[掲示板にもどるHOME]

[44] ●ハナコ世代 Name:道開き Date:2008/06/16(月) 20:41 
県内の某稲荷神社社報のコラムに書かれていた國學院大學の石井研二教授の一文を目にしましたところ、この世代について危惧されることが書かれていました。

1959 年〜1964年の時期に生まれた、女性世代。バブル期に青春を謳歌でき、いわゆる「女子大生ブーム」の担い手だった世代で、「ぶりっこ」とか「新人類」という言葉が使われた世代。「軽薄短小」高度消費社会の申し子で、彼女たちのバイブルが『Hanako』という雑誌だったことによるネーミング。私も、その世代の中に納まる男性の一人です。

「伝統文化の継承」について語られる際に、必ずといって取り上げられるのが、戦後まもない時期に大量に生まれ、高度経済成長期に青年期を過ごした“団塊(だんかい)の世代”です。
Tシャツにジーンズ、女性はミニスカート、そして、GS(グループサウンズ)に熱狂し、フォークソングがブームとなっていた世代です。

われわれ“ハナコ世代”(以後、男女混合の立場で使用)は、子供の頃に、“団塊の世代”の過激行動をテレビで何となく見ていました。大学紛争のニュース映像を見ながら、よく親たちが「最近の若い奴らは、大学生のくせに、勉強もしないでこんなまねばかりして・・・・」と言っているのを、さんざんと言うほどに耳にしていました。

しかし、古くからの日本の伝統を引き継いできた明治・大正生まれの親たちと激しくぶつかり合っていた“団塊の世代”の方達は、何だかんだ言っても、親の世代からの影響は強く受けていたようです。敗戦により戦前の国家体制は終わりを告げていましたが、戦前派バリバリの祖父母、父母に育てられ、戦後まもなくの大変な時期に幼少期を送っていたからです。

ところが、戦後からの儀礼や信仰のあり方の変化を見ると、バブル期に青年時代を過ごした“ハナコ世代”こそが、その後の大きな変化の先駆けであり、“団塊ジュニア”たちに方向性を指し示したようだと言うのです。・・・・“団塊の世代”に比べると余り目立ちませんが。

「普通の家庭の食卓」を調査した岩村暢子によると、現在、元旦におせち料理を作ったり食べたりしない世帯が三割に及んでいるという。(『普通の家族がいちばん怖い』新潮社)その中心は“ハナコ世代”の主婦たちなのだそうです。
彼女たちは「おせち料理は作るのも食べるのも嫌いですから、作る気も買う気もありません」「おせち料理は実家に帰って食べるもの。私は作らない物っていう感覚」と言い放つそうです。
「他との差別化」、「個性の表現」といったことがこの世代の顕著な特質なのだとのこと。


★★★
確かに、自分について考えてみても、物心のついた時には既に、『鉄人28号』や『鉄腕アトム』などのテレビアニメに夢中になっていました。
(小学校に入学する前に、親に連れられ初めて東京にいった際には、新宿あたりの本屋で『鉄人28号』の絵本を見つけ、どうしても欲しくて、欲しくて仕方が無く、泣きながら抵抗運動を試みたことを今でも憶えています。家の中の襖という襖、壁という壁を、『鉄人28号』と『鉄腕アトム』の落書きでいっぱいにしていました)

小学校に入るやいなや、『ウルトラマン』シリーズが始まり、「怪獣図鑑」で怪獣の名や、体重、体長などといったものを必死になって憶えたものでした。その後、少年雑誌で「スポーツ根性もの」と呼ばれる劇画が始まり、『巨人の星』や『アタックNO.1』に夢中になりました。何とかして“大リーグボール養成ギプス”を一度は身に着けてみたいと考えたものでした。

中学に入るや『仮面ライダー』シリーズが始まり、『スター誕生』が火を付けた“アイドル・ブーム”が到来しました。「同年代の山口百恵や、桜田淳子なんかよりも、お姉さまたちの天地真理さんや、麻丘めぐみさんの方が遙かに素敵だ」と憧れを抱いたものでした。

そして、青年期の「アメリカ崇拝と日本軽視」。どこの映画館に行ってもハリウッド映画ばかりが上映されていましたから、当然その様に洗脳されてしまったのでした。スクリーン上のアメリカン・ヒーロー達にただただ憧れを抱くばかりでした。

その当時は、「伝統文化の継承」といったことは、学校でも、テレビでも、地域社会でさえも、あまり重要視されていなかったように思われます。高校時代には、授業のたびに日本と天皇陛下の悪口ばかりを口にする世界史の先生もいました。情けないことに、その世界史が私の最も好きな科目でした。これも洋画の影響によるもの。

そして、「科学、科学、科学・・・」で、「科学こそが未来を明るく照らし出すもの」「科学が発達すれば人類は幸せになれる」といった感がありました。「その先頭を走り、世界をリードする役目を負っているのがアメリカ」なのだと考えていました。
“ハナコ世代”は“団塊の世代”のように古い世代の方達とぶつかり合うこともなく、ごくごく自然の内に、全くのノー・マーク独走態勢で、「伝統は変えていくべきもの」といった風に捉えていたような気がします。

私的に考えてみますと、“伝統的信仰心”とは異なりますが、「宮崎アニメ」を観たりして育っている分、“団塊ジュニア”たちの方が“ハナコ世代”に比べて信仰心はあるように思えます。しかし、「文化破壊」の傾向については、我々の世代よりもさらに強まっているように思われるのも確かです。
かえって、今の10代、20代の人たちの方が、学校で伝統文化の大切さを教えられたようで、「伝統文化の継承」の気持ちを、よりしっかりと持っているようです。

自分の場合、この“アメリカの呪縛“から抜け出すきっかけとなったのは、大学に入ってすぐに読んだ、司馬遼太郎の歴史小説でした。特に、『龍馬がゆく』です。幕末・明治期の日本人の“崇高さ”、“気骨”といったものを知り、「何だ、アメリカのヒーロー達よりも、もっともっと魅力的で、凄い人たちが、この日本には大勢いたのではないか」と思えたのでした。

かといって、「いいものはいい」といった“温故知新”の感性はそれなりに持ち続けていました。(憧れの坂本龍馬自身も、かなりの新しい物好きでした。袴の下には下駄や草履のかわりにブーツを履き、北辰一刀流の免許皆伝を受け、千葉道場の塾頭を務めた腕前を持ちながら、刀の変わりに懐には常にピストルを持ち歩いていた程です)

例えば、県内某神社に数年間奉職していた頃の話です。毎年、師走からお正月に掛けての超多忙な時期に、ちょうどクリスマスがやって来ます。その頃の街の雰囲気が好きで、“ミスター・ボイス”ことビング・クロスビーの「クリスマス・ソング」を、夜遅くに職舎に戻ってからゆっくりと聴くのがたまらなく好きでした。これは現在でも「my年中行事」になっています。


★★★
当時は、バブル期の真っ只中で、仕事なんて有り余るほどにあるもの、自由にいくらでも選べるものと考えていました。その狂乱バブルもやがては崩壊してしまいました。
“四川大地震”や“スマトラ沖大津波”などは、被害状況が映像によって映し出されたりもしていますが、“日本のバブル崩壊”は、映像によって映し出すことが出来ません。死者の数とか、破壊された家庭の数とかは、それらの自然災害を遙かに凌ぐものとなっているようです。

しかし、多くの日本人の目が、この“バブル崩壊”によって覚めたのも確かな事実です。経済のみならず、精神生活そのものも極めてバブルだったのだということに気づき始めたようです。歴史・伝統の上に立脚していない、つまり、地に根を張りめぐらしていない、まるで泡沫(うたかた)のような、砂上に楼閣を築くようなやり方で、「新たなる文化」の創造を追い求めてきたのではなかろうかと。

「チャンスの中にピンチあり」で、
私の学生時代には、日本の奇跡的な戦後復興を支えたのが“優秀な官僚機構”だということが書かれていた『ジャパン・アズ・NO.1』といった本がベスト・セラーになっていました。現在、その官僚機構こそが、日本の国家を治りにくい慢性病状態にしている感が否めません。

逆も真なりで、「ピンチの中にチャンスあり」。有珠山の噴火によって洞爺湖が水質汚染から甦ったように。・・・“オイルショック”により日本の「省エネ技術」が世界一に磨かれたように。・・・更には、その日本を参考にしてドイツが「自然エネルギー技術」を発展させたように。・・・・・・
この“バブル崩壊”こそが、“敗戦のショック”により失い掛けていた、古人が長い年月を掛けて培ってきて「精神文化」の甦り(よみがえり)を日本にもたらすことになるのではないかと期待しているのです。

日本は、地下資源の乏しい国であり、“人的資源”のみが頼りなのです。現在の社会状況をみるにつけ、「正しい教育」「正しい精神文化の継承」によってのみ、今後の明るい未来が開け、世の中の乱れが治まって行くものと考えられます。

歪んだ偏向教育をそのまま放置しておくと、“立派な”日本人どころか、学校や病院に限らず、日本中のここかしこで非道な振る舞いを繰り返す“モンスターな”日本人ばかりが増殖してしまいそうだからです。


[43] ●八大龍王(はちだいりゅうおう)碑 Name:道開き Date:2008/05/15(木) 21:36 
以前、キツネ憑きになった少女のお話を「陰陽五行への入り口」からのメニューの「掲示板」に書き記しましたが、今回はそのお父さんのAさんのお話になります。
やはり、娘さん同様の霊媒体質で、ここのところ、どうやら蛇に憑かれているようなのでお祓いして欲しいという連絡を受けました。

いつものように、ご神前での御祈祷の後、憑いているという蛇の語る話を聞いてみました。

(蛇)
「自分は蛇で、カエルを食べたりしていたが、もっと美味しい御飯を食べてみたかった。」「わしは、この近くに住むこの者の従兄弟(いとこ)に殺されたのだ。」
「こいつは、いつも白鬚神社にお参りして、高いお賽銭をあげたりもしているし、インターネットでしらべて大祓詞(おおはらいし)を唱えたりもしている。あなたよりも上手な程だ」と語る。
この他にも、このAさんのことのみならず、私のことについても多くのことを、しかも、詳しく知っていた。驚きです。

「あなたは猿田彦の大神の御分霊(ごぶんれい)だから、わたしは決して逆らったりはしません」と、私を怖がっているようです。

「どうしてこの人に憑いたりしているのか」と、こちらで問い質すと、それに対し、

(蛇)
「こいつ、白鬚神社に御参りした後、道を隔てて川の渕にあるこの“八大龍王さまの碑”(当サイトのビデオクリップにも映っている)の前まで来て、タバコなどをふかしていた。お宮のような建物でなく石でできているからといってバカにしているようにも見受けられた。それで、三匹でこいつに憑いたのだ。」
「こいつは、回りにある幾つかの“馬頭観音の碑”と、“八大龍王さまの碑”とを同じに考えていたようなのだ」と怒りながら話す。

(私)
「半月ほど前、“八大龍王碑”の回りにある山桜の枝や、巻き付いている蔓(つる)を払い、綺麗に掃除し終えたばかりだ」と話す。

(蛇)
「はい。先日は本当にありがとうございました」と御礼を言う。

(私)
「とにかくこの人に、白鬚神社に御参りするのと同様に、“八大龍王碑”にも手を合わせ、あなた達にも卵を欠かさないでお供えするように指導するから、とにかく離れなさい。そして、この人を守ってやってやりなさい」と説き伏せる。
その蛇、納得しているようだったので、
「以上、これにてお帰りいただきます。」と柏手を大きく打つと、そのまま去っていったようだ。


