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[94] ●“山遊び”と“磯遊び” Name:道開き Date:2014/04/04(金) 07:16 
●“山遊び”
三月から五月の決まった日に、地域の仲間で近くの特定の山に登って飲食を共にして遊ぶこと。そのとき、藤や石楠花(しゃくなげ)・躑躅(つつじ)などの花を採取して持ち帰る。

この里山には、先祖の霊が籠っていたり、田の神が冬のあいだ山の神として静まっているという信仰が一般的でした。“山遊び”には農事の開始に先立って山に入り、神霊と飲食を共にしつつこれらの霊力を身につけたり、山の神を田の神として里に迎えようとする目的がありました。山から採取して持ち帰ってくる花は山の神の依代(よりしろ)ということになります。

民俗学でいうところの、全国的に旧暦四月八日に行なわれる“山遊び”行事の総称である“卯月八日(うづきようか)”や、若い娘が山の神の巫女として依代(よりしろ)となる山の花を髪にさして下りてくる、一種の成女式でもある“天道花(てんとうばな)”―〈纏頭(てんとう)花〉―の行事は特に有名です。

後に、この“山遊び”の行事は「お花見」として変化を遂げます。そもそも「サクラ」という名称そのものが、“サ”が「清らかで小さな」という義で、“クラ”は「座」で、「山の神が宿る依代(よりしろ)」ということになります。日本各地に「田植え桜」と呼ばれる桜の木が数多くあるのはそのことによります。


●“磯遊び”
三月から五月にかけての大潮のころ、重箱に馳走を詰めて地域の仲間が集まって近くの磯や浜に出て、臨時の竈(かまど)を築いて煮炊きをし、共同飲食をして遊ぶことです。

この行事にも、農事開始前の水辺での祓いや禊(みそぎ)の意味があり、後に三月節供(雛祭り)の「流し雛(ひな)」の行事に変化を遂げます。行楽目的でおこなわれる「潮干狩り」も“磯遊び”が変化したものです。



●●●●●
子供の頃、何もすることがなくて暇なときには、近所の幼なじみの方たちと共に、各家々の祖母や母親に握ってもらった“味噌おにぎり”や“醤油焼き飯おにぎり”、“シソの葉おにぎり”を持って山に登って共同飲食をし、山の草花を採取して家に持ち帰ってきたものでした。

当時でも、ピクニックだとか、ハイキングだとかいう言葉は知っていましたが、全く使用することはありませんでした。ただ単に、「山に行く」でした。今になって思うと、非常に伝統的な形で山の行楽に親しんでいたのだな〜と懐かしく思われます。


[93] ●年越しの夜 Name:道開き Date:2014/04/04(金) 07:08 
かつては、日の入りが一日の終わりであるとともに新しい日の始まりと考えられていました。一日の始まりが子(ね)の刻〈23時〜01時〉と捉えるようになるのは、暦が民衆の間に普及するようになった江戸時代以降のことです。


したがって、一年の始まりは大晦日の夕刻からで、その夕食が一年で最初の食事にあたることになります。年神に供物を供え、家族が揃って「けっこうなお年取りでございます」と言祝(ことほ)ぎました。東北地方では年越しの夕食そのものが「年取り」と呼ばれています。

このとき、「年取り魚」「年魚」と称して、塩鮭や鰤(ぶり)、鰯(いわし)等が食べられます(宮城では“ナメタかれい”も多い)。これらの魚は餅と共に“神供(しんく)”として重要な意味を担っていました。


「年越しの夜」は一晩中起きて火を焚き、神と共に過ごすのが本来の姿であった。また、「年籠り」といって、神社で夜明かしをすることは各地で行なわれていました。


●●●この被災地にもかつてのように、氏子の皆さんが家族揃って「けっこうなお年取りでございます」と心の底から言祝げる日が早く到来することを切に願っています●●●



★参考
「年中行事」を現わす「節句(せっく)」という言葉は、日本でつくられた言葉で、江戸時代の初期までは「節供」と書かれており、節日(せつじつ)の供物の意味であったのが、次第にそのような供物をする日そのものを指すようになりました。

四季折々の食べ物を神に供え、人々もそれを一緒にいただき「神人共食(しんじんきょうしょく)」し、食物を通して「神人合一(しんじんごういつ)」をはかり、神の霊力を我が身に取り込もうとしました。

「年中行事」の大目的は神々との交歓にあり、日本の祭りでは神の来臨は夜であるとの観念があるため、「年中行事」の核心部分が夜に営まれるのは当然なことです。神社のお祭りで、前夜祭が盛大に執り行われたり、小正月の行事が前日の十四日の夜に集中するのはそのためです。


[91] ●新たなる境内地  Name:道開き Date:2013/05/22(水) 11:47 
@移転先
集団移転先高台の〈新〉野蒜駅予定地近くということで市側と話し合いを重ねてきましたが、適する場所が無く、現亀廼井宮司宅南側の宮司私有地を寄付により新境内地とすることに決定し、測量を進めています。


A仮社殿
早ければ年内中に、神社本庁神社復興支援事業により、伊勢神宮の間伐檜(ひのき)材を使用した仮の社殿が建立されます。


B植樹祭
イオン1%クラブの御協力に基づく事業として推し進める予定でいます。来年以降になると考えております。
主催は[白鬚神社・海津見神社]といった形が取られるかと考えています。


[88] ●小正月 Name:道開き Date:2012/01/13(金) 07:58 
旧暦の一月一日を「大(おお)正月」というのに対して、一月十五日を「小(こ)正月」という。もともと日本では、【望(ぼう)】、すなわち「満月の日(旧暦の十五日)」を元日としており、小正月はその名残となります。「女(おんな)正月」とも呼ばれるのは、この日に、女性だけが集まって飲食や娯楽に興じる風習があったからです。



◆小正月の来訪神
年の改まる最初の満月の夜に他界から神が訪れてこの世に祝福を与えてゆく、あるいは、そうした神の来訪によって年が改まる、という日本古来の信仰を背景にした行事がおこなわれます。

具体的には、青年や子供たちが神に扮して集団で各家々を訪れ、祝福の言葉を述べたりして餅や銭などを貰い受けたり、酒を振る舞われたりするというもの。よく知られているものに、秋田の「ナマハゲ」があります。

又、この日には「予祝(よしゅく)」といって、新たに迎えた年の五穀豊穣を祈願して行われる占い的要素をもつ前祝い行事も行われました。


・【鳥追い】  
田畑の害鳥を追い払うという意味で、子供たちがササラや棒を打ちつつ家々を回る行事。

・【成り木責め】
実のなる木に、「ならぬか、ならぬか」などと詰問(きつもん)して豊作を約束させる行事。


他にも、「左義長(さぎちよう・どんど焼き)」、「狐狩り」、「もぐら打ち」、「裸参り」、「かまくら」、「水祝儀(しゅうぎ・水かけ)」、「庭田植え」、一年の吉凶を占う「粥(かゆ)占」、「歩射(ぶしゃ)」などの年占(としうら)が行なわれます。


[87] ●「トシ(年)神」 Name:道開き Date:2011/12/23(金) 19:26 
正月行事の基本は、「年神」と呼ばれる神格を家々に迎えまつることにあります。この神の性格は複雑で、

@人々に年齢をもたらす歳月の神であり、

A農耕を行って来た人びとの間では農作を助けてくれる「農耕神(穀霊神、田の神)」としての性格が強い。

「トシ」とは「稲」を表す古語でもあり、一年をかけて稲作が行われたことにより、「年」の字が当てられたとされます。
飽食の時代と言われる今日とは異なり、「稲(イネ)」は「命(イノチ)の根(ネ)」と考えられていました。

