという。
円珍伝によると、円珍が帰国する際に、船中に老翁が現れ、「われは新羅明神なり。和尚のために仏法を守護し、慈尊の出世に至らん」と語り、帰国後に円珍が寺池を開拓したときも再びその姿を顕現させたという。よって、三井寺の北院に社殿を造営し、“護法鎮守”とした。今でも伝法灌頂(かんじょう)を受けた者以外には礼拝は許されていない。
東京都墨田区向島の鎮守・白鬚神社は、天暦五年(951)、慈覚大師が近江の国から勧請(かんじょう)したもの。
※亀廼井家は代々、本山派(園城寺の聖護院を拠点とした)の天台修験で、「亀海山南光院」を名乗ってきました。
聖護院とは、当時の天台修験の道場のような処で、我が先祖は、当地よりの要請を受けて派遣されてきたかたちで土着化したようです。明治維新後は、社家となり現在に至っています。
[142] 当社の御祭神について@ 投稿者:道開き投稿日:2006/02/17(Fri) 19:59 |
● 猿田彦命(さるたひこのみこと)
猿田彦という神さまは、国つ神の一柱(ひとはしら・“柱”は神様を数える際の単位)で、天孫(てんそん)ニニギノ命が豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに・この世、日本の意)に降臨(こうりん)したときに、天之八衢(あめのやちまた・天の道が多方面に分かれているところの意)で、上は高天の原を照らし、下は豊葦原中国を照らして立っていたという、たいへん神威の絶大なる神さま。
天孫を日向まで先導し、道案内をしたとされる神さまです(よって、“道開きの神”と称えられ、交通安全、海路・国土守護の神とされる)。身長すこぶる高く、顔赤くして鼻高く、眼は大きくその輝くさまは「ほおずき」の如くであったといいます。
現在でも、全国どこの神社でも、祭礼の神輿渡御(みこしとぎょ)が行われる際には、その先導は、この猿田彦命の面を付けた者が行います。
また、猿田彦神は、阿耶河(あざか・三重県壱志郡)の海岸で漁をしていたときに、比良夫貝(ひらぶがい)に手を挟まれて溺れた。そのとき、水底に沈んだときの名を「底どく御魂(みたま)」、海水に泡が立ったときの名を「粒立(つぶた)つ御魂」、水面に出て泡が開いたときの名を「泡咲(あわさく)御魂」と称したと『古事記』には出ているが、このことが何を意味しているのかは不明である。
●天宇受売命(あめのうずめのみこと)
天照大御神の「天の岩戸屋隠れ神話」において、集える八百万の神々の前で“神憑り的な”乱舞を行った女神として有名です。天照大御神を「天の岩戸」から無事に呼び戻した第一の功労者です。
「天孫降臨神話」に際しては、五部神の一柱として天孫に従いました。
天之八衢に立っていた猿田彦命の様子を見ていた天照大御神と高木神に、「お前はか弱き女神であるが、強敵にも対してもひるまぬ強い神である。道をふさいでいる神のところへ行って、なぜにわが子が降臨する道をふさいで邪魔するのか聞いてまいれ」という命を受けて猿田彦命と話し合いをもちましたことでも有名です。
やがて、猿田彦命とは伊勢の地において夫婦神となり、後に名を“猿女(さるめ)の君”と名乗り、その子孫も代々“猿女(さるめ)”と称する。「神楽・舞踏の神」、「芸能の神」、神憑り的状態になった乱舞により、「鎮魂行の神」。
●天太玉命/布刀魂命(あめのふとだまのみこと/ふとだまのみこと)
天照大御神の「天の岩戸屋隠れ神話」において、鹿卜(占い)をし、榊(さかき)に八尺の勾玉(やさかのまがたま)、八咫の鏡(やたのかがみ)・・・を付けた太玉串(ふとたまぐし)を手に取り持った神です。
「天孫降臨神話」に際しては、五部神の一柱として天孫に従いました。大和朝廷において祭器を作り、神事を奉仕してきた忌部(いんべ・斎部)氏の遠祖とされます。
★「道祖神」と猿田彦命
男女が抱き合った姿の道祖神(どうそじん)とは、実は猿田彦神を祀ったものであるという俗説が古くからある。天の道が多方面に分かれているところ“天之八衢(あめのやちまた)“における神話に由来すると考えられる。「道祖神信仰」と「庚申信仰」が結びついて祀られるようにもなった。
★【垂加神道】における猿田彦命
江戸時代初期の儒者・山崎闇斎(あんさい)が提唱した神道【垂加(すいか)神道】では、朱子学における「理」を、わが国古来の神道の「天之御中主(あめのみなかぬし)神」に当たるとした。そして、その教えを『日本書紀』神代巻にある神々の働きに求めた。
道は「日神(天照大神)」、教えは「猿田彦の導」くところだと説く。彼はアマテラスの御徳義と一体になるためには、一心不乱に神に祈り、微塵の曇りなき心身の清浄をたもたねばならないとし、そうすることではじめて神明に通ずるとした。これがアマテラスの神勅から採られた垂加神道で特に重んじられた「神垂祈祷(しんすいきとう)、冥加正直(みょうがせいちょく)」の意味である。
そして、「天照大神の道(神道)」は、すなわち「天皇の道」となると説く。
★合気道の守護神
合気道の創始者の名は植芝盛平(うえしばもりへい)である。
翁は猿多毘古〈さるたひこ〉大神からその合気の道を伝授されたのだという。
合気とは、猿多毘古〈さるたひこ〉大神が皇大御神〈すめおおみかみ〉のミコトモチとして植芝盛平翁に下した道である。そして、合気とは、“合気道の守護神”・天之叢雲〈あめのむらくも〉クキサムハラ竜王(又の名を速武産〈はやたけむす〉大神)の「働き」だという。
[141] こんばんわ 投稿者:いきなおし投稿日:2006/01/31(Tue) 22:26 |