★この「八大龍王碑」では、毎年欠かさず春と秋の二度、白鬚神社例大祭の献膳式を終えた後に、御前で祝詞を奏上してお祭りを行っている。
どうやら、眷属(けんぞく・・・“神さまのお使い”、と言うよりも、今回の場合は“取り巻き”達)の蛇の精霊が、Aさんによるお仕えする神さまに対する無礼に怒って、一もんちゃく起こしたようなのです。
最近、やたらと、こういった類のお祓いが多いです。


[42] ●HV特集「四季 里山の音景色」 Name:道開き Date:2008/03/19(水) 11:06 
清少納言の『枕草子』的なお話(あくまでも自分にとっての)を少々させていただきたいと思います。

一年を通して田舎暮らしをしていて、何とも言えずたまらなく好きな瞬間があります。
それは、春先から秋にかけて、つまり、田植えから稲刈りにかけての稲作期間中、雨が降り始める時間帯に起きます。蛙(カエル)たちが一斉に鳴き始める瞬間です。

これは、恵みの雨に対する蛙たちの喜びの声なのでしょうが、これまでに、いったいどこに隠れていたのだろうと思われる程のおびただしい数の蛙たちが、あちらこちらで、一斉に鳴き始めるのです。

蛙のみならず当方までもが、この「生の横溢(おういつ)」「生への歓喜」が伝わってきて、何とも言えない程の至福感を味わうことが出来るのです。


地球温暖化により、かなりの種類の蛙たちが絶滅危惧種に指定されていると言うことです。
人にとって有益無害の動物であるこれらのカエルたちが、近辺からいなくなってしまうということは本当に寂しい事のように思われます。

こちら東北でも、ごくごく身近なところでの風景が、かなり変わってきているようにも思われます。
子どもの頃、近くの運河に氷が張っているのを見ていて、一度でいいから氷の上を歩いて対岸まで渡っていきたいと考えたものです。それが、ここ10年くらいは、たまに薄氷が張っているのを見る程度になってしまいました。


[41] ●“復古調”B ― 「エコ(環境)しぐさ」 Name:道開き Date:2007/11/19(月) 17:50 
前回の書き込み[40]に続きます。

アイドリング停止、こまめな節電スイッチ切り、ゴミの分別(「混ぜればゴミ、分ければ資源」をモットーとした)・・・等の“エコ・テクニック”を「江戸しぐさ」風にアレンジして行ければ、日本発の新たなるクローバル・スタンダード(国際標準)として通じる文化「エコ(環境)しぐさ」が生まれるのではなかろうかとも考えられます。


[40] “復古調”A ― 「江戸しぐさ」 Name:道開き Date:2007/11/14(水) 19:06 
前回の書き込み[39]において、「江戸風」と記しましたが、正確には「江戸しぐさ」と呼ぶようです。どういったものなのか、以下に要約して記してみます。

『身につけよう!江戸しぐさ』、『子どもが育つ 江戸しぐさ』
(越川禮子著)より

徳川幕府は、開府当時から、政治向きのことには口を出さず、謀反を起こさずという約束を江戸の町方と取り交わし、その代わりに、“自治権”を与えて町向きのことには干渉しないという約束をしました。
江戸時代も中期の文化・文政のころには、江戸の人口も120万人を越える大都市に成長していました。(当時、ヨーロッパ最大の都市といわれたロンドンでさえも85万人だったそうです。)

「江戸しぐさ」とは、この平和が268年も続いた世界最大級の大都市“江戸”の商人たちが、町が安泰で商売が繁盛するために、お客様と良い関係を築き、それを保つにはどうすればよいかと、“講(こう)”という組織の中で、あれこれいろいろと知恵を絞り、工夫を重ねて磨き上げた「人づきあいのノウハウ」がベースになっているそうです。

(※官僚とか、学者たち、一部の政財界の方たちが、有識者会議とか言って、ごくごく短期間の内に机上で作り上げてしまうようなものとは異なり、江戸の商人たちの長年に渡る営みの積み重ねから生み出された本当の“実学”です。)

「しぐさ」は「思草」と書き、「思」は思案、思慮、思想の思で、「草」は行為、行動、実行の「行ない」を意味し、「その人のこころがそのまま形となって表に出る」ことです。

江戸しぐさとは、「融合のしぐさ」「平和のしぐさ」であり、人類の貴重な無形文化財ともいえるもので、「共により良く生きる」ために、上に立つ者こそが心得ておかねばならないものであるとされました。

ルールを守る人は素敵で、「江戸っ子とは紳士の中の紳士」であり、「江戸しぐさ」が身に付いた人は、体の弱い人に席を譲るのも、困っている人をフォローするのも、黙ってサッと、スマートに実践してしまう。
「江戸しぐさ」とは、サッとやる瞬間芸で、江戸では「体談」といい、上手な人は、その人物の体に染み付いた考えや思いがそのまま行為となって語る、「イキ」なふるまいとされました。

例えば、「往来(おうらい)しぐさ」といわれる身のこなしです。
○「傘かしげ」
雨や雪の日、道ですれ違うとき、お互いに傘を外に向けて雫(しずく)がかからない配慮をすること。

○「肩引き」「腕引き」
狭い道を行き交うときは、お互いが右肩(右腕)を後ろに引いて胸と胸を合わせるように譲り合う。

○「こぶし腰浮かせ」
乗合舟で後に乗ってきた客人に先客たちが、こぶし分、腰を浮かせて詰め合わせる配慮。

この「江戸しぐさ」は、これまでに三度の危機を乗り越えてきたということです。一度目の危機が、明治維新後の新政府が押し進めた安易な西洋化政策。二度目が、先の大戦時の国家総動員令の発令。そして、三度目が、1960年代から始まった高度経済成長期後の“拝金主義”、“個人主義”、“偏差値教育”の蔓延です。これは現在まで続いています。

英国のロンドンなどでは、この「江戸しぐさ」のようなものが、現在でも日常茶飯事にみうけられるそうです。
アメリカの悪いところばかり真似をしているかのような現在の日本ですが、しかし、まるで東京の下に眠る江戸の町のように埋没してしまっているかのように思われる「江戸しぐさ」ですが、長い間、日本人の心の奥深く、DNAの中に深く染み込んでいて、決して死んではいないと言います


最近は、学校でも、この「江戸しぐさ」を教科書や副読本に取り上げて、活用しているところが増えているそうです。・・・・かなり期待できそう。

江戸の町をいくさやイジメのない町にするための様々なルール、それが「江戸しぐさ」です。
「江戸しぐさ」は外国(とつくに)つきあいと赤の他人とのつきあいを特に重視します。いわゆる異文化とのつきあいを大事にしました。それこそが平和と繁栄への“コツ”だとしたからです。

つまり、「江戸しぐさ」はグローバル・スタンダード(国際標準)として通じる“江戸の感性”。して気持ちいい、見せて格好いい「江戸しぐさ」、日本人独特の“良いクセ”を未来永劫伝えていくべきです。


[39] ●“復古調”― 「昔日の日本」への回帰 Name:道開き Date:2007/10/23(火) 19:47 
最近の日本社会、精神的には、かなり“復古”へと動いているように思われます。

何気なく立ち寄った本屋で、新書のコーナーを見回していましたら、「2007年上半期ベストセラー第1位!」と書いてある、黄色い大きなラベルの新書が真っ先に目に入りました。題名は、『日本人のしきたり』でした。
本の中身に目を通してみますと、何と、当サイトで重きを置いている、旧暦の「年中行事」や、昔からの「人生儀礼」に関する内容のものでした。

さらに、以前から“江戸風”がブームになっているということは知っていましたが、「江戸の躾(しつけ)や子育て」に関する本などもその脇に並んでいました。

どうも、昨今の日本人は、“アメリカ型の行き過ぎたグローバル経済”に辟易(へきえき)し、さらには、“教育の混乱”、“家族の崩壊”、“地域社会の荒廃” と、出口の見えない真っ暗なトンネルの中、昔の古き良き時代の日本の“見直し”の中に光明を見いだして、今後の“やり直し”のための参考にしようとしているようです。

ここに、太古よりの呪術性の強い物部(もののべ)系の神道、“巫部(かんなぎべ)神道”の継承者で、後の「神道十三派」の一つ“神理教”の創始者となった、佐野経彦(さのつねひこ)の神歌を記します。彼は私の敬慕する明治期の神道人の一人でもあり、「“三直”道人」とも号しました。

○聞き直し 見直しつつも 宣(の)り直し 世を良き方に なすがこの道


[38] 「穀(ごく)のバチが当たる」 Name:道開き Date:2007/09/12(水) 21:59 
下記の書き込み[36]、[37]に続きます。
子供の頃、食べ物を粗末にすると、よく、親とか、年長の人にそう言われて叱られたものでした。戦中、戦後の混乱期には、食べ物が手に入らず、栄養失調で亡くなった方もかなりの数に上ったはずです。
現在の日本、“飽食の時代”と言われるようになってからだいぶ久しいです。食べ物が簡単に手に入る時代ということもあって、食物に対する「ありがたみ」、「感謝の気持ち」が薄らいでいるように思われます。

日本の祭は、“稲作”と深く関係するものが多い。それは昔の人たちが、稲(イネ)を「命の根(イのちのネ)」であると考えたからに他なりません。
古人にとって、水や空気が無くなれば生きていけないのと同様に、食物を確保することは何よりも優先される重大事だったのです。
だからこそ、国を挙げて、官も民も共に、神さまに対する祭祀を誠心誠意とりおこなってきました。
このことは、今日の日本人には、かなり想像に難いことのようにも思われます。

例えば、
●●●祈年祭(きねんさい・としごいのまつり)、
これから農作業が始まる二月に、宮中や、日本全国の神社で、年穀の豊穣を祈るお祭りをおこないました。 民間の宅神祭の「春祭り」も同じ。

●●●神嘗祭(かむなめさい)
天皇が、伊勢神宮(天照大神)に新穀を供薦され、大神の神威の更新をはかられた祭。

●●●新嘗祭(にいなめさい)
天皇が、皇祖神(=日神)の恵みを受けて生育した新穀を大嘗(おおなめ)きこしめし(いただき)、自らの霊性の更新をはかられた祭。全国の神社でも行われた。民間の宅神祭の「秋祭り」も同じ。


★理解を深めるための【キー・ワード】
◆神今食(カムイマケ、ジンコンジキ)
天皇が、天神地祇(天地の神々)に御饌(みけ、お食事)を供進して、御自らもきこし召す(召し上がる)犠式。

◆嘗(なめ)る
「神からの賜り物を受ける」意。
天皇が、皇祖神(=日神)の恵みを受けて生育した新穀を大嘗きこしめす(いただく)こと。
民衆にとっては、稲霊=祖霊であり、十一月の宅神祭、つまり、新嘗(ニイナメ)の夜、稲魂を身に体することは祖神を迎えることにほかならなかった。

◆サバの神
天皇が、大嘗きこしめす(新穀をいただく)に先立って、まずは神膳を天神地祇(諸神)に供された。これを、「サバ」(散飯)をサバの神に奉るという。
さらに、【相嘗(あいなめ)】といって、神々と人とが相互に共食することによって、神々も大御神の霊質をうけ、人も、大御神の霊質とともに、相嘗めの神々の霊質をもうけて補強されることになる。