B個々の祖霊としての性格が浄化され、大いなる神格へと高まった「祖霊神」として捉えられます。

一年を両分する「お正月」と「盆」の行事には、多くの類似性が指摘されています。例えば、正月の年神棚と盆の精霊棚、正月の松迎え・左義長(ドント焼き)と盆花迎え・送り火など。
つまり、死後三十三年(または五十年)の「弔(とむら)い上げ」以前の祖霊は「お盆」の祭祀の対象となり、「弔い上げ」が終わり、浄化が進んで供養を受けなくてもよくなった、霊格が神の域にまで高まった祖霊は「お正月」の祭祀の対象になるということです。

昔から、米にはご先祖様の霊魂が宿っていると語り伝えられてきたのも、上記@Aに由来してのことなのでしょう。


「年神」は十二月の大晦日の晩に来訪されて各家々に滞在し、一月十四日の夜から「小正月」と呼ばれる十五日の朝にかけて(地方によっては、六日の夕方から七日の朝にかけて行なわれる「飾りおろし」の日に)、松飾りを焼く「ドント焼き」の煙に乗って、神々の世界へ帰って行くとされた。


人々は餅や若水で作った「おせち」などを供えて年神をもてなしました。年神に供えた「鏡餅」には年神の霊が宿り、それを食べることで一年の無病息災が保証されると考えました。「お年玉」も同様に、年神の魂(タマ)を分与してもらうことに由来します。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

●松飾り
松飾りには二つの役割があります。一つは、年神の「依代(よりしろ)」で、訪れて来る神さまの依る座としての役割。もう一つは、「松飾り」、「注連飾り」を張った内側、つまり、家の中が聖なる空間になることを示す「結界」としての役割です。


●恵方(えほう)参り
「年神」の他にも、伊勢(いせ)神宮(じんぐう)の大麻(たいま)や様々な神々を祀(まつ)ったりするようにもなります。「氏神(うじがみ)参り」や「恵方(えほう)参り」と称する、近隣の神社仏閣への「初詣(はつもうで)」も盛んに行なわれるようにもなりました。恵方とは、暦(こよみ)の上で年の神とされる「歳徳神(としとくじん)」が位置する方角のことです。


●松の内
一般には、元日から「松飾り」を取りおろす日までをいう。早い所では四日の朝、六日の夕方、全国的には七日の早朝に「松降ろし」をすところが多く、そのため七日までを「松の内」と呼ぶ地方もあります。言葉の由来は、植物のマツではなく、精進潔斎(しようじんけつさい)に基づく忌籠(いみごも)りを意味する「日待ち」にあるという説もあります。「注連(しめ)の内」という地方もあります。

また、「門松(かどまつ)」の飾り付けは十二月三〇日の夜までとされるしきたりがあるのは、三十一日に飾るのは「一夜飾(いちやかざ)り」といって嫌われたからです。元旦の「旦(たん)」とは「朝」という意味で、「元旦」は元日(がんじつ)の朝のことです。


●七草(ななくさ)粥(がゆ)
五節句(ごせっく)の一つ、一月七日の「人日(じんじつ)」の日に、七種の若菜を入れて煮た粥(かゆ)を食べて邪気を払う行事。また、この日を「七日(なのか)正月」と呼ぶ地方もあります。
        
・【七草】 
芹(せり)、なずな(ペンペン草)、御形(ごぎよう)(母子草)、はこべら(はこべ)、菘(すずな)(蕪(かぶ))、 仏(ほとけ)の座(ざ)(田(た)平子(びらこ))、すずしろ(大根(だいこん))


●小正月(こしょうがつ)
旧暦の一月一日を「大(おお)正月」というのに対して、一月十五日を「小正月」という。もともと日本では、【望(ぼう)】、すなわち「満月の日(旧暦の十五日)」を元日としており、小正月はその名残(なごり)ということになります。「女(おんな)正月(しょうがつ)」とも呼ばれるのは、この日に、女性だけが集まって飲食や娯楽に興じる風習があったからです。


●節分
季節の変わり目を示す四節気(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことで、特に立春の前日をいう。この日はイワシの頭を刺したヒイラギの枝を戸口に立て、炒(い)った大豆(だいず)を撒(ま)いて悪鬼(あっき)や疫病(えきびょう)を退散させる。「儺(な)」というのは悪鬼のことで、昔は節分行事のことを「追儺(ついな)」・「儺(な)やらひ」・「鬼やらひ」等と呼びました。宮中行事が民間に伝わったもの。


●旧正月
「旧暦の正月」のこと。【新暦(太陽暦)】では、日照時間がもっとも短くなる「冬至」を過ぎた頃に一年の初めを設けていますが、【旧暦(太陰太陽暦)】では、「立春」の頃としています。現在の日本では、旧暦で正月行事を行う地方はめっきり減りましたが、「立春正月」を伝統的に守る中国では、旧正月は「春節(しゅんせつ)」と称されて盛大に祝われます。


[86] ●「陰陽五行説」の我が国への伝来時期 Name:道開き Date:2011/09/10(土) 16:35 
◆道教
我が国への大陸伝来の宗教を考えたとき、最も早くに伝来したのが「道教」です。3世紀末に著された中国の三国時代の歴史書『魏志倭人伝』にある、「倭(わ)の国の邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)が鬼道(きどう)をよく使っていた」という日本に関する記述の中の、“鬼道”というのが道教呪術であったことが、最近の考古学的発見により確実なものとなりつつあります。 (私個人としましては、邪馬台国〈やまたいこく〉が大和国〈やまとこく〉で、大和朝廷初期の小国家のことで、卑弥呼〈ひみこ〉が日御子〈ひのみこ〉で、天皇と呼ばれる以前の大王〈おおきみ〉の呼称だったのではなかろうかとも考えていますが、ハッキリしたことは言えません。)
初期大和朝廷の都があったとされる奈良県の飛鳥地方からは、道教のシンボルである“亀”をモチーフにした遺跡・亀石(かめいし)なども見つかっています。ということは、大和朝廷の成立期には、国家規模で道教が受け入れられていたということになります。

大陸と日本との関わり合いの歴史をみてみると、稲作の伝播は今から約二千五百年前の弥生時代(中国の春秋戦国時代)とされてきましたが、九州地方に範囲を限定した場合には、更に千年前の縄文時代後期にまで遡るという新説が有力とされています。稲作に限らず、文化の伝播というものは何事であっても、思いのほか速いようです。

紀元を前後する時期から三世紀頃にかけて、統一政権の大和朝廷が成立します。
四世紀後半には、大和朝廷が朝鮮半島との間で頻繁に交渉を持っていたことが、高句麗の広開土王(好太王)碑文に記されています。「百済と新羅はもともと高句麗の属国として貢ぎ物を献上していたが、391年以来、日本が出兵し、百済・新羅と結んだので、396年に好太王みずからが兵を率い百済を討った。397年には日本と百済が協定して新羅を攻め、404年には、半島北部にまで軍を進めた」とあります。日本の史書『古事記』『日本書紀』にも、神功皇后(じんぐうこうごう)の「三韓征伐(さんかんせいばつ)」としてそれらの事が記されています。