結局、そちらには伺ってません。
心の中でお参りしてみましたが、さて・・・
何はともあれ、状況が整ったら、伺いたいと思っています。
[140] Re:こんにちは 投稿者:道開き 投稿日:投稿日:2006/01/26(Thu) 08:10 |
ようこそ、いきなおし様。
いろいろと大変な時期にお在りなのですね。
私、これから二日ほど県内某所に研修に出かけまして、帰った翌日から、また二日ほど金華山に行っております。
もしかしたらお会いできないかもしれませんね。
て゛も、神さまには思いを寄せれば瞬時につながれますので、心を合わせてみて下さいネ。ではでは。
[139] こんにちは 投稿者:いきなおし投稿日:2006/01/25(Wed) 21:30 |
実はだいぶ以前にもこちらに書き込んだことがあるのですが、そのとき何と名乗ったかよく覚えていません。最近、色々と人生の変わり目にあると感じています。
今までの行きがかりがリセットされて、ゼロから再スタートの観があり、逆に何をしたらいいのか見当がつかない気がしておりました。
本日、心理相談室でユング心理学というか、催眠に近いもので、意識の深い部分を探っていたのですが、天狗が出てきて、本を開いて調べ物をし、北のほうに物凄いスピードで飛んで行ってしまう、というイメージが出てきました。
そこでなんとなくこちらのことを思い出したのですが、まさに導きの神ということで驚いたのですが、さらに天狗は猿田彦神という説がある、という記述を見て二度驚きました。
明日にでも、新幹線に飛び乗って、参拝に伺うべきか、と考えています。
[138] 小野田“力”(または横井“力”) 教育 投稿者:道開き 2006/01/21(Sat) 10:48 |
「日本の社会が崩壊しつつある。」と言われるようになってからだいぶ久しい。最近では、石原都知事などは「日本がドロドロ溶け始めている。」といった表現をしきりになされています。
以下は、以前にもこの掲示板に書き込みした内容に重なります。
数年前、宮城県内のある大社で、フィリピンはルバング島生き残りの元陸軍少尉・小野田寛郎さんのご講話を拝聴する機会を得ました。
(氏は現在、隣県の福島で青少年を対象とした「自然塾」を主宰なさっていらっしゃいます。よくテレビに取り上げられてもいますので、ご存知の方も多いことでしょう。)
http://www.andec.com/onoda/
(私、質問好きなもので) その時に質問させていただいた際に、小野田さんの“日本刀の切っ先のような眼差しをこの身に向けられた”という記憶がいまだに強く残っています。それ程までに鋭い眼光をお持ちの方でした。
ジャングルの中で生活を送っていたので、「五官といったものがフルに活動していた」とのこと。馬は立ったまま寝ますが、当時の小野田さんはそういったことも出来たと言います。眠っている所のすぐ側を、ちょっとした小動物が通っただけでもすぐに目を覚ましたと言います。当時の小野田さんは、完全に野生の動物化していたようです。(山伏の様に山中で寝起きしていると、五官のみならず第六感〈シックスセンス〉も働きだし、霊能も開けてきたりもするみたいですが。)
グアム島の密林の中から28年ぶりに発見された旧日本陸軍軍曹「横井庄一さん」も同様の経験をなされたようです。
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小野田さん、収容された後、文明化された社会で暮らすようになってからはそういったものが萎えてしまったとのこと。その後の様々な体験や、紆余曲折もあり、「人は自然を忘れてしまうと本来的な姿を忘れてしまう」という信念に辿り着き、現在のように青少年たちに自然との触れ合いの場を提供する「自然塾」を主宰するようになったのだそうです。
現代文明の恩恵に浴して生活を送っている私たち、もし、離島やジャングルに、ポンと身を投げ出された場合には、小野田さんや横井さんのように30年も生き残っていられる人は皆無と言ってもよいでしょう。その多くは数ヶ月ともたないと考えられます。
ITなどの専門知識だけでも、その道のスペシャリストとしてかなりの成功を収めていられる時代ではありますが、小野田“力”(または横井“力”)とでもいった、人間としての「総合力」といったものは、やはり、自然との関わりが深い、農業、漁業、建設現場などでお仕事をなされていらっしゃる方たちの方が遥かにお持ちのように見受けられます。
よって、よりセクト化が進行している現代社会でも、子供の教育といったものは、あまり、最初から「スペシャリストの育成」に傾くことなく、先ずは、「小野田“力”(または横井“力”)教育」をベースに据えていってもらいたいと考えます。
そういった総合的なものが身についた後に専門知識を受けていければ、それらの知識も、あまり「現実離れしたものにならない」と考えられるからです。
幼少期から、英才教育を受けて育った人たちというのは、そうでない人たちに比べると、成人した後に、自殺やアル中に走ったりする確率がかなり高いのだそうです。
やはり、「純粋種は雑種に比べるとひ弱」になりがちです。
また、戦後の、現実感のない“偏差値教育”の優等生だった一部のエリートたちが、日本の社会をぐちゃぐちゃにし始めているようにも見受けられます。
よって、離島やジャングルとは違った現代の脅威にさらされている現代の子供たちには、学校の総合教育として、現実的で、現場感・臨場感のある「防災教育」「防犯教育」「食育」「環境教育」等をより身に付けさせていってもらいたいとも考えます。