◆神饌行立(しんせんぎょうりゅう)
新嘗(ニイナメ)祭で、神饌(お供物)を神前に運ぶ際、「オーシー」と“啓畢(けいひつ)”を唱える。“啓畢(けいひつ)”とは、神さまの出御(しゅつぎょ・「おでまし」)、御動坐(ごどうざ・「御退出」「御移動」)に当たって唱えるもの。つまり、神饌(お供え物)を神としてお扱いしていることになります。


★★★21世紀は、“水の世紀”とも言われているようで、「水不足」、それに伴う「食物不足」の問題が生じるとも言われています。20世紀は、石油を求めて世界各地で戦争が起きましたが、21世紀は、水や食物を求めて戦争が起きるのではなかろうかと予想を立てている学者もいます。
今後、「食べ物」のことについては、生態系を壊すことなく、自然(=神)と共生したかたちで、感謝のある真摯な対応をはかっていかなければ、本当に、「穀(ごく)のバチが当たる」ことになりそうです。★★★


[37] 神様と“オキツネさん”との関係とは・・・ Name:道開き Date:2007/08/24(金) 10:14 
下の書き込み[36]卯(う)の花の 匂(にお)う垣根に・・・ に続きます。

●キツネは「稲荷の神使(眷属〈けんぞく〉)」
 昔からキツネは「稲荷神の使い(神使・眷属〈ケンゾク〉)」とされて来ました。全国の稲荷社には、狛犬ならぬキツネの像が神前をにぎわし、「朱塗(しゅぬ)りの鳥居」と「正一位(しょういちい)の幟(のぼり)」と共に稲荷信仰の重要なシンボルと成っています。このため、最近では稲荷明神をキツネの神と信じている人もいるくらいです。


★キツネが宇迦之御魂神(ウカノミタマの神〈=稲荷神〉)の「神使」となった理由
@一般には、ウカノミタマの神の別名が「御饌津神(ミケツカミ)」であったことから、ミケツの「ケツ」に対しキツネの古名「ケツ」が想起され、「三狐津神(ミケツカミ)」の字を当てたとされる。

Aキツネを田の神の「先触れ(さきぶれ)」と見たから。
もともとキツネは、鹿などと共に人里近くに現れ、かつては人々に親しまれた獣でした。キツネが山から降りてきて、稲田の近くに食物をあさり、子ギツネを養おうとしたのは、ちょうど稲の稔った時期から冬にかけてです。
昔は、“山の神”が春に下って“田の神”となり、秋には山に戻って“山の神”になると信じられていただけに、秋の稲田でキツネの姿を見たり、声を聞いた者は、何かしらの神霊観をおぼえ、山にいる神霊の「先駆け」とみた。ちなみに、キツネは全国的に「ミサキ」「オサキ」と呼ばれていますが、このミサキ・オサキは“先鋒(せんぽう)”を意味します。

尊い神は容易に姿を見せることはなく、この使いを通さなければ、神霊を伺うことはできないと考えられていました。そこから、キツネが御祭神と共に祀(まつ)られる必要が生まれました。


●民間のキツネ信仰
★狐塚
キツネは田の神の「先触れ」とされていたので、これを祀(まつ)る祠(ほこら)が各地にできた。これが、いわゆる「キツネ塚」です。

★キツネと託宣(たくせん)
また、キツネを通じて神から託宣を聞こうとする行為も各地によく見かけられる風習です。人間にある種の霊が憑くというのは、洋の東西を問わず昔からある現象です。日本では稲荷の「先走り」であるキツネが、神霊の託宣のために人間に取り憑くと考えられて来ました。「イナリオロシ」、「イナリサゲ」とも言います。

大和地方では、憑かれる人を「ダイサン」と呼び、願い事を頼みたい、あるいは託宣を聞きたいという時は、このダイサンに頼みました。依頼を受けたダイサンは、三方(さんぼう)に盛った米に御幣(ごへい)を立てて拝むと、その人に霊が降りてきて託宣するという。その時、ダイサンは、あたかもキツネのような形相になり、家人とともに語り、踊り、また食べるといいます。

また、九州福岡では、お稲荷さんが憑いて人の禍福を予言し、病気を治すことを「トリイダシ」という。これは「野狐使い」ともいい、医者の見放した病人をトリイダシをして治した話が多く残っています。

★鳴き声
キツネの鳴き声で吉凶を占うというもの。

★寒施行(かんせぎょう)
冬の寒中にキツネに食物を与えてまわる習慣。地域の稲荷講(こう)の人々が、「狐塚」や「狐穴」にお供えの「赤飯」と「油揚げ」をセットにして供えます。「穴施行」とも言います。

★キツネ狩り
小正月の頃、七歳から十二歳の男の子が、ワラで作ったキツネを青竹の上につけ、それを先頭に太鼓をたたきながら村中を巡り、手に持った御幣(ごへい)を振りつつ、「福キツネ」を迎えてくるというもの。


◆狐憑き
 憑依は、古い時代には、「神の使いである動物の霊」を呼んで、神の言葉をきくという至極まじめな信仰でした。やがて仏教が伝わり、その教えが広がるにつれて、「託宣」としての様相が薄れ、その後は呪術とむすびつた邪宗という印象が強くなってしまいました。

 憑きものは、特定の人、家に憑くと信じられ、これらの「憑きもの落とし」などに活躍するのが陰陽師や密教僧などの行者や祈祷師で、憑きもの信仰の主たる担い手となりました。憑きものには他に、蛇(長縄)、狸、猿(猿神)、犬(犬神)憑きがあると言われています。


◆◆◆私も、これまでに数多くの「狐憑き」を見てきましたが、その中の一つの“体験談”を、このサイトの[神社と神道の基礎知識]のメニュー「屋敷神とお正月」の中の「屋敷神」に記してあります。ご一読下さればと思います。
それが、おキツネさんを理解するのに最も手っ取り早そうなので。作り話では決してなく、本当にあった実に不可思議な出来事でした。

屋敷内に稲荷神をお祀(まつ)りしていると、そのお側近くにおキツネさんが住みつくようになります。彼らは、神さまというよりも、“精霊”といった方が妥当かと思われます。キツネの性質を帯びた“霊体”、又は“エネノギー体”とも言えます。
まだ、いたずら好きで子供っぽい者もいれば、ひょうきんな者、生真面目な性格の者もいます。ただし、「野狐(やこ)霊」とは異なり、性格はきわめて善良です。そして、まるで映画の『ターミネーター』のように、稲荷神にお仕えすること、そして、その家を守ることに関しては、些かの迷いもないようです。◆◆◆


[36] 卯(う)の花の 匂(にお)う垣根に・・・ Name:道開き Date:2007/08/17(金) 23:32 
どうも、唱歌『夏は来ぬ』って、農事にさきがけておこなわれた「氏神祭」とも関連のある歌のようでもあるのです。おそらく、この歌の作者は、そういったことを全く意識しないで作ったとは思われるのですが・・・・・

卯(う)の花の 匂(にお)う垣根に
時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ

五月雨(さみだれ)の 注(そそ)ぐ山田に
早乙女(さおとめ)が、裳裾(もすそ)濡(ぬ)らして
玉苗(たまなえ)植うる、夏は来ぬ

つまり、古くは、四月におこなわれた「春祭り」は、「花祭り」ともいって、家々では卯(う)の花を門戸にさしたり、榊(さかき)を戸外に刺し立てて神を迎えました。
つまり、各家々では、農事にさきがけて「氏神祭」をおこなったのでした。

○まつる時 さきもあふかな 卯の花は なほ氏神の 花にぞありける 『紀貫之集』



他の多くの歌集を紐解いてみると、次のようなことがわかります。

@四月(または二月)および十一月に家々で神を祭った。

Aその神は「氏神」であり、ヤカツカミ(宅神)ともいい、「ウカノミタマ」(稲霊、穀霊神、稲荷神)や「竈(かまど)の神」をも同時に祭った。

Bその祭りにあたって、人々は山で榊(さかき)を折りとってきた。それは「神籬(ヒモロキ)」すなわち神を招ぎまつる木であった。

C榊(さかき)は戸の外に刺し立てた。卯の花の垣根のある家が多かったが、それらの家にとっては、四月には垣根に卯の花が咲くというそのことが、神を迎え、神を祭るしるしでもあった。
※他にも、楢(なら)や柏(かしわ)などの植物も、神迎えの料(かて)に使用されました。



つまり、ヤカツカミ(宅神、氏神)を、「うかのみたま」すなわち「稲霊(いなだま)」とも、「祖霊」とも仰いでお祭りをしてきたのでした。

人が亡くなって一定の年月が過ぎると(通例は三十三年、まれに四十九年、五十年)、祖霊は個性を棄てて融合して一体になるものと認められていた。それが「氏神社」でした。

なほ、土地の神の「産土(うぶすな)神」と「氏神」のはっきりとした区別も難しいのが実情です。つまり、それぞれの神社には、「土地の神」、「氏神」、「稲霊」が渾然一体に祭られていると考えると理解しやすいかもしれない。

※参考 〈真弓常忠著 『神道祭祀』〉
    〈谷省吾著 「氏神祭」『祭祀と思想―神道の祈り』〉
    〈柳田国男 『先祖の話』〉

◆◆◆そうすると、現在でも各家々の屋敷に祭られている「屋敷神」(=「氏神社」)に、お稲荷さんの“お使い”の「おキツネさん」が祭られているのも納得できます。


★★★ 更に、自分なりに考えてみると、我が国固有の信仰・神道において、キリスト教の、神を称える「賛美歌」や「ゴスペル」に相当するものがあるとするならば、それは、自然(=神)や、自然(=神)と織りなす人々の生活を歌ったもの、つまり、古くは「和歌」であり、近世では「俳句」であり、近いところでは、「唱歌」であったりするのかな〜とも思われるのです。


[35] サッカー型 Name:道開き Date:2007/06/12(火) 16:37 
下の書き込み[34]に続きます。

IT活用時代に求められるチームワーク像は、一言で行ってしまうと「サッカー型」なのだそうです。
つまり、組織の序列や部署を超え「情報の共有化」が進むと、組織は“格子型”、“網状”に変化していく。
これからは、一人ひとりが自分の責任を果たしながら、連携プレーのネットワークで結ばれているサッカーが、企業におけるチームワークのモデル像になるとのことです。

2006年ワールドカップ・ドイツ大会の前哨戦として行われた日本対ドイツの試合における日本側のスーパー・ゴールの得点シーンを思い出してもらうと解りやすいかもしれません。

DF(ディフェンダー)としてサイドバックにいた中田選手がボールを奪うやいなや、FW(フォワード)の高原選手が相手ゴール前の誰もいないスペースに走り込む準備をする。中田選手がMF(ミッドフィルダー)の中村俊輔選手に速攻でボールを繋ぐと、やはり、すでにその空いたスペースを確認していた中村選手からワンタッチでボールが送られる。後は、敵のいない空いたスペースに走り込んだ高原選手がシュートを決めるだけといったもの。ほんの数秒間の速攻でした。(このほんの数秒間の内に行われた連係プレーは、ある種の“神憑り”が起こったような瞬間だった様にも思われてならないのですが・・・)