◆陰陽五行思想
これらの史実は、大和朝廷が成立した当初から、大陸との間に盛んな往来があったということを示しており、恐らくは漢字が伝わったのと同時期に、道教も、当時の最新思想、最新テクノロジーとして、「陰陽五行説」も伝わっていたと考えられます。

国史の中の「陰陽五行」に関する記述には以下のものがあります。

○『日本書紀』継体天皇7年(513)の条に、百済から五経博士が貢られたと記されている。

○孫の欽明天皇の14年(553)の条に、新羅、高句麗から圧迫を受けていた百済よりの援軍要請に対し、「援軍は百済王の望みのままにせよ」と応えたと同時に、
「医(くすし)博士、易(やく)博士、暦(こよみ)博士は当番制により交代させよ。今、上記の人は、ちょうど交代の時期になっている。帰還する使いにつけて交代させよ。また、卜書(うらのふみ)・暦本、種々の薬物などを送るように」という要求を携えさせたと記されている。

※前年には、仏像、仏具、経論を献上されており、このことが日本への「仏教公伝」とされています。中国に仏教が伝わったのは一世紀頃の後漢の時代で、四世紀頃から広まり始め、経典の漢訳も進み、四世紀末から五世紀の頃には朝鮮半島にまで広まっていたと考えられています。

○推古天皇の10年(602)の条には、百済僧の観勒(かんろく)が訪朝し、暦本や天文・地理書、遁甲(とんこう)・方術書を献上したと記されている。

○天武天皇(在位673〜686年)の時代、律令体制の整備、神道・仏教の掌握、国史編纂などの数々の施政により大和朝廷を盤石なものにした。
同時に、天武天皇は陰陽道にも通じており、『日本書紀』天武天皇の条の随所に「天皇は天文や遁甲の術をよくされた」、大友皇子を討つべく軍を起こした際に、「式(ちょく、一種の占盤)を執り占った」といったことが記されている。


◆呪禁道(じゅごんどう)
初期の律令時代の「陰陽道」は、主に天文、暦算などによる日や方位の吉凶等を“陰陽五行の理”によって判断し、バランスを整えて物事の解決をはかろうとするものでした。
それがどうして、安倍晴明や蘆屋道満(あしやどうまん)などの陰陽師に代表される、呪術性の強い「陰陽道」へと変化していったのかというと、同時期 (577年頃) に伝来していた呪術的道教・「呪禁道(じゅごんどう)」を吸収したことによります。

呪禁の「禁」は、「刀を手にして呪文を唱え、毒獣悪鬼、悪霊、病を退ける意」とされる。呪禁師(じゅごんし)たちは、呪術医として典薬寮(てんやくりょう)という国家機関に所属していましたが、吉備真備(きびのまきび)によって典薬寮が廃止されます。
存思(ぞんし)、禹歩(うほ)、掌決(しょうけつ)、手印(しゅいん)、営目(えいもく)の五法を行使したとされる呪禁師は、今でいうところの、気功師で、漢方医であり、呪術師でもあるといった存在だったようです。


◆修験道の中の道教・密教
大和朝廷成立以前から野(や)にあった民間「道教」は日本古来の山岳信仰と結びつき、修験者たちによって独自な発展を遂げていました。「修験道」の開祖とされている役小角(えんのおずぬ、役行者〈えんのぎょうじゃ〉とも呼ばれる)が有名です。小角の弟子の一人であったとされる韓国連広足(からくにのむらじひろたり)は、呪禁師であったとされています。

五世紀頃に成立したとされる、仏教とヒンズー教などのインドの土着宗教が習合して出来上がった呪術性の強い「密教(みっきょう)」の場合も、雑密(ぞうみつ)といって、体系化されていない、純粋密教の断片とでもいうべきものが、七〜八世紀頃の日本の山岳修行者たちの間には逸速く伝わっていたようです。彼らに送り出されるようにして入唐し、密教の正統を引き継いで帰った(806年)のが弘法大師・空海です。     

★★★
とにかく、“官”に比べて“民”のスピードというのは、今も昔も、実に速いです。
当時は、渡来人たちによって、多くの事物が逸速くもたらされていたということになります。その早さには驚嘆させられます。
現在では、これら「道教」「陰陽道」の多くの要素が、神道行事や家庭祭祀の中に引き継がれています。★★★


[85] ●陰陽五行思想 Name:道開き Date:2011/08/12(金) 17:58 
古代中国文明発祥以降、数千年もかかって出来上がった「陰陽説」と「五行説」が、B.C4世紀の戦国時代の末頃に合体し、『陰陽五行思想』となったといわれています。これは、古代ギリシアの自然哲学とも対比されるほどに高度な哲学だともされています。その大要は以下のようなものです。



◆陰陽五行思想の概要
陰陽五行思想では、この世の初め、宇宙はいまだ混沌たる状態であったが、やがてその中から、軽く清んで暖かい「陽」の気がまず上昇して天となり、それと同時に、重く濁った寒い「陰」の気が下降して地となったとしている。

森羅万象、宇宙のありとあらゆるものは、この相反する「陰」と「陽」の二つの気の働きによって、一年を周期として代わる代わるに消長盛衰する。その消長する間に、「木火土金水」という五気も生まれ、陰陽と同じように一年を周期として代わる代わるに消長盛衰する。そのため一年の間に春夏秋冬の四季節の別が生じるのであるとする。

こうして、森羅万象を、まずは陰陽二気の働きによって説明し、次に五行を割り当てて判断するという形而上学的思想が形成された。

やがて、陰陽五行思想は暦法とも結合し、干支や二十四節気の中に取り入れられていくことになる。


◆陰陽五行と四季循環     
「陰陽」は一年を周期として、互いに逆方向に消長する。「陰」は冬至において極に達し、その後は次第に衰退し、夏至において皆無となる。しかし、その瞬間に「陰」は再生する。その後次第に長じていき、冬至に至って再び極に達する。「陽」は夏至において極に達し、その後は次第に衰退し、冬至において皆無となる。しかし、その瞬間に「陽」は再生する。その後次第に長じていき、夏至に至って再び極に達する。このように森羅万象ことごとく、「陰陽」が一方に傾くことはない。

「陰陽」は一年を通じて消長を繰り返す過程において、春夏秋冬の別が生じ、「木火土金水」の五気を生じる。春においては「木」を生じ、夏においては「火」を生じ、秋においては「金」を生じ、冬においては「水」を生じる。



●四季への五行配当

春 ― 「木」

夏 ― 「火」

秋 ― 「金」

冬 ― 「水」

「土」は四季のどこに配当されるかというと、暦の二十四節気の中の、四立(立春・立夏・立秋・立冬)の前の18日間(合計73日)を「土用」とし、季節を変化させる働きをもたせた。

ちなみに「土用」は本来、「土旺用事」「土王用事」といい、土の気が旺(さかん)になり事を用いる意であった。用は「はたらき」ということで、土気の最も働く期間ということ。
「土」には、元来、物を変化させる作用があるとする。


[84] ●『先祖の話』 Name:道開き Date:2011/06/04(土) 07:13 
日本民俗学の草分けともいえる柳田国男の代表作です。「祖先崇拝」は、私の大学時代の卒論のテーマでしたので柳田国男全集はそれなりに目を通したものでした。

現在の日本において行われている祖先祭祀は、江戸期の徳川幕府によって推し進められた寺請制度により、お寺で行われている場合が多いのですが、その内容はというと、仏教というよりもどちらかと言うと、儒教や神道などの東アジア特有の「祖先崇拝」にあります。

テレビやグラビアなどで、インドなどの南アジアの人たちがお墓を建て「先祖供養」している姿を見たことがあるという方はいない筈です。仏教本来の教えでは、死後四十九日間は“中陰(ちゅういん)”<又は、中有(ちゅうう)とも云う>という全くの「無」の時間に入り、その後、魂が六道のいずれかに“輪廻転生”するのだとしています。つまり、「先祖供養」のような事は必要ないのです。

日本古来の民俗における「祖先祭祀」を見ると、死者は三十三年、又は五十年の期間に渡って、生者(子孫)からの供養を受け、その後、「弔い上げ(とむらいあげ)」が行われて、個としての霊殻を捨て去り、“ご先祖様”という霊の集合体(何十代、何百代にも及ぶ)に入るものとされてきました。
そうなると、お墓や御霊舎(仏壇)における祭祀は終わり、「祖霊神」となって、屋敷神やお正月様として祭祀を受ける対象となります。

私の今日までの神職としての経験から鑑みても、お墓や仏壇を粗末にすることによる障りよりも、屋敷神や神棚を粗末にすることによる障りの方がはるかに恐ろしく、逆に、丁寧にお祀りすることによる守護は大きなものとなります。
つまり、個人を相手にするか、団体組織を相手にするかの違いみたいなものです。
「個人主義」が蔓延している昨今では、こういった「ご先祖様」だとか、「国家」だとか、「地域(コミュニティー)」だとかいった概念は弱まりつつあるようにも思われます。良くない傾向だと思われます。


◆崇拝する対象
「生前にこの世で生きていた人を、どうして神社に神としてお祀りするのか」といった疑問を持たれる方も多いのではないかと思われます。それは、その方の生前の行いが神的側面を持ち合わせていたからということになります。さらには、そういった方たちを神として神社にお祀りすると、その背後にも、似た様な側面を持った勢力の神霊団が組織されてくるようになります。

それとは逆に、“悪魔崇拝”の様なことをしていると、「類は友を呼ぶ」的に、似たような勢力のモノたちが集まってきます。それが恐ろしいのです。そして、「人を呪わば穴二つ」的に祭祀者自身も自滅してしまいます。


[83] “ サクラ ” Name:道開き Date:2011/04/21(木) 18:32 
明日は、県内の若手神職からなる宮城県神道青年協議会の方たち10名程がいらして、復旧作業を手伝ってくださることになっています。有難いことです。

早いもので、当地も桜の季節となりました。
「花祭り」というと仏教では、お釈迦様の誕生にあたって天上から色彩りどりの花々が舞い降りてきたとされ、四月八日、釈迦像に甘茶を注いでお祝いする慣わしになっています。しかし、実際は、日本古来の「山遊び」・「花摘み」・「天道花(てんとうばな)」といった民俗行事が仏教と習合したものだということです。

山里に花が咲く頃、日本の古え人たちは豊穣をもたらす山の神が里へ降りてきたと考えました。そして、田の神となって米作りの手助けをしてくれると信じました。

そもそも「サクラ」という名称そのものが、“サ”が「田の神になった山の神」のことを云い、“クラ”は「座」で、「山の神が宿る依代(よりしろ)」ということになります。よって山の花々も、山の神の依代(よりしろ)と考えられていたようです。


[82] 東日本大震災の被害状況について A Name:道開き Date:2011/04/12(火) 10:13 
昨日、父の持病の薬をもらいに掛かりつけの病院まで足を運んだ際に、被災した地区の氏子のAさんから声をかけられました。

山神社の隣に住んでいた氏子のT屋さんから、木之花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)の御神体を預かっている、比較的、津波の被害を受けなかった地区に住むOさんが今、丁度に待合室にいるので会って欲しいということでした。

Aさんは現在、車で20分ほど離れた地区に集団避難していて、本当だったらここの病院に来ることもなかったのだが、この為に呼ばれたんだなと語っておられました。信仰の灯は消すことなく点し続けておられるようでした。

Oさん宅から御神体を受け取り、社務所神殿にお移しすることができました。


[81] 東日本大震災の被害状況について@ Name:道開き Date:2011/04/02(土) 14:29 
報告が遅れてしまい、大変申し訳なく存じ上げます。

河口付近は10メートルの津波が来襲したようで、
白鬚神社、山神社、針生稲荷神社の社殿の多くは流出してしまいました。

ただし、白鬚神社の本殿(末社の五十鈴神社、不動神社の本殿も)は流出せず、境内地に留まり、それぞれの御神体はだいぶ離れたところにある社務所(宮司宅)の神殿にお移しすることができました。
その地も、3メートルほどの津波がやってきましたが、建物も、我々亀廼井家の者たちも何とか無事でした。

山神社、針生稲荷神社の本殿も、流出せずにその地に留まっていましたが、御神体が見当たらずにおります。その状況から見て、近くの氏子のいずれかの方かが、戻ってから一時的に保管して下さっているようにも思われます。氏子の方たちとは連絡が取れずにいます。

海津見神社の御神体は、神社の裏に住む氏子の方が保管して下さっていて、この目で確認することができました。大きな毘沙門天像なのでそのまま預かってもらっています。

ご近所の方々、町内会の皆さん、地元消防団の皆さん、被災部隊でもあった陸上自衛隊多賀城連隊の皆さんには本当にお世話になりました。

政府関係者、メディア関係の皆様、日本のみならず世界中のご支援くださっておられる皆様には心から感謝申し上げます。


[80] ●旧正(旧暦の正月) Name:道開き Date:2011/01/29(土) 07:28 
本来ならば、第一月である正月が、十二支の始まりの子(ね)の月というのが自然ですが、漢時代以降の中国では、夏(か)の時代〈紀元前22世紀〜前16世紀〉の正月・寅(とら)月を採用しました。

周(しゅう)の時代〈紀元前10世紀〜前3世紀〉には、“冬至(とうじ)”を含む子(ね)月を正月とし、周の前の殷(いん)の時代〈紀元前16世紀〜前10世紀〉には、それより一か月遅れた丑(うし)月を正月に、殷よりもさらに古い夏の時代には、さらに一か月遅れた“立春(りっしゅん)”に近い頃の寅(とら)月を正月としていました。

日本の旧正月は“立春系”であり、新正月は“冬至系”です。


[79] ●干支(えと) Name:道開き Date:2011/01/29(土) 07:25 
「来年の干支(えと)は何ですか? 」「あなたの干支(えと)は何ですか?」といったように、現在では、干支(えと)という言葉は「十二支獣」の名称を言い表す言葉として使用されています。
「十二支獣」とは、中国歴代王朝が暦(こよみ)を周辺の未開の地方に伝えるために、子、丑、寅・・・・といった十二の記号であった“十二支”に、覚えやすい動物名(ね、うし、とら・・・・)を配したものとされています。

ちなみに「えと」という呼称は、“十干”(じっかんの「甲・乙・丙・丁・・・・・」)に五行(木・火・土・金・水)を配当し、“陽”を「兄(え)」、“陰”を「弟(と)」といったように区分した呼び名のことです。(例えば、「甲」だと「木の兄(え)」、「乙」だと「木の弟(と)」といったように)


“十干”の起源は、中国の殷(いん)の時代〈紀元前16世紀〜前10世紀〉とされており、当時は、ひと月を10日ごとに、上旬・中旬・下旬の三つの旬に分けて占う「卜旬(ぼくじゅん)」が広く行われており、一旬に含まれる10日間の一日一日を示す数詞であったといいます。