そういったネットワーク上における連携プレーにより、様々なプロジェクトが押し進められて行くというもの。


[34] ●「世紀」越え Name:道開き Date:2007/05/08(火) 08:00 
テレビ番組とはいえ、良くできた番組は学校の教材を遙かに凌ぐものと思われます。
日本の国営放送であるNHKの、ここ十年ほどのテレビ番組のシリーズものには、「世紀」という文字のつく番組が非常に多かったように思われます。
『映像の世紀』、『世紀を越えて』、『変革の世紀』・・・・、とにかくこの20世紀の100年間は、有史以来、これまで人類が体験したことのなかったほどの急激な変化を我々にもたらしました。21世紀はさらにその動きに拍車がかかることでしょう。


★★★10 年ほど前、確か11回に渡って放映された『映像の世紀』というシリーズでは、1890年代に発明された「シネマトグラフ(映写機)」の普及により、この 100年間に世の中で起こった多くの事柄が、膨大な量の映像フィルムに残されることとなり、それらの“映像”の数々を我々視聴者に提供してくれました。

例えば、1903年、ライト兄弟が複葉式の「飛行機」を使って、12秒間で37mの飛行に成功したことに始まった航空技術開発の歴史なのですが、何と、その十数年後の第一次世界大戦では、飛行機による空中戦が行われていました。さらにその三十数年後には、米ソ間で宇宙に向けての「ロケット」の打ち上げ競争が行われました。そういった社会に起こった急激な変化が、総て“映像”として残されていました。


★★★『変革の世紀』というシリーズは、確か3年前に約1年かけて五回か六回のシリーズで放送されました。昨今の「IT革命」は、“情報”・“通信”面において、「産業革命」以来の大変化を我々の社会にもたらしたというもの。

その中の、●第一集「国家を超える市民パワー 〜国際政治に挑むNGO〜」と●第二集「情報革命が組織を変える 〜問われる中央集権システム〜・〜崩れゆくピラミッド組織〜」からの一部抜粋を記してみます。とても参考になりました。

●第一集「国家を超える市民パワー 〜国際政治に挑むNGO〜」では、
行き過ぎた経済のグローバル化が、社会に様々な歪みをもたらしている。つまり、一瞬にして国を越える「投機マネー(ヘッジ・ファンド等による)」が社会をおびやかしているというもの。

“グローバル化”、“経済の自由化”は、「問題そのものをもグローバル化」させ、「敵の見えない状況」をつくっている。
多国籍企業、投機マネーが、カナダという一つの国家をも動かして環境規制政策をも覆してしまった。こういった事態を押し進めているのがWTOなどの公的国際機関なのだという。
ジンバブエでは、経済の自由化による外国資本の受け入れにより、主食のトウモロコシ畑の多くが換金作物に替わった。しかし、一旦、通貨危機が起こると外国資本は一斉に引き上げていった。後は、食料にも事欠くようになってしまった。

国連などの国際機関は、代表者が自国の利益を受ける事のみに専念するので、国境を越えた「NGOの国際市民ネットワーク」がその隙間を埋めようとしている。政策提言まで始めている。

●第二集「情報革命が組織を変える 〜問われる中央集権システム〜・〜崩れゆくピラミッド組織〜」では、
これまでの会社組織は、プロイセン軍の名参謀モルトケが考案した「ピラミッド型の軍隊組織」を見本につくられたもの。つまり、「電信機」の発達により、参謀本部にいたままで情報を得、命令を下すことができるようになったという。よって、伝達役の“将校”を重視した。会社で言えば“中間管理職”に当たる。組織の中では、兵士、労働者は言われたことだけをやっていればよいというものであった。

それが、軍隊、特に陸軍の場合では、装甲車に搭載された「戦術インターネット」により、個々の兵士がネットワークで結ばれることになり、司令部は、衛星によって得た情報を装甲車に流すだけというふうになるのだそうです。リーダーとしての役割が、組織の末端にまで必要となり、言われたことしか出来ないような一兵卒であっては務まらなくなる。

製造の現場も一変するという。同一製品を大量生産するという考えを抜本的に考え直そうという。つまり、顧客に近い現場に大きな権限を与えようというもの。中間管理職のこれからの役割も変わる。つまり、生産現場を助け、支えることが第一の役割となる。

●●●「21世紀型の組織」とは●●●
個人の所属する部署はなく、専門性を持つ個人が自発的に参加して、数々のプロジェクトを作ってゆく。
例えば、ネットワーク上に情報を求めて、助けを乞う。誰からかの情報を受けとる。そこに更に参加者が加わって1つのフォーラムができ、プロジェクトが進められていくというもの。

◆◆◆◆ インターネット上、現在でもこういった内容のウェブサイトは数多く見受けられます。会社内や様々なグループ内のネットワーク上でも、こういった動きが確実に進行していくみたいなのです。つまり、「IT」が軍隊や会社の「“組織”そのものを一変」させてしまうというのです。こういったことをシッカリと受け止めていかないと、世の中の動きに後れを取ってしまいそうですネ!


[33] 「教育再生会議」に期待するもの Name:道開き Date:2007/04/01(日) 18:51 
映画『市民ケーン』。1941年、奇才オーソン・ウェルズが20代の時に製作した、映画史上の名作中の名作です。やはり、映画から話を進めていくのが一番に解りやすいのではと・・・・またまた映画のお話です。

アメリカの片田舎で、ごくごく平凡な生活を送っていた六歳のケーン少年でしたが、母親が、たまたま宿代のかたに受け取っていた金鉱の権利書により、思わぬ莫大な遺産を引き継ぐこととなる。母親は、資産の管理、運用のみならず、教育も、ある意味、少年の人生をも、大都会の巨大銀行に委ねてしまう。

やがて、ケーン少年は成人し、巨大なマスコミ帝国を築き、アメリカ合衆国の大統領候補にあげられるほどの身となるが、決して幸福とは言えない波乱に富んだ人生を閉じる。
死の間際に、「ローズ・バッド(バラのつぼみ)」という言葉を残し、孤独の中でこの世を去る。

映画は、新聞記者が彼の残したその言葉の謎を解くべく、彼の人生の足跡をたどって行くというストーリー展開となる。しかし、どう調べ上げても、記者にはその謎を解くことができないでしまう。

結局のところ、社会的地位からみた大人物が最後に残したその言葉の意味とは、実に他愛もないものであった。
幼少時、銀行の管財人が彼を迎えに来た際に、ケーン少年は雪の中、ひとり楽しくソリ遊びをしていた。それを大人たちが無理矢理に都市部の寄宿舎に連れて行ったのだが、その時遊んでいた玩具のソリに印されていたのが「ローズ・バッド(バラのつぼみ)」のマークだった。

つまり、この作品は、「人間の人格形成にとって、子供の時には、貧しくてもかまわないから、親の愛を受けながら共に生活し、友達と外で遊び回るといった、ごくごく平凡な日常生活がいかに大切かということ」を語っている。

逆説的に言えば、「巨万の富みがあっても親の愛も受けられず、遊びを通して自然や友達と触れあうこともなく教育や物だけを与えられても、人を思いやる心、愛する心を欠く人格を持った人間になってしまう。常に、他者からの愛ばかりを求めようとする」ということ。

かえって、常に動物と接している人、特に動物園の保育係みたいな人の方が、こういった事には非常に精通しておられるのではなかろうかとも思われます。動物の感情表現は人間とは異なり、自然で、常にストレートですから。

ごくごく一般の日本人なら誰でもが身につけていたような、こういった“手作りの”教育の「知恵」みたいなものが、戦後は、訳のわからない知識人の“観念論的な”教育「知識」とか、文部官僚の机上の「教育理論」によって、どこか隅の方に追いやられてしまった感があるようです。

「教育再生会議」の皆様には、日本人が太古の昔から培ってきた自然から学び取ってきた知恵の教育を十分に考慮に入れた上で、未来に向けて再生して行っていただきたいと強く期待するものです。


[32] 十種神宝御法(とくさのかんだからごほう)・・・鎮魂祭A Name:道開き Date:2007/02/28(水) 14:55 
「伯家(はっけ)神道」(「白川神道」とも呼ばれる)とは、明治維新まで約八百年にわたり、宮中祭祀を司ってきた家柄である白川家(伯家、伯王家とも呼ばれる)に伝えられてきた古神道のことです。主に「天皇の行事」をとり行なうことを旨としました。

伯家神道には「十種神寶御法(とくさのかんだからごほう)」の行(ぎょう)というのがある。祝(はふり)殿というところで行うため、「祝殿の行」とも呼ばれ、御簾(みす)内で行われることから「御簾内の行」とも言われている。

修行じたいは非常に簡単で、まず正座をし、柏手(かしわで)を打ってから、右手の指が左手の指より前にくるように手を組み、両手の人差指だけはアンテナのように直立させ、目をとじ、あとは息吹永世(いぶきながよ・古神道独特の呼吸法)をしながら、八方からあがる独特の節回しの、お祓いの声をただ黙って聴く。

この行をするときは、一人以上の修行人のほか、周囲から祓詞(はらいし)を奏上(そうじょう)する八人が必要となる。修行者を囲むように、前後左右四隅に正座し、そこからお祓いをあげる。いずれもこの御法を行じ、すでに一定以上の「許し」を授けられた者たちで、ある段階以上に達すると、修行者の周りを、祓詞を奏上しながら移動することができるようになる。手をかざしたり、肩をさすったりすることもあるという。彼らは本来、「審神者(サニワ)」(神霊を見定めて統御する役割の者)なのである。

この修行をしていると、初歩の段階では、普通は修行者に因縁のある霊がでてくるが、人によっては最初から神霊が憑かってくることもあるらしい。また、神霊や人霊ではなく、動物霊がでてくる人も少なくないという。

実は、この行は、宮中で行われてきた「鎮魂祭」とかなりの点で共通しているというのである。このとき天皇は八人の巫女に囲まれながらこの行をうけたらしい。八人の巫女は毎年、庶民のなかから広く選ばれたらしく、それは巫女の出身地の国魂(くにたま・土地のミタマ、守護神霊)をつけるためであったという。
八乙女(やおとめ)という言葉があるが、このような巫女のことを言いあらわした語のようです。また、「八」という数字は、神祇官(じんぎかん)八神殿に祀(まつ)られていた八神からきているらしく、「鎮魂祭」を行うときには、この八神を降神させました。

この伯家神道の「十種神寶御法」関連の著書を多く出されている古神道研究家には、菅田正昭氏がいらっしゃいます。氏は学習院大学で社会学者・清水幾多郎氏に師事するも、‘60年安保闘争に敗れて野に下った観がありまして、「鳥も通わぬ・・・・」と謳(うた)われた八丈島の、さらに南方約70キロの、伊豆諸島最南端の青ヶ島で、村の役場職員として暮らした時期があります。その頃に島の民俗にふれ、島の神社の社人となり神事に奉仕した際に多くの経験をなされたということです。

★★★イギリスの議会では、左翼には改革派が、右翼には保守派が座ったために、「右翼」、「左翼」という言葉が使われるようになったそうです。よく改革急進派の極みである“極左”と、保守派の極みとなる“極右”は、どこか類似点があり、何かの機会があると、一回りして合意点を見いだすと言われています(幕末の急進派・長州藩と保守派勢力の薩摩藩が結んだ“薩長同盟”みたいに)。師匠の清水幾多郎氏同様に、菅田氏も、伝統の見直し、原始回帰へと進まれたようです。安保闘争に参加された方で、後に農業や古神道の方向に進まれている方は非常に多いみたいです。