“十二支”は“十干”よりも古く、初めは単に十二ヶ月の順序を示すための符号(数詞)でした。後に年・日・時刻、方位などを表すための記号としても使われるようになります。
もともとは、五惑星のうち最も尊貴とされた木星の運行からきたもので、木星(歳星)が12年で天を一周することから、木星の位置を示すために、天を十二分した場合の呼称が“十二支”でした。

紀元前14世紀頃の殷の時代の甲骨文の中に、日を記述するために干支が使用されていた例が発見されており、記年法として用いられ始めたのはかなり新しく、紀元前1、2世紀頃であるとされています。

中国戦国時代の末頃には、天地間の万物が、陰と陽との二気によってつくり出されているという「陰陽説」と、「木・日・土・金・水」の五気の働きによって成り立つとする「五行説」が合体して『陰陽五行思想』が成立します。それが、“易(えき)”の八卦(はっけ)、九星(きゅうせい)などと共に、暦の中の“十干”、“十二支”と複雑に絡み合って、中国暦が生みだされました。


[78] ●霜月まつり A Name:道開き Date:2010/12/05(日) 07:48 
旧霜月(新暦では、今年の12月6日〜来年の1月3日)のこの寒い時期に、テレビ各局で開催される様々な歌謡祭は、神道的見地からして、十分に伝統に則したものにも思われます。

[77] ●霜月まつり@ Name:道開き Date:2010/12/03(金) 20:50 
旧暦11月の霜(しも)月には、全国的に、その年の収穫への感謝と、あくる年の豊作を予祝(よしゅく・・・予め祝ってしまう意。そうすることによって、豊作が約束されると考えたから)する、様々な祭が行われています。
特に、「湯立(ゆだて)神事」や「霜月神楽(かぐら)」が有名です 。

この頃は、冬至(とうじ)の時期とも重なり、ある意味、太陽が〈死〉から〈生〉へと転換する頃でもあり、「太陽の再生」と「生命力の豊穣」が祈念されたのでした。

古来、宮中においても、冬至の頃には、太陽神・天照大御神の後裔で、大御神と同魂胴体の、日の御子とされた天皇の御魂も弱くなっていると考えられ、全国からそれぞれの国魂(くにたま)を身に付けた八乙女(やおとめ)が呼ばれ、天皇の霊力を復活させ、新生させるための鎮魂(ちんこん)祭において、「タマシズメ」、「タマフリ」の業(わざ)が執り行われました。

これらの祭は、『古事記』、『日本書紀』等に記される「天の岩戸開き」神話に起源し、それを再現しているということになります。

つまり、天照大御神の「岩屋戸こもり」は、太陽が再生するための象徴的な死であるとされ、岩屋戸の前で、「桶(おけ)伏せて踏みとどろかし、神懸かりして・・」舞い、「天の岩戸開き」を行った天宇受女命(あめのうずめのみこと)は、“神楽の神”、“鎮魂の神”、そして、“巫女の守神”、“舞踏、芸能の守神”とされています。(当白鬚神社の御祭神の一柱でもあります)

忌部(いんべ)氏の『古語拾遺(こごしゅうい)』には、
「凡(すべ)て、鎮魂(たましずめ)の儀(わざ)は天鈿女命(あめのうずめのみこと)の遺跡(あと)なり」とあります。

[76] ●「まつり」の意味 Name:道開き Date:2010/10/08(金) 07:48 
「まつり」とは、神に御食御酒(みけみき)や幣帛(へいはく)といったお供え物を「タテマツル」意であるとされています。他にも、動詞の「待つ」を語根とした言葉で、神さまの降臨を待ち迎え、神を饗応する(おもてなしする)義であるという説があります。

「まつり」の基本構造はというと、「神を迎えー饗応しー送る」というもの。そうして共同体の活力を再生・更新させるものでした。そして、「まつり」とは本来、厳格な「物忌(い)み」により清まった、神事に携わる資格のある者だけが参加して、深夜などにひっそりと行われるものでした。

その中で最も本質的で重要な儀礼はというと「神人共食(しんじんきょうしょく)」、つまり、神と人とが共に食事をすることにあります。それは国家を挙げて行ってきた最高の祭りから、村の鎮守の小社の祭り、そして、盆・正月、節句、月見の宴・・などの家庭の祭りに至るまで共通しています。


[75] ●世襲制とカリスマ Name:道開き Date:2010/08/20(金) 07:50 
下の書き込み〔74〕に続きます。

マックス・ウェーバーが、カリスマの本質を「原型」という形で提示しながら、かなり広い亜型的な現象にもこの概念を適用したために、広狭二様の用法を志向する研究者の対立が生じてきています。そこで原型と亜型との区別が明確になるようなM・スペンサーの見解が注目されます。


【A】“超自然的な”カリスマ (ウェーバーの原型的用法におけるカリスマ)

   @教祖や創始者の原型的な超自然的カリスマ

   Aその人物の資質として直接与えられたものではなく、先行する存在の
    カリスマ的な権威に全面的に依存し、従属する二次的な超自然的カリスマ。

【B】“世俗的”カリスマ (近代の政治的指導者のカリスマ)



世襲制の中に身を置く者にとりましては、(A)―Aの分類が、やたらと気にかかるところではあります。
ここ最近でも、70年前のディズニーのアニメ映画『ファンタジア』をリメイクした、『魔法使いの弟子』という実写版映画が上映されているようです。




※「カリスマ化過程」に対する見解
・ウェーバーは、カリスマとは非日常的手段により獲得でき、「ある種の苦難や苦行によって惹き起こされる異常な状態が超人間的な(呪術的な)諸力を獲得するための通路」であるとも述べている。

・川村邦光は、「公認された逸脱の儀式である通過儀礼が、カリスマ化過程と類似した過程を持つ」とする。

・そういった見解に対し、アイゼンシュタットは、「通過儀礼においては、社会からの一時的分離、逸脱は制度上許可されているのに対し、カリスマ化過程の場合、社会からの逸脱、もしくは対立は、個人によってなされる。カリスマの担い手は、社会秩序と対立することにより逸脱の烙印を押される」としている。


[74] ●カリスマ論における「スティグマ」 Name:道開き Date:2010/08/18(水) 10:22 
“カリスマ”という概念を初めて提唱したのは、ドイツの社会学者のマックス・ウェーバーです。
よくテレビを見ていると、若い人たちが、「あいつは、持っている」などと口にしているのを耳にしますが、おそらくは“カリスマ性”を持っているということを今風に語っているのでしょう。

しかし、“カリスマ性”というのは、「持っているか、持っていないか」、「0か100か」というものでもなく、おそらくは誰でもが、多少なりとも持ち合わせている資質のようにも考えられます。

“カリスマ”を論じる際には、「スティグマ」という概念も重要になります。
人が“カリスマ性”を発揮する前提には、〈社会から逸脱するといった側面〉が見られるというのです。
つまり、ドブに落ちたり、泥まみれになるような経験を踏まないことには、神さまから召命されたような、本当の意味での社会的大仕事は成し遂げられないということにもなるのでしょう。


●●カリスマという概念の定義●●
「カリスマ≠ニは、非日常的なものとみなされた(元来は、予言者にあっても、医術師にあっても、法の賢者にあっても、軍事英雄にあっても、呪術的条件に基づくものとみなされた)ある人物の資質をいう。
この資質の故に、彼は、超自然的、または超人間的、少なくとも特殊非日常的な、誰でもが持ちうるとは言えないような力や性質に恵まれていると評価され、あるいは神から遣わされたものとして、あるいは模範的として、またそれ故に〈指導者〉として評価されることになる。
当該の資質が、何らかの倫理的、美的、またはその他の観点からするとき、〈客観的に〉正しいと評価されるであろうかどうかは、いうまでもなく、この場合、概念にとっては、全くどうでもよいことである。その資質が、カリスマ的被支配者、すなわち〈帰依者〉によって事実上どのように評価されるか、ということだけが問題なのである。」



●●「スティグマ」という概念●●
『社会学小辞典』によれば、対人的状況において、正常からは逸脱したとみなされ(望ましくない、汚らわしい等)、他人の蔑視と不信を買うような欠点、短所、ハンディキャップなどの属性。


◆「自己スティグマ化」
「スティグマ」という概念が、カリスマに対峙するものとして提起されたが、“カリスマ化過程”においては「スティグマ」的側面も見られ、社会学者リップにより、以下のようなカリスマ論が提唱されました。

・スティグマの担い手は、自己アイデンティティが不安定なものになり、否定的な価値、社会的評価を無効とし再規定しようとする。すなわち、スティグマの意味、内容を、象徴的操作により変える、すなわち、社会的に下された否定的価値を肯定的価値へと変容しようとする。このスティグマの対抗評価により、カリスマはスティグマを積極的に引き受け、それを自己の肯定的要素とする。

リップは、対抗評価によるスティグマの積極的受容を「自己スティグマ化」と呼んでいる。それは社会の吐き出す穢れを一身に背負うといってもよい。

「自己スティグマ化」により、スティグマとカリスマとは相互に交換可能なものになる。「自己スティグマ化=カリスマ化」は、帰依者集団の形成から、社会の構成員全体の動員に及ぶダイナミックなカリスマ運動を推進する。

・カリスマ的人間は、従来の象徴的世界とは全く異なった、新しい救済財を与える者として登場するが故に、社会にとって大きな脅威となる。このような意味において、カリスマの担い手は、たとえ帰依者を獲得しても、やはり社会によっては逸脱者、狂人というレッテルや徴を付与される。



◆官僚制的支配とカリスマ的支配
『支配の社会学』においてウェーバーは、遠い過去においては、ほとんどの支配関係が、伝統とカリスマとによって両分されていたとしている。しかし、歴史が進展するにつれて顕著となる官僚制的支配と、カリスマ的支配は正反対の面を持つ。経済的基盤からみると官僚制的支配は、恒常的な収入に依存しているが、カリスマとは、この世の中に生きているのではあるが、この世を糧として生きているのではない。
制度的な永続的組織の発展が進むにつれて後退してゆくということは、カリスマなるものの宿命である。よって、官僚制化が進んだ社会においては、カリスマとは、かってほど顕著に見られる現象ではないようにウェーバーは見なしている。


◎参考
―情報化社会における神々の再生―
『現代日本の新宗教』(創元社)  桃山学院大学 沼田健哉 著


[73] ●東照(徳川家康)公御遺訓 Name:道開き Date:2010/05/24(月) 18:01 
小学生の頃、母親が、日光へ団体旅行に行ってきたお土産にと、大きな灰皿を買ってきた。どういう訳か、その灰皿に書かれていた一文がやたら気に入り、何度となく読み返している内に頭の中に書き込まれたようにも思われます。その一文というのは以下のものです。

●徳川家康公遺訓
  人の一生は重荷を負うて 遠き道を行くが如し
  急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし
  心に望み起らば 困窮したる時を思いだすべし
  堪忍(かんにん)は無事長久の基(もとい)  怒りは敵と思え
  勝つことばかり知りて 負くることを知らざれば 害その身に至る
  己を責めて 人を責むるな
  及ばざるは 過ぎたるよりまされり

作者は不明とされているが、家康公がその晩年に、家臣に色々と苦労話をされたものが元になっているらしい。

徳川家康公は、幼少期を今川義元の人質として過ごした。成人してからは、気難しい織田信長と盟約を結び、当時最強とされた甲斐の武田軍と三方ヶ原で戦い、完膚無きまでに叩きのめされ、多くの家臣を失いました。あまりの恐怖から脱糞までして浜松城に逃げ帰ったとも伝えられており、その情けない姿と苦渋の表情を絵師に描かせ(通称「顰(しかみ)像」)、生涯を通して、自分に対する戒めとしたという逸話も残る。


自分なりに気に入っている言葉には、以下のようなものがあるのだが、それらのエッセンスがすべて凝縮されている一文のようにも思われます。

「継続は力なり」 「石の上にも三年」

「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」

「ピンチの中にチャンス有り。逆も真なりで、チャンスの中にピンチ有り」

「急がば回れ何事も」 「慌てる乞食はもらいが少ない」 「大器晩成」 
「難しい問題を楽に解決しようとする時、人はノイローゼになる。
 ・・焦りは禁物、自滅につながる。」

「温故知新」 「よく遊び よく学べ」 「バランスの取れている事こそが最善・最強なり」

「身の丈にあった生活をおくる」 「何事も“腹八分目”」  「桃栗三年 柿八年」


信長のような天才肌の人物でもなく、秀吉のように天性の明るいキャラクターを持ち合わせ、人心掌握術に長けていたわけでもなく、我々、凡人に極めて近いようにも思われるが、自らの失敗経験を力に変えてきた“スーパー苦労人”家康公の「遺訓」は、示唆に富んだ、非常に有益なものに思われます。
(場合によっては、陽明学者・大塩平八郎のような、「義を見てせざるは、勇無きなり」的な“超爆発力”も必要だとは思いますが・・・)

とにかく、個々の日本人のマン・パワー(人間力)がどんどん弱まり、その結果として、日本の国力が弱体化し続けているように思われる昨今です。それは、戦後の家庭や学校教育が、こういった道徳、哲学を教えようとせず、いたずらに“偏差値主義”に走ったり、「夢を持つ」ことだとか、「輝きを持て」だとか、「個性的であれ」だとかいったような、“個人礼賛”的な綺麗事ばかりを奨励しすぎて来たことに起因するようにも思われます。
つまりは、古人の生々しい体験から生まれた「人生訓」のようなものだとか、「四字熟語」に代表されるような“故事成語”などの貴重な精神文化を、古めかしい時代遅れのものとして軽視しすぎてきたことによるものとも考えられるのです。

今の日本、“精神文化”(つまりは、日本国家の目に見えない部分)の衰退に起因する、国家そのものの没落が始まっている状態なのではないでしょうか。それにつけても、「ほんとうに大切なものは目に見えないんだよ」といった、童話『星の王子さま』の金言が心に染み入ります。

[72] ●修験カリスマの衰退と新宗教の勃興 Name:道開き Date:2010/04/09(金) 13:47 
日本古来の山岳信仰(神的原理)と外来宗教の仏教、特に密教(仏的原理)が結びついて発生したのが「修験道」という“習合宗教”だとされており、奈良時代における役行者(えんのぎょうじゃ)が「修験道」の始祖のようにも説かれています。

平安期には最澄や空海などによって、比叡山や高野山をはじめとして、数多くの山岳寺院が形成されました。江戸期には、一般庶民の間で、山岳登拝組織である“講(こう)”が組まれました。大きな講などでは、大先達(だいせんだつ)の元に数千人の信者が集まったとされています。

明治元年の「神仏分離令」、明治五年の「修験道廃止令」により、修験者は、神職になるか、僧侶になるか、還俗するかの選択を強いられ、多くの山岳寺院も、神社や仏教寺院となり、“講(こう)”からは、数多くの教団が生まれました。昭和20年の敗戦後には、更に拍車が掛かり、あまたの新々宗教と呼ばれる教団が生まれました。