その青ヶ島には「カミソウゼ(神請ぜ)」と呼ばれる一種の神人資格テストがあり、社人・巫女となるためには、このカミソウゼを受け、神から社人・巫女として認めてもらわなければならないのだが、これがたいへん「鎮魂祭」のやり方と似ているのだという。つまり、真中に、島でいうところの“ミコケ”のある社人・巫女の候補者を置き、その周りを巫女(この場合、余り若くはない巫女さんだそうです。)さんたちが、祭文(さいもん)を唱えながら踊り回る、あたかも「カゴメカゴメ」の遊戯の如くであるという。

それにしても、宮中の奥まった御簾(みす)内で行われてきた神事と、日本の首都・東京の最南端の離島で行われている神事に共通した類似点が見いだされるなんて、何とも言いようのないファンタジーを感じるのは私だけでしょうか。

さらに、現在の多くの新宗教でおこなわれている「精神統一」「浄霊」「手かざし」といったものとも多くの類似点が見いだされるという。
つまり、伯家神道→本田霊学→大本教→大本教系教団
という流れが見られるということです。

★十種神宝(とくさのかんだから)については、「自分で神道体験」のメニュー〔祝詞・祓詞〕と〔十種の神宝図〕を御参照ください。


参考図書  菅田正昭著
『古神道は甦(よみがえ)る』、『言霊の宇宙(あま)へ』


[31] 季節の“冬”は「ミタマのフユ」に由来する・・・鎮魂祭@ Name:道開き Date:2007/02/28(水) 12:03 
民俗学的には、「忌(い)み籠(こも)っている間に神霊は分割増殖する」と考えられている。つまり、“冬”は「恩頼(“ミタマのフユ”と訓みます。)・・・人は常に神様からの恩恵をこうむっており、殊に尊貴な霊魂に接触することによりミタマの力が加護増殖される意」の“フユ”であり、古くからの「鎮魂の思想」に由来すると言うことです。

“秋”は、「アキグヒ」(飽食)といって、皆がお腹いっぱい食べた状態を、“春”は冬籠もりの物忌みの状態から解放された「ハレ(晴れ)、ハル(張る)」の状態を意味するということです。“夏”の語源については、未だ不明のようです。

さて、この「ミタマのフユ」について、もう少し詳しくふれてみたいと考えます。
日本神話において、スサノオ神の乱暴の結果としてアマテラス大神は天之石屋戸(あめのいわと)に籠もり、世界は暗黒の闇に包まれることになります。

『万葉集』では「石戸隠り」「いはがくり」は貴人の死を意味しますが、『日本神話』におけるアマテラス大神の「天之石屋戸籠もり」も再生のための象徴的な死を意味すると解釈されているようです。

当神社の御祭神の一柱(ひとはしら)・天宇受女命(アメノウズメのミコト)は、『古事記』『日本書紀』には、天の石屋戸の前で「覆槽(うけ)伏せて踏みとどろかし、神憑りして・・・・・」と記されており、『古語拾遺(こごしゅうい)』には「凡(すべ)て、鎮魂(たましずめ)の儀(わざ)は天鈿女命(あめのうずめのみこと)の遺跡(あと)なり」とあるように、古くから宮中で行われてきた“鎮魂祭(ちんこんさい)”における巫女の所作は、「天之石屋戸神話」におけるアメノウズメのミコトに由来するとされている。

「鎮魂祭」は仲冬、つまり旧十一月の寅(とら)の日(新嘗祭〈にいなめさい〉の前日)に行われました。つまり、冬に衰える太陽の力の回復のため、アマテラス大神の後裔・「日の御子(みこ)」である天皇の霊力を強めるために行われました。

キリスト教の「聖誕祭」(“クリスマス”)などについても、かなり似たようなところがあって、イエスの正確な誕生日は全くの不明で、12月の25日のこの日に生まれたという根拠は何もないのだそうです。実際のところ、“クリスマス”とは、太古から行われてきた太陽の新生を祝う祭祀(さいし)・「冬至(とうじ)祭」と結びついたものだと言われています。

学生時代の宗教学の先生のお話では、ヨーロッパのどこの国、どちらの地方だったかは忘れましたが・・・、冬至の朝の太陽に向かって、皆で以下のような言葉を発するのだということです。
「The sun(太陽・・son〔息子・・神の子イエス〕〕) is rising.」

「やはり、洋の東西を問わず、人の営みというものは似たものがあるのだな」と、何となくキリスト教に親近感を持ったことを記憶しています。

ちなみに、これまでに何度も取り上げてきた内容になりますが、
我々の生活にとって本当に大切なものは何かということになると、やはり、それは“お天道様”と“お月様”です。これは洋の東西を問いません。それは世界中の「暦」の中に如実に現れています。
(イギリスの、紀元前数千年にまで遡るだろうと目されている謎のストーン・ヘンジ遺跡などは、並べられた巨石が、冬至、夏至、春分、秋分の時期を正確に印しています。)

一年の初めをどこに置くかについては、「暦法」によってさまざまです。
現在の「太陽暦」では、日照時間のもっとも短くなる“冬至”を過ぎたころに「正月」を設けているのは皆さんもご存知の通りです。

古代中国では“冬至”を太陽運行の起点として考え、暦のはじまりとしていたようですが、本来的な意味から言っての「太陽暦」とするならば、“冬至”を「元旦」に定めるべきでしょうネ。


[30] ●●鎮魂行(ちんこんぎょう)●● Name:道開き Date:2007/01/02(火) 22:56 
明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いします。
「お正月」という聖なる時をお過ごしのことと存じます。

折に触れて、「鎮魂」を行って非日常的な“聖なる時”を堪能してみるのも良いもの。これは本当にぜいたくな時間だと考えられます。この世のこととは全く関係しない時間だからです。“神”対“自分”の緊密な時間を持つこととなるからです。

但し、神気が降りてくるような聖なる“場”を整えることが最重要となります。
“魔”に入り込まれたりでもしたものなら「最悪この上ない行い」となってしまいますから。


[29] 元々は「お供え物」、今は「神道祭祀ツール(器具)」 Name:道開き Date:2006/12/14(木) 21:47 
「お正月」に限らず、“神まつり”において「お供え物」は極めて重要です。
広義には、神に奉献する(お供えする)物を総称して【幣帛(へいはく)】と言います。【みてぐら】とも【幣物(へいもつ)】とも呼ばれます。

【みてぐら】は“御手座、真手座、満倉、満座”などと書き、「手を倉にした場合、いっぱいに満るほどのお供え物」ということを意味しています。

【幣帛(へいはく)】の品目や数量は、祭祀(さいし)の種類により、また神社によって異なりますが、『延喜式(えんぎしき)』〈延喜年間に定められた律令の施行細則〉の祝詞(のりと)の条には、「布帛(ふはく)、衣服、武具、神酒(みき)、神饌(しんせん・・海川山野の多様な食物)」などの品目が記されています。
〈※“帛(はく)”は訓読みで「きぬ」です。〉

つまり、律令時代には、法律によって「お供え物」が定められていたということになります。


この【幣帛(へいはく)】が後に、「布帛(ふはく)」や、「紙垂(しで)」を串(くし)に挟(はさ)んだ形の、【幣束(へいそく)】・【御幣(ごへい)】を指すものとして狭義に解されることが多くなりました。

明治八年に定められた『神社祭式』では、【神饌(しんせん)】と【幣帛(へいはく)】とは区別され、その【幣帛(へいはく)】も布帛などの現物の他に、「幣帛料(へいはくりょう)」として金銭を紙に包んだ金幣が供えられました。

もともとは神さまへの「お供えもの」となる【幣帛(へいはく・ミテグラ)】だったものが長い時代を経て、“神道”独特の「祭祀ツール(器具)」となったものもあります。

それは【御幣(ごへい)】のみならず、【大麻(おおぬさ)】、そして、【玉串(たまぐし)】、【真榊(まさかき)】、【紙垂(しで)】といったものです。

以下、詳しく説明します。

@【御幣(ごへい)】●●●
幣帛(へいはく)の一種、【幣束(へいそく)】ともいう。
金銀あるいは白色、五色の紙を竹または木の「幣串(へいぐし)」に挟んだもの。古くは布帛(ふはく)を奉る場合、多くは串(くし)に挟んで奉(たてまつ)りました。
〈※“紙”も、“布帛”も、当時は大変な貴重品でした。〉

その形も、はじめは四角形の紙を用いましたが、後にその両脇に「紙垂(しで)」を付すようになりました。
(今年の大河ドラマ『巧名が辻』で、合戦の際に山内一豊が頭につけている兜(かぶと)に立っていたのがこの形の金色の“御幣”でした。)

「もともとは神に捧げ奉るもの」であったが、社殿の奥深く立てて、「神霊の依(よ)りたまう御正体(みしょうたい)」として、あるいは神前に据(す)える鏡と同じく装飾品として、または参拝者に対する「祓具(はらいぐ)」として用いられるようになりました。

〈※ キリスト教における「十字架(じゅうじか・クロス)」の意味合いの変遷などを考えてみると理解しやすいかもしれません。元々はイエスが磔(はりつけ)にされた器具だったものが、シンボル化されて崇拝の対象となったり、映画でドラキュラなどの吸血鬼が恐れる「祓いの具」になったりと・・・・〉


A【大麻(おおぬさ)】●●●
“ヌサ(幣、麻、奴佐)”の美称。[1]「神霊に祈るときに捧げられる物」や[2]「罪を祓うときに差し出される物」を“ヌサ”といい、主として木綿、麻、布帛(絹)、や紙などが使われました。

「祓(はらえ)の具」として用いられる場合の大麻には、
@榊(さかき)の枝に麻苧〈あさお〉や紙垂(しで)を付けたものと、
A六角または八角の白木の棒に紙垂(しで)を付けたものとがある。
後者は「祓串(はらいぐし)」とも呼ばれます。(現在、多くの神社でお祓いをするときに左右左(さうさ)と振られる、フサフサの細い紙がいっぱい付いている棒がこれです。)

用法は、〔1〕古くは祓いを受ける人が大麻を手で引いて、罪・穢(けがれ)を移す方法と、〔2〕物品に対して左右左と振る方法があります。


B【玉串(たまぐし)】●●●
榊(さかき)の枝に「木綿」(ゆう・・麻苧〈あさお〉)や「紙垂」(しで)を付けたもの。神職や参拝者などが神前に拝礼するときに捧げられます。もともとは神霊の「依代(よりしろ・・神の憑かる物)」であったとされます。


C【榊(さかき)】●●●
祭祀の際に「玉串(たまぐし)」として神前に供えられる他に、装飾用、祓具、神事舞の採物(とりもの)としても用いられます。

「鏡、玉、剣を付けたもの」、あるいは「五色の絹、鏡、玉、剣を付けたもの」、「単に五色の絹を付けたもの」などを【真榊(まさかき)】と呼びます。

明治8年の「神社祭式」で示された【真榊】は、檜(ひのき)の棹(さお)2本の先にそれぞれ榊の枝を付け、その下に「五色の絹」を垂らし、左側の棹に「鏡と玉」、右側の棹に「剣」を掛けた物ということになります。


D【紙垂(しで)】●●●
【幣帛(へいはく)】の一種で、榊(さかき)の枝や串などに垂らす「紙片や布」(とくに木綿〈ゆう〉)など。または【注連縄(しめなわ)】に付けたものもこう呼びます。【注連縄】に垂らして神域や祭場などに用いた場合は、「聖域を示す象徴」となります。