つまり、新興宗教と一般的に言われるものは、信仰的ソフト面は、日本古来の“習合宗教”であり、組織形態は“講(こう)”組織であるという。

明治維新後、神社界は「官」としての立場を強いられ、敗戦後は、「民」的立場に戻されました。現在はさらに、「官から民へ」という社会状況の変化が強まっていることもあり、神社界も、各神社も、「官的な」NHK教育的発信のみならず、せめて、NHK総合的チャンネルを設定して、より一般人に解りやすくソフトを発信していかなければならない時代に入っているのではないかとも考えられるのです。

特に、個々の神職については、明治維新以前の“修験カリスマ”のような側面を所持していかなければならない時代に入っているようにも思われます。


◎参考
―情報化社会における神々の再生―
『現代日本の新宗教』(創元社)  桃山学院大学 沼田健哉 著


[71] ●神社信仰の「重層」構造 Name:道開き Date:2010/02/26(金) 11:15 
神社信仰の基底にあるのは、日本的“シャーマニズム”・“アニミズム”の原初形態です。『古事記』や『日本書紀』などの古典の中にも窺うことができます。
その上に、大陸伝来の「漢字」文化と共に伝わった外来の信仰(“道教”、“陰陽五行説”、“仏教”、“儒教”等)が、幾重にも積み重なり、混合しあって今日に至っています。
その概要については、当ウェブサイトのコンテンツ・メニュー[マンガ]を御参照ください。

「強いもの、賢いものが生き残っていくのではなく、変化することができたものが生き残っていく」という、ダーウィンの『進化論』的に捉えたならば、神道は常に外来の信仰と融合し、変化し続けて来たわけです。

“神仏習合”思想により、弘法大師・空海の真言密教と結びついた「両部(りょうぶ)神道」や、天台宗の開祖・伝教大師・最澄が比叡山にお祀りした日吉社を山王(さんのう)と仰ぎ、天台宗の護法神とした「山王一実(さんのういちじつ)神道」など。
さらには、“陰陽五行説”、“陰陽道”と習合した「土御門(つちみかど)神道」や、江戸期の儒学者たち(林羅山、徳川光圀、山鹿素行、貝原益軒、二宮尊徳、藤田東湖、山崎闇斎などに代表される)が唱えた“神儒一致論”にもとづく「儒家神道」があります。

百年ほど前のアメリカでは、学校で『進化論』を教えることが禁止されていたらしく、生徒に『進化論』を教えた高校教師が、教会側から裁判を起こされたといった有名な史実も残っているようです。

ダーウィンの『進化論』と言えば忘れてならないのは、「ダーウィンに消された男」として有名な、若き博物学者アルフレッド・ウォーレス博士の存在です。ダーウィンに先がけて『自然淘汰(とうた)説』をまとめあげたにもかかわらず、喜びの余り、安易にダーウィンに当てて書簡を送ってしまい、学界で先に発表されてしまったのでした。

その南洋諸島での研究生活中に、心霊現象に興味を覚え、帰国後に本格的研究に着手し、「自然淘汰説だけでは説明できずに残されている博物学上の現象がどこまで説明できるかを、論理的かつ科学的に押し進め」、その成果を学術誌に発表しました。そのことが、学者としての地位を損なう事にもなりましたが、「事実とは頑固なものである」との有名な言葉を残し、多くの論文を一冊の本にまとめあげました。それが『Miracles and Modernpiritualism(奇跡と近代スピリチュアリズム)』です。

つまり、何が言いたいのかというと、各時代の様々な思想によって神道が語られることは、歴史的に見ても、繰り返し行われてきたことであり、「理」に叶った、極めて健全なことなのだとも考えられるのです。

◆『自然淘汰説』(参考)
生き物は、突然変異などで遺伝子が変化し、少し違う者が生まれる。
その中で、生き残れる者が生き残り、生き残れない者が消えていく。
遺伝子が変化することで、感じ方が違ってくる。
感じ方が違うことで、行動が違ってくる。
行動が違うことで、生き残る者と消えていく者に分かれる。


[70] ●「魔女」&「鬼」 Name:道開き Date:2010/02/01(月) 16:47 
ドイツのある地方で、冬を追いやり、春を呼び、幸運をもたらす存在とされているのは「魔女」です。フランスなどでも、「ご先祖」がそういった役割を果てしているとし、春祭りが行われてきた地方もあります。
これらは、キリスト教がヨーロッパに伝わる以前の、古い風習が残っている例です。キリスト教伝搬以降、「魔女」は邪悪な存在の代名詞のようにもされてしまいました。

日本の場合はどうかというと、「魔女」ではなく、「鬼」ということになるのでしょう。
中国で「死者の魂」を意味した漢字の「鬼」は、日本では、「オニ、モノ、カミ」と読まれました。
信仰形態などから、三タイプに分けられるようです。

@災禍をもたらす邪神としての鬼、当時の王権に抵抗した人々の神。そして、怨みや妬みを持って祟りをなす死霊・生霊(女性の場合は般若〈はんにゃ〉)としての鬼です。

A異国の民(夷狄)、非服従の民、漂泊の芸能者、呪力を持つ宗教者、盗賊、山の民・・・。

B密教寺院などで正月に行われる修正会・修二会や、秋田のナマハゲなどの民間の正月行事のなかにみられる鬼。これらの儀式では、宇宙の邪悪なものを象徴させた「鬼」が、国家や村落、家々のケガレを一身に背負って退散してくれる役割を担っているために喜ばれます。


★節分の豆まき
中国から伝わった、宮中における「追儺(ついな)の儀」(「おにやらい」ともいう)が元となります。祭文を奏して、鬼に扮した人を桃の弓や矢、棒などで追って、悪疫邪気を退けようとするもの。
「豆まき」は、室町時代に始まったとされますが、現在でも使われている「鬼の面」は、仏教で説く獄卒の鬼や餓鬼の図象とともに、追儺の儀で、鬼を追う“方相氏(ほうそうし)”のつけた四つ目の方形の仮面が影響したとされています。
(映画『千と千尋の神隠し』で、湯宿に来訪する八百万神々のキャラクターの中の一つに、この“方相氏(ほうそうし)”の姿が見受けられました。)


[69] ●神社とは、或る種の“装置”みたいなもの Name:道開き Date:2009/12/24(木) 10:38 
いよいよ年の瀬も押し迫り、残すところあとわずかばかりとなりました。新たなる年を迎えようとしています。

そもそも神社とは、神霊に心を合一させるための「魔法陣」のような構造になっているものなのです。
〈邪霊にコンタクトするための装置といえば、日本の「狐狗狸(こっくり)さん」の元にもなった、西洋の「ウィジャ盤」等です。〉


その起源は、縄文時代早期の
●「環状列石(ストーン・サークル)」・「列状配石」などの祭祀遺跡にあります。


それが、
●「磐境(イワサカ)」
神霊を招くために、岩石などによって設けられた祭場。外界との境界となる石。
●「磐座(イワクラ)」
神霊の依代(よりしろ)となる岩石。神さまが来臨する石。
へと変化します。
   ↓