※◆◆◆古代において標(シメ)は占有のしるしであり、縄のほかに、物に何かを結び付けたり、木の枝を土地に刺したりと多様であったそうです。


[28] ●「祭場」― 神様をお迎えするための準備こそが最も肝心 Name:道開き Date:2006/11/27(月) 17:46 
「お正月を迎える」に当っても、様々な“お飾り”の由来を知ることが肝心です。

書き込み〔54〕「神社ができるまでには ―神祭りの変遷―」において、
樹木や岩石に神霊を招いてお祭りする形式「磐境(イワサカ)」、「磐座(イワクラ)」、「神籬(ヒモロキ)」から、仮の社殿、又は聖地をあらわす「社(ヤシロ)」の形式を経て、現在のような常設の社殿でお祭りする形式「宮(ミヤ)」へと変遷した“神祭りの歴史”を説明しました。

ここでは更に話を進めていきたいと考えます。

まず【神籬(ヒモロキ)】ですが、榊(さかき)を立てて「神の御室(みむろ)」としたものといえますが、ただし、単独の樹とは限らず、樹叢(じゅそう)をしたものと解されます。

京都の上賀茂(かみかも)神社で、葵(あおい)祭に先立っておこなわれる“御阿礼神事”(みあれしんじ・「神の出現(お現れになられる)を意味する語“みあれ”」がそのまま祭りの名になっている。)にはその古態が遺されていて、その神事の祭場となる“御阿礼所”(みあれしょ)に「神籬(ヒモロキ)」の典型をうかがうことができます。

四間四方(よんけんしほう)の囲いを設け、松、杉、桧(ひのき)等の常緑樹をもって“青柴垣”(神籬「ヒモロキ」)とし、中央に榊を立て、これに“御幣”(ごへい)を付けて“阿礼木”(あれぎ)とする。もとは根こじにした榊を立てたが、今は植えているそうです。青柴垣には藤蔓(ふじつる)の皮で作った十センチばかりの“円座(えんざ)”のようなものを十数個とりつけ、これを「おすず」と称する。

神霊の降臨は「神籬(ヒモロキ)」を完全に舗設して清祓をおこなえば、自ずから降臨されるとされており、特別に「降神詞(こうじんし)」を唱えたり、「警畢(けいひつ)」(神の来臨時にあげる「オォォー」という声)をあげたりはしないそうです。

神事は夜の八時より宮司以下祭員が御阿礼所(みあれしょ)に参進し、そこで五本の「お榊
(阿礼木)」に遷霊(せんれい・神霊を依らせること。)の上、それを奉じて社頭まで神幸し、それぞれ然るべきところに納めます。つまり、社頭における神霊の更新をはかるのです。

この場合の阿礼木は、榊のみでは神霊の憑依(ひょうい)したしるしとはなりません。これに“紙垂”(シデ)を取り付けて、はじめて神霊の「依(よ)り坐(ま)し」たことになります。

◆◆◆【天八重榊(あめのやえさかき)】
伊勢神宮では、御正宮を囲んで瑞垣(みずがき)、内玉垣(うちたまがき)、外玉垣、板垣と、幾重にも囲む垣の柱々には、榊が取り付けてあります。

また内宮では、かつては「天八重榊(あめのやえさかき)」と称し、左右八枝にして八列、六十四本の榊が立て並べられ、大宮司が二枝、祢宜(ねぎ)が四枝、宇治大内人が八枝という多数の榊を持った中に囲まれて大神宮司は祝詞(のりと)を奏したとされています。

つまり、榊を以て“柴室木”(神籬)とした神域はやがては幾重にも囲む垣を常設することとなりました。今でも柱には榊が取り付けられているのは古態を遺しているものと考えられます。

◆◆◆【心の御柱(しんのみはしら)】
伊勢神宮の御正宮の床下には「心の御柱」があります。元来は一本の「神籬(ヒモロキ)」に相当するものではないかとされています。

◆◆◆【オハケ】
「オハケ」と称し、祭りの日に御幣(ごへい)を立てるのは、神霊奉斎の古い姿を表しており、特に、竹に白幣を付したものが多いです。もともとは神を招(お)ぎ迎える「依り代(よりしろ)であった。「オハケ」を本社祭神の分霊と解し、「オハケ」の祭場を本社の遙拝所としました。

◆◆◆【幡(はた・旗)】と【幟(のぼり)】
先に述べた、上賀茂社の“御阿礼神事”の「阿礼木(あれぎ)」には種々彩色した帛(はく)を懸けたが、折口信夫は「種々の染め木綿(ユウ、もめん)を垂れることが“あれ”としての一つの条件であったらしい」(「幣束から旗さし物へ」)としている。“天岩戸神話”祭祀における“青和幣”(あおにぎて、麻の布のこと)、“白和幣”(しらにぎて、楮〈こうぞ〉の木の皮の繊維で織った布のこと)にあたる。

「幡(はた)」は布帛の一辺を竿(さお)に垂れたもの、「幟(のぼり)」はその上部と長い方の一辺を竿(さお)に取り付けたもの。

〈解りやすく言うと、「幡(はた)」は、アニメのゲゲの鬼太郎の「妖怪・一反木綿(いったんもめん)」状の布。「幟(のぼり)」はテレビや映画で見られる様な戦国時代に竿に付けて背中に立てた布の状態。最近では「大売り出しセール」等の商売用に使用されていることが多いようです。〉

ちなみに、幡をたくさん立て並べたのが“八幡(やはた)”となります。
やはり、神の降臨を仰ぎ、神を招(お)ぎ迎えるための祭場を示す料でした。

参考図書 : 真弓常忠著『神道祭祀』


[27] ●「まつり」の本質は“シャーマニズム”にあります Name:道開き Date:2006/11/27(月) 17:43 
もう今年も余すところ一月ほどとなりました。ひさびさに本職の方の話を少しばかりいたします。・・「まつり」の構成、そして本質について。

一口で言ってしまうと、「まつり」というものの一切は「神人合一」「神人和楽」、つまり、ある種の“シャーマニズム状態”に入っておこなわれるということが大きな「ポイント」になっています。ややもすると、今ではこの観念はかなり希薄になりつつあるのでは・・・とも思われます。

◆◆@先ずは、「お祓い」を行います。
「まつり」の場、祭員、参列者を清めるための「お祓い」をとり行います。

◆◆A次に、「お供え」をします。
神様に対して、海川山野の「神饌(しんせん・食べ物)」や、「幣帛(へいはく、“ミテグラ”ともいい、布帛、調度、財物等」をお供えします。

◆◆B次に、「祝詞(のりと)」を奏上します。
「マツリ」の内容・趣旨を申し上げます。その際に重要となるのは祭祀者の「心」であると考えられます。その「心」の媒体となるのが「言葉」であり、“言霊”となるのです。
「お祓い」も、「神迎え」も、「祝詞の奏上」、「神送り」も、「マツリ」というものかなりの部分は“言霊”の霊力によるものとも考えられます。

◆◆C次に、「玉串(たまぐし)」を奉奠(ほうてん)し、「拝礼」します。
榊(さかき)のみでは神霊の憑依(ひょうい)した「しるし」とはなりません。これに紙垂(シデ)を取り付け、“立てる”ことによってはじめて神霊の「依(よ)り坐(ま)し」たことになります。
そして、「祭る人」自らの霊性をもこれに込めて“神人融合”のしるしとし、神威を体して、自らの生命の更新をもはかる料とするものです。

「拝礼」については、現在の多くの祭りで行われている「二拝二拍手一拝(にはい・にはくしゅ・いっぱい)」という作法は、「拍手して跪(ひざまづ)いて拝する」という邪馬台国(やまたいこく)の日常の礼法に由来します。
“唐礼”を採用して立礼(りゅうれい)に改められたのは「大化の改新」以来とされています。

◆◆D次に、「神楽(かぐら)」を奉納します。
歌舞音曲を奉納します。
本来、神楽の語源は、「神座(かみくら)」であるとされています。つまり、「神の御座所(ござしょ)」であり、「神が降臨(こうりん)してしばらくの宿りをするところ」と解されています。

「神あそび」ともいわれるように、神が降臨し、舞人自身が「神の依り代(よりしろ)」となり「神憑り」の状態となって歌舞する神態(かんわざ)でした。神は人が乞えばいつでも降りて来られると考えられていました。

この神を招(お)ぎ迎えることを「神降(おろ)し」といい、神が降りた状態を「神憑り」と呼びました。

◆◆E「神幸(神輿、山車、山鉾等)」
「神輿(みこし)」とは、天皇などの高貴な方の乗られる「御輿」が神の乗物として用いられることになったものです。

「山車(だし)」とか、「だんじり」、「山鉾(やまぼこ)」とかは、「山」つまり「青葉の山」のことで、“神をまつる祭場”であったとされています。それはまた、平安期の大嘗祭(だいじょうさい)の「標山(しるしのやま)」に由来しています。又は、「神輿(みこし)」に矛(ほこ)を立てたものが「山鉾(やまぼこ)」の始まりともされています。

京都の祇園(ぎおん)祭の「山鉾巡行」などは、神輿渡御(とぎょ)の前駆をなして、神幸路にあたる都大路の穢(けがれ)を祓うために行われました。
当初、六十六本の矛(ほこ)が立てられたのは、日本全国六十六カ国に因(ちな)むものとされ、それは国々の“国魂(くにたま)の神”も集って、“祇園の神”と共に“疫(えき)神”の退散を祈ったことを意味しているようです。

◆◆F「直会(なほらい)」
「まつり」に際して、神に献った「神饌(しんせん、お供え)」を下げて賜(たまわ)り、いただくこと。そうすることにより、神のミタマを身に体し、神の世界に参入することを意味します。

以上です。

参考図書 : 真弓常忠著『神道祭祀』


[26] 映画『硫黄島からの手紙』 Name:道開き Date:2006/11/15(水) 19:54 
私、県内のある神社に奉職していた時期、四年ほど、その市の遺族会の事務局を担当させられていたことがありました。そんなこともあって児島襄氏の戦記本は何冊か読んでいました。そこで知ったことは、当時のアメリカと日本の国力の大きな格差、それを埋めんがための大本営、特に参謀本部の“精神至上主義”による無茶な作戦の数々。ガダルカナル、インパール作戦など・・・兵站もままならない中、兵士たちの多くは、飢えと病のため戦闘らしい戦闘もできないまま、砲弾の降り注ぐ中で死んで行きました。

そんな劣勢の中、物量においては米軍に遙かに及ばない状況下で、兵士の数においても10倍に達する米軍を相手に一歩も引かずに戦い抜いた戦闘がありました。それが「硫黄島の戦い」です。栗林忠道中将と硫黄島守備隊、おそらく人類史上これだけの苦しい戦いを強いられた人たちはいなかったのではなかろうかと思われます。アメリカがよく取り上げる、絶対的劣勢下、英雄デービー・クロケット等がメキシコ軍と戦って全滅した「アラモ砦の戦い」なんかも、「硫黄島の戦い」に比べてしまったならかなり遜色があるものに思われます。

その当時、人から誰を尊敬しているかと聞かれた際には、迷うことなく坂本龍馬と栗林忠道中将の名をあげたことを覚えています。
しかし、敗戦後の日本では、戦争の話をすること自体が良くないことと取られていたこともあって、私個人的にはもう少し、栗林中将と硫黄島で戦った兵士たち、いや、他の戦地で劣悪な状況下で死んで行った多くの日本の兵士たちにも、少しでも光が当たらないものかな〜と、密かに考えていたものでした。

ところが、世の中、何がどうなるかわからないもの。戦後60年も経って、敵国だったアメリカ側がそういった内容の映画を作ってくれました。それも以前はマカロニ・ウエスタンと呼ばれたイタリア製西部劇で、三船俊郎の『用心棒』の焼き直しのポンチョ姿のガンマン役で世に出た縁もあってのことか、クリント・イーストウッドが監督をしたとのこと。それも、かなり日本軍側に敬意をはらって描いているとのことです。

前作の『ミリオンダラー・ベイビー』などは、“イタリアン・ネオ・レアリズモ”(敗戦後のイタリアで起きた、現実をストレートに投影し、観る者の魂を激しく揺さぶる、それまでの映画にはなかったラジカルな作品群。『無防備都市』『靴みがき』『自転車泥棒』等。)の影響をかなり受けているのではあるまいかとも思われるほどのリアルな作品でした。

クリント・イーストウッド監督の役者時代の映画は娯楽作品が多かったし、映画の題名も直訳すればおそらく『百万ドルの彼女』とでもいった強烈なイメージが感じられるし、ボクシング映画だということもあって、おそらく女性版『ロッキー』の様な内容なのだろうと想像して観てみました。ところが、実際は全くの逆で、実に生々しく、まるで『ジョニーは戦場に行った』のような、何とも重苦しい内容の映画でした。作品賞、監督賞、女優賞、助演男優賞と、昨年のアカデミー賞主要四部門を獲得しています。
おそらく今回の『硫黄島からの手紙』も、かなりリアルに描かれていることでしょう。観るのが楽しみです。

二部構成で、前編はアメリカ側から、後編は日本側からの視点で描いているとのことです。
何年か前に、硫黄島で、かつて戦った米兵と日本兵の生き残りの方たちが集う中、両国を代表した形で、当時の横綱、曙と貴乃花が慰霊、鎮魂を目的として奉納相撲を取ったというニュースをテレビで観たことを記憶しています。おそらくこのニュースはアメリカでも流れたでしょうから、そういったことが些かでも影響しているのでしょうか・・・・・それとも全く関係なかったものなのか・・・・


[25] 悠仁親王殿下のご誕生を祝う“宮城県民大会” Name:道開き Date:2006/11/11(土) 11:23 
参加は自由となっていますので、どうぞお気軽にご参加ください。

11月25日(土)

○奉祝アトラクション 
〈時間〉 AM11:00〜PM3:00
 〈場所〉 錦町公園「集いの広場」
   ・和太鼓演奏 ・よさこいソーラン ・すずめ踊り
   ・雅楽演奏 ・七福神舞い ・自動車屋台

○奉祝パレード・御神輿渡御(みこしとぎょ)
 〈時間〉 PM3:00〜PM4:00
 〈コース〉
錦町公園 →勾当台公園 →宮城県庁前 →仙台市役所前
→東一番町アーケード街(定禅寺通り、広瀬通りを横切り、
フォーラス、藤崎前を通って) →青葉通り

※〔お問い合わせ先〕 宮城県神社庁 022(222)6663


[24] “ハイパー・デジタルの源”は「日々のアナログの積み重ね」にあ Name:道開き Date:2006/11/11(土) 11:21 
これはそのまま「シャーマニズム発動」のメカニズムとも共通するものと考えられます。というか、多くの事柄に当てはまると思われます。

インドにおける近年の著しい経済的発展は、IT産業における「ソフト開発能力の高さ」にあるとされています。
インドは、数学の“0(ゼロ)の概念”を発明したり、仏教を生み出した国柄で、その数学教育はまさに驚異であるとされています。子供たちには、算数の九九どころか、99×99を暗記させているのだとのこと。そういった「数学的伝統文化」を持った国柄なのです。
だから、一般の人たちの買い物をする際の計算の速さは日本人にはとても真似できないものだそうです。

“技術立国”日本における製造業の強さは、伝統的「匠(たくみ)の技」、しいては、日本人一人一人に染みこんでいる「アニミズム的物の捉え方」にあるとされていますが、インドの強みは、伝統的「計算能力の高さ」ということになるのでしょう。

数年前、「ゆとり教育」が声高に叫ばれ、教科書が大幅に改訂された際、あるテレビ番組で、文科省の官僚の方が父兄代表の方たちに説明しているところを観ていて、私的には非常に疑問を持ったことを記憶しています。

「どうせ社会では電卓で計算しているのだから、教科書に電卓使用可の箇所を認め、その印として電卓をかたどったロゴ・マークを付けました」といったもの。その説明を聞いていて、「これ、考え方が根本的におかしいのではなかろうか?」と、私などにも感じられました。「常に電卓が身の回りにあるとばかりは限らない、それでは電卓のない時には、いったいどうしたらいいのだろうか?それに、計算能力そのものも落ちてしまうのでは?」と。
こういった文科省のお役人的考え方では、日本人の基礎的な計算能力は、インドばかりではなく、世界の国々に遙かに差を付けられてしまいそうです。

それに、最近よくテレビで批評家の方たち(特に、勝谷さん、宮崎さん)がおっしゃられている意見を耳にしますが、それには非常に納得がいきます。
「“ゆとり教育”を推進している文科省の官僚たちは、自分の子供たちを受験勉強一辺倒の有名私立校にはやろうとしないで“ゆとり教育”の実行される公立校に入れろ」というもの。
これは本当にそうだと思われます。とにかく、「現場感覚の希薄な」、「臨場感の無い」官僚的発想には十分に気をつけてゆかないと、国家そのものが成り立たなくなってしまいそうだからです。


[23] ●「今、明治に何を学ぶか」―変革の知恵と力― Name:道開き Date:2006/09/26(火) 14:56 
テレビからの知識だからといって決して軽く見てはいけないと思います。これも「NHKスペシャル」で昨年1年間に5回に分けて放映されたシリーズなのですが、『明治に学ぶ変革の知恵』といった番組がありました。御覧になられた方も多いことでしょう。

今、新たな曲がり角に立つ現代の日本に新たな示唆を得るため、明治の人々の声に耳を傾けるべき・・・・という趣旨のものでした。

世界的な経営学者であり、日本研究の第一人者ともいえるピーター・ドラッカー氏と、医学博士(血液学)にして、日本文学者、現在は評論家として活躍されている加藤周一氏のお二人が、“世界史の奇跡”ともいわれる「明治時代の変革の知恵」を詳細に渡って分析します。

○日本人は、必要なことだけ取り入れて作り替えた。
○日露戦争以前の日本は、ただ独立を目ざした。
○“日本文化”を引き継いだ明治の人々に学ぶべき。
といった内容でした。

★「変革の特徴」として次の三つをあげています。

@教育の重視  A文化の独立  B人材の活用

@としては、
・「欧米の進んだ技術をとり入れた。」中国は軍艦を買ったが、日本は造船技術を買った。
・「江戸の高い教育水準を明治は活用」した。

Aとしては、
・「明治の翻訳主義」があげられる。翻訳によって西洋の制度と技術を消化した。福沢諭吉、西周・・等が数多くの翻訳語をつくった。他のアジア諸国は英語や仏語をそのまま使用した。
・つまり、「日本文化を深く知ること」が外国文化の理解につながった。

Bとしては、
・「人材の配置転換」。武士をどう活用するかが難問だった。しかし、江戸期の武士層は官僚としての経験を積んでいたので西洋の近代国家の仕組みをすぐに理解できた。よって、そのまま実業家、官僚、学者へと転身していった。

・これこそが「明治の強み」で、技術は西洋から受け入れたが、人材は江戸の遺産を活用した。つまり、「江戸」を“廃棄”せず“再利用”した。

この@ABを実践した人物、渋沢栄一の功績があげられる。

渋沢は、「新しい日本は古い日本の上に築かねばならない」と考えた。
銀行をつくり、企業をつくり、日本の近代産業の基礎を築いた。渋沢こそが今日の日本のシステムを構築した。

以下は、テレビで紹介された渋沢の著書からの抜粋になります。

◎「実に事業は、人物があって後のことで、資源がいかに豊富でも、計画がいかに立派でも、それを経営してゆく者に適材を得なければ、資本も計画も無意義になる。
たとえばここに精巧な機械があるとしても、何らかの動力を加えなければ働きをなさないと同様である。」

「外国の工場の視察、書物の調査くらいで紡績のことがわかるものではない。・・・・外国の方法が一通りわかったとした処が、日本では日本に適応した物を作らなければならぬ。外国の物をそのまま当てはめようとしても、とてもうまく行くものではない。(糸の太さの)差異もあり、価格の相違もあり、その折り合いのつくはずがないのだ。」


★明治の教訓

○「目的意識をはっきりさせて、エネルギーを集中させた。」
技術や製品は当面は西洋から輸入して模倣し、限られたエネルギーを「社会の変革に集中」した。

○「明治の外交は現実的だった。」
明治の指導者は「できることと、できないこと」を明確に区別した。これは、「したいことと、したくないこと」の区別とは別もので、“希望的観測”や“幻想的解釈”はせず、事態を正確に把握していた。
これは日清戦争後の“不当な”三国干渉に対する、極めて現実的な明治政府の対応でも理解できる。明治の人たちだったら、日中戦争から日米開戦へとは向かわなかったはずだ。


最後に、渋沢栄一の著書からの抜粋で結んでいます。

「今日の企業家の多くは、国家よりも社会よりも、まず第一に自己の利益に着眼するようになって居りはしまいか。明治初年の企業家に比して、その心事の相違はいかがであろう。・・・・日本の文化は、維新以来五十年の間に、長足の進歩したとともに弊害を生じ・・・自己さえよろしければ他人はどうなってもという風に、西洋の良いことばかりでなく悪い方を模倣して、それが増長して来たのが我国今日の状態である。」


[22] 『シリーズ3点同時ドキュメント』 Name:道開き Date:2006/09/26(火) 10:20 
やはりNHKは日本国営放送というだけあって見応えのある番組を作ってくれます。
このシリーズは、同じ一つの事柄を立場の違う3点から捉えようと試みます。最近観た非常に心に残った一編は、「地球温暖化」を扱ったものでした。

1点目は、ニューヨークや日本で「環境ビジネス」に取り組む企業の人たちを映し出していました。二酸化炭素の放出権の売買にビジネスチャンスを求めている人たちです。現時点では、実際にこういった企業人たちによるビジネスも必要となるのでしょう。

さらにもう1点は、二酸化炭素を大量に発生させる石炭の採掘にフィーバーしている中国の人たちを映し出していました。「地球環境」なんか別にどうでもいいから、先ずは豊かさを手に入れようということで頭がいっぱいのようでした。ひと昔前の日本のようです。

最後の1点は、地球温暖化により海水面が上昇し、そこに、数年に一度の大潮の日がやって来て、島中から海水が噴き出し畑や住居が海水に浸ってしまい、ただ頭を抱え込むしかない南洋の島国スバルの人たちを映し出していました。

空爆の計画を立て指令を発する人、飛行機に乗って東京まで来て実際に焼夷弾を落とした人たち、火の海の灼熱地獄の中を逃げまどう人たち。「東京大空襲」を扱ったドキュメント番組を観ていて、何か『シリーズ3点同時ドキュメント』と重なりました。


[21] ●映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』 Name:道開き Date:2006/09/26(火) 10:14 
あらためてジックリと観てみました。やはり、ネイティブ・アメリカン(インディアン)と西部開拓者たち(家族も含む)、軍(特に騎兵隊)との関係が、最も正確に(というか、正直に)描かれている映画はこの作品だと思われます。アカデミー賞だって、作品賞、監督賞等7部門も獲得しています。
ネイティブ・アメリカン側の立場にたって描かれた西部劇は本当に少ないですから。

以下の文は、この作品を評したネット上のある書き込みです。非常に参考になります。

アメリカにおいて「インディアン」は60年代に初めてイメージが変わります。それまでは正に「西部劇」のイメージで、未開(野蛮)人は文明を持つ白人と対立するもので、文明進歩の壁=「悪」でした。
ところがベトナム戦争が大きな波紋を呼びます。アジア人に対して残虐な行為を繰り返す「アメリカの正義」に、大学生をはじめとする若者が「No!」を突き立てました。ここで初めてアメリカ史の見直しが全米で始まります。それまでアメリカは歴史を持たない国として歴史学が確立していませんでしたが、詳しく資料を見直すことでアメリカが歴史的残虐性を持つ国であることを確認します。

時は流れて1992年の国連地球会議(in リオデジャネイロ)で「環境保護宣言(リオ宣言)」がなされます。この「環境」の中に「インディアン」の生態も含まれ、翌年の1993年は「国際先住民年」とし世界各地で先住民文化再考が行われます。先住民を環境・資源と共生してきた見本とするわけです。

しかしこの「インディアン」の歴史は現在も様々な問題を抱えて進行中です。アメリカ政府による「インディアン」の農民化(一定の土地に縛り付ける政策)、年金による保護で「インディアン」はどんどん堕落していき、大きな社会問題になっているそうです。堕落というより、アメリカ政府の「飼い殺し」的政策により「インディアン」は自らの足で立つ生きがいを無くしているらしいのです。若者のギャング化、アルコール・麻薬中毒、自殺が広がり、絶滅の一途をたどる「インディアン」の現実。
それを知った上でこの作品を観ると、余りにも「インディアン」を美化し、アメリカ国民が懺悔しているようにも取ることが出来ます。

★ 戦後60年が過ぎても「いまだに自立ができない国・日本」とか、社会の制度が余りにもアメリカナイズされてしまって「まるでアメリカの属国のような国・日本」とよく言われているようです。家族、地域社会が崩壊し、若者たちが生き甲斐を失っている現状を目の当たりにするにつけ、どうも「インディアン」社会の堕落は、そのまま現在の日本にも当てはまりそうです。


[20] “古代氏族”社会 Name:道開き Date:2006/09/09(土) 07:22 
下の[19]の書き込み“すめらみこと"に続きます。
日本(大和朝廷)という統一国家ができあがる以前の「古代の氏族社会」を思い描くことはかなり難しいかとも思われます。

それならば、よく映画やテレビで取り扱われるネイティブ・アメリカン(通称インディアン)の部族社会などを思い起こしてみると理解しやすいかもしれません。アパッチ族、スー族、コマンチ、ナバホ、ホピ、シャイアン・・・・・(西部劇を観て覚えた名前ですが・・・)

そういえば、彼らは、約2万年前の氷河期に、最極寒の地シベリアのバイカル湖付近のブリヤート地方から、マンモスを追って共に旅立った日本の縄文人たちとは全くの兄弟なのですから。彼らは凍りついていたベーリング海峡からアメリカ大陸へと渡り、縄文人は大陸と続いていたサハリン、北海道から津軽海峡を渡ってやってきたということです。

〈氷河期の終わりの時期に海水が上昇したために水没した南洋の仮称スンダランド(ムー大陸?はたまた沖縄の人たちが源郷ニライカナイと呼ぶのはこのところか? どうもインドネシアの島々は大陸と続いていたらしい。)から黒潮に乗って磨製石器の技術を持って日本列島にやってきた南方系の人たちも、弥生期(中国の春秋戦国時代)に大陸から水田稲作の技術を持って渡来してきた人たちも、規模は異なるにしろ、やはり部族社会の様なものを作るところから始まったのでしょうから、それとても同様でしょう。〉

そういった社会では、各部族ごとに酋長(しゅうちょう)のような、政治的かつカリスマ的な首領が存在ました。その統治はというと、きわめてシャーマニックにおこなわれていたようです。


話が飛んでしまうけれども、そういえば、ネイティブ・アメリカンの“雨乞いダンス”は実際に、かなり効くらしいですネ。スマッシ(薬草)を使用したお祓いとか、神道(神ながら)とは極めて共通点が多いように見受けられます。

だいぶ以前になりますが、あるテレビ番組で、
「ザ・ウィザード・オブ・ニュージーランド(ニュージーランドの魔術師)」
の称号をニュージーランド国家から戴いているという人物が紹介されていました。彼の「雨乞い」祈祷もかなり効くとのことです。
そのコツはというと、「自分と大自然を信じ切って祈る(念じる)」ということだそうです。
おそらくその人はオセアニアの先住民のアボリジニとかマホリ族なんかの呪術的知識を習得していたのではなかろうかとも考えられます。

現在の日本の神社でも、占い、医薬、禁厭(まじない)・・・といった呪術色の濃厚な神社は、縄文系の「国つ神」(特に大国主神とか、少彦名神〈すくなひこなのかみ〉など)をお祀りしているところが多いです。


[19] “すめらみこと” Name:道開き Date:2006/09/07(木) 11:23 
「天皇」と書いて“すめらみこと”と訓(よ)みます。
これは“すめらみこと”という古語に「天皇」という漢字を当てたものです。

どういった意味かというと、“すめら”は「統(す)べる」、“みこと”は「命持ち(みこともち)」ということ。つまり、「命持ち」・・・神々の御言(みこと)をいただいてその御心通りに生きて行く者たちを、「統べる」・・・統括する存在ということです。

つまり、一言でいってしまえば「大神主」とでもいった存在です。よって、先の大戦以降、憲法上は「象徴天皇」としての位置づけがなされておりますが、今現在でも、国家の安寧、世界平和をお祈りになられて、年に300〜400もの神祭りを日夜ご斎行されておられます。

昨日は、親王の御誕生に日本中がこぞって奉祝のまことを捧げました。私などもテレビでニュースを耳にするやいなや、止めどもなく喜びの涙が流れてきました。
本当に、本当にめでたいことです。


[18] 大田区の“新田神社さん” Name:道開き Date:2006/08/02(水) 19:24 
昨夜、『トリプルキッチン』という題名の、神社を舞台にしたテレビドラマが放送されました。宮司役の野際陽子さん、嫁役の江角マキ子さんと、お二方ともなかなかの熱演でした。

撮影の背景となったのは大田区の新田神社で、その神社の本当の宮司さん、品川宗久宮司は、私の大学時代の同級生です。そういえば二年生のとき、七五三の助勤(いわゆる学生アルバイト)として御奉仕させていただきました。

どうかお近くの方で、この書き込みを目にされた方がいらしたならば、なにとぞ宜しくお伝えください。


[17] ●神社ができるまでには・・・「神まつりの変遷」 Name:道開き Date:2006/06/24(土) 13:17 
【イワサカ・カンナビ・ヒモロキ】

古くは樹木や岩石に神霊を招き、祭る形式がとられていました。あるいは、神霊が宿ると信じられた森や山を、そのまま祭祀(さいし)の対象としていました。

◎「磐境(イワサカ)」とは、神霊を招くために“岩石などによって設けられた祭場”をいいます。
◎「磐座(イワクラ)」とは、“神霊の依代(よりしろ・・・神様の依り憑かる代物)そのものとされた岩石”のこと。

縄文時代の早期からの、環状列石(ストーン・サークル)・列状配石などの祭祀遺跡は、この「磐境」「磐座」の原初形態とみられています。

◆◆ 縄文人の「神棚」??? ◆◆
縄文時代の中期から後期にかけて、居住地の奥壁部には
“石柱(立石)”や“石棒”が立てられていたり、“石壇”
とよばれる床より高い位置に平石、敷石を配したものが
あったりします。その近くには炉がつくられ、土器や石皿
を置いて供献物を浄化して、“立石”に憑かるマナ(神霊)を
まつる儀礼(祭祀)がおこなわれていた。

◎「神奈備(カンナビ)」とは、“神霊の鎮まる神聖な森や山”をさします。

◎ 「神籬(ヒモロキ)」とは、祭祀のために臨時に設けられた施設で、「ヒ」は“霊力”、「モロ」は“モリ(森・杜)の古形”、「キ」は”木“とか“城 (き・・・まわりに垣をめぐらして、内と外を区切った所)”という説がある。一般的には「神霊の来臨を仰ぐ“依代”のうち、“樹木やその枝”についてを神籬(ヒモロキ)と呼びます。


★★★地鎮祭(じちんさい)
家を新築する際に行われる「地鎮祭」等は、上記の「祭祀要素が集約されたもの」と言えます。
その祝詞(のりと)はというと、

「これの処を いずの磐境(いわさか)と祓い清めて 忌竹(いみたけ)に 注連縄(しめなわ)を引き廻(めぐ)らして うずの神籬(ヒモロキ)を押し立て 招 (お)ぎまつり 座(ま)せまつる 掛巻(かけまく)も畏(かしこ)き ○○○○○○の大神 ・・・・・・・・・・・・」

●地的宗儀から天的宗儀への推移
【地的宗儀】とは、“磐境(いわくら)祭祀”の形式を継ぐもので、神は海の彼方の常世(とこよ)の国から、海辺の岩や石を「依り代(よりしろ)」として招(お)ぎ迎えるものとした観念にも通ずる。こういった「水平型の祭祀」が古い祭祀様式であったとされています。

3世紀代から4世紀初頭にかかる頃、つまり弥生時代が終焉して古墳時代が始まった時期に、鏡がもたらされて、天空の彼方から神を招(お)ぎ迎えるという「垂直降臨型の祭祀」に移行したとされています。これを【天的宗儀】と呼ぶことができます。
鏡は太陽の霊格、すなわち日神を招(お)ぎ迎えるにふさわしい料であった。これは「神籬(ヒモロキ)」祭祀にも通じます。



【ヤシロ・ミヤ】

現在でも神社を呼ぶのに、「社(ヤシロ)」・「宮(ミヤ)」の語を用いています。その意味はというと、

◎ 「ヤシロ」は「屋代(やしろ)」のことで、「屋」(建物)そのものではなく、“屋を建てるために設けられた区域”、もしくは“屋の代りになる物”をさします。つまり、「ヤシロ」にはもともと、常設の社殿は存在せず、祭場となる特定の場所が「神地」となる聖域として、他と区別して設けられていたと考えられています。
その「ヤシロ」に毎年、祭祀をうける神霊の来臨を仰いで祭りを執り行ったのでした。

やがて、神霊の常在を願う気持ちが高まってくると、祭祀のたびに新設する簡単な建物ではなく、常設の社殿となる「ミヤ」がつくられるようになります。

◎「ミヤ」とは「御屋(みや)」のことで、単なる屋ではなく、”尊い建物”を意味します。尊い建物というのは、ただその建物が立派であるというより、そこに尊貴な神霊や人物が常にすんでおられることによるものです。

copyright(c) 2000-2010 お祓い/占い/四柱推命/五行易/風水 白鬚神社 all rights reserved.