さらには、
●「神籬(ヒモロキ)」
神霊の来臨を仰ぐため、樹木や枝によって作られた臨時施設。

★★★家を新築する際に行われる「地鎮祭(じちんさい)」等は、上記の「祭祀要素が集約されたもの」です。
   ↓

やがては、
●「社(ヤシロ)」 
「屋代(やしろ)」のことで、屋を建てるために設けられた区域、もしくは屋の代りになる物。つまり、常設の社殿の存在しない、祭場となる特定の聖域。

   ↓
●「宮(ミヤ)」
次第に、神霊の常在を願う気持ちが高まってくると、祭祀のたびに新設する簡単な建物ではなく、常設の社殿となる「ミヤ」がつくられるようになります。
「ミヤ」とは「御屋(みや)」のことで、単なる屋ではなく、”尊い建物”を意味します。

といった変遷を遂げました。


神棚、仏壇、お墓も同様で、或る種の“装置”みたいなものだとも言えます。


◆縄文人の「神棚」
縄文時代の中期から後期にかけて、居住地の奥壁部には
“石柱(立石)”や“石棒”が立てられていたり、“石壇”
とよばれる床より高い位置に平石、敷石を配したものが
ありします。その近くには炉がつくられ、土器や石皿
を置いて供献物を浄化して、“立石”に憑かるマナ(神霊)を
まつる儀礼(祭祀)がおこなわれていました。


[68] ●司馬遼太郎の『坂の上の雲』 Name:道開き Date:2009/11/28(土) 20:01 
よくよく考えてみると、私、明日から三年間に亘ってNHKで放映されるドラマ『坂の上の雲』の作者・司馬遼太郎さんに、25年ほど以前にお目にかかったことがありました。その頃に奉職していた県内の某神社でのことです。何のお話をすることもなく、ただこちら側で見かけただけのこと。
当時の司馬遼太郎さんは、『街道をゆく』という紀行シリーズを執筆中だったようで、そのための現地視察にいらしていたそうです。

氏の作品『坂の上の雲』には、明治の人たちが、いかなる熱い思いを抱いて国づくりに取り組んだのかが描かれていますが、明日がその第一回目の放送だということです。現代の日本人が失ってしまったとされるものを、再確認してみたい思いでいっぱいでおりす。

以下は、だいぶ以前に、『坂の上の雲』について当サイトの掲示板に書き込んだものですが、再度掲載させていただくことと致します。



[319] 乞食(こじき)の“ズタ袋” 投稿者:道開き 投稿日:2005/11/03(Thu) 21:01  

IT、ネットワ―ク、ハイブリッド、ナノテクノロジ―、ロボット・・・等のハイテクといったものに心踊らされ、ワクワクさせられます。地球環境、自然、伝統技術、匠(たくみ)の技・・・等といったものには教え諭され、ついつい謙虚にならされることが多いです。この対極に位置するかに思われるどちらの事象にも、同じく興味が尽きないでいられるということは、それほど自分のバランス感覚は悪くはないのかなと・・・・

というか、ハイテクというものは、ロ―テクの堅実なる積み重ねとか、細微にわたる自然観察から生み出されているようにも考えられますので、あえて分けて考える必要もないのでしょう。

以前、何かの本に書いてあったのですが、はたして司馬遼太郎の小説だったように記憶していますが・・・・・
「知識というものは、乞食の背負っているズタ袋のようなものが良い。本当に必要なものだけが、中から何かまわず出てくる」と。
なるほどなと思わされる一節でした。

そういえば、歴史上、世界中を驚嘆させた日本海海戦における日本の大勝利が思い起こされます。当時、世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに撃破したのは、戦術上の非常識とみられた参謀・秋山真之の編出した“東郷タ―ン”でした。それは、瀬戸内の村上水軍の古戦術を参考に組み立てられたものだということです。

もし、秋山が、当時の先進諸国の海軍が使用していた戦術テキストの知識のみに頼ってしまうような、模範的優等生タイプの人物であったとしたのなら、今頃、日本、そして、アジア、アフリカはどうなっていただろうか。へたをすると未だに西洋の列強諸国の支配下にある可能性も否めません。




[320] 世界の常識は、日本の非常識??? 投稿者:道開き 投稿日:2005/11/08(Tue) 21:56  

陰陽五行説は「バランス学」だとも言えます。“陰陽”のバランス、“五行”のバランスが取れていることこそが最良、最強となります。以下は歴史教育のバランスについて。

今年は日露戦争100周年の年に当たる年らしい。
明治期、世界史の奇跡とも言われる“明治維新”を成し遂げた日本はではあったが、まだまだ発展途上の弱小国で、西洋列強の一つ、北の大国・露西亜(ロシア)の脅威には常に怯え続けていました。そんな日本が大国ロシアを打ち負かしてしまったのです。よく相撲に例えられて、「平幕の力士が横綱を負かしたのと同様だ、いや、それ以上の大金星をあげたのだ」とも評されます。
・・・・・・・・日露戦争までを“明治維新”とみる「史観」もあるようですが、その見方にはかなり納得がいきます。

今年のNHKの大河ドラマは、本当は、日露戦争100周年を記念して、司馬遼太郎の『坂の上の雲』が当てられる構想だったそうな。ところが、余りのスケ−ルの大きさ故に中止になってしまったと聞いています。本当の話はいかがなものだったのか。

書き込み〔319〕に記した“東郷タ−ン”を考案し、世界最強のバルチック艦隊を殲滅した海軍で戦った弟の秋山真之と、やはり、馬に乗らせたら世界最強といわれたロシアのコサック兵(彼らは、生まれた後は、ほとんど馬上で育った兵士たちとまで言われていた)に対抗できる騎馬隊を組織する使命を受け、「奉天会戦」に勝利した、陸軍所属の兄の秋山好古(よしふる)が主人公となる作品でした。

日本の大勝利には、ロシアに虐げられてきた北欧・東欧諸国、トルコなどの中東諸国では、国を挙げて歓喜したそうです。さらに、世界中の有色人種たちも日本の勝利に大いに奮起したということです。
ニュ−ジ−ランドのマオリ族なども、日本の勝利に沸き立ったという内容のテレビ番組を見たことがあります。当時のニュ−ジ−ランド政府は反乱が起きることを危惧し、彼等を押さえにかかったのだそうだ。北欧では、東郷平八郎の名を付けた“東郷ビ−ル”という銘柄のビ−ルが今でもあるそうです。

世界では、歴史上の海の英雄は誰かということになると、決まって、トラファルガ―海戦でスペインの無敵艦隊を打ち破った英国のネルソン提督か東郷平八郎元帥の名が挙げられるのだそうです。それでもやはり、NO.1は誰かということになると、どうしても東郷平八郎ということになるのだそうです。

第二次大戦後の日本では、こういった戦争に関することは、総て軍国主義に繋がっていくものとされて、なかなか教えようとしない傾向にありました。日本史の教科書でさえも、東郷平八郎の名を載せていない歪んだ歴史教科書も多いということです。まさに自虐国家・日本と言われてしまう所以でもあります。

これでは、日本に誇りを持とうとする日本人が減っていくのは当然かとも思われます。(テレビで、他国の人たちが自国に誇りを持って、歌ったり踊ったりしながら、お国自慢をしているシーンなんか見ていると、つくづくいいもんだなぁ〜と思えます)
 こういった国情を憂いた故三波春夫さん(日本の国民的歌手、シベリア抑留などの戦争体験を持つ)などは、自分で歴史の研究をし、本も出版していました。

人が一生懸命したことに順位をつけるのは良くないこと、人は皆平等なのだとして、運動会の徒競走に順位をつけなかったりする学校もあるそうです。
かといって、そういった「悪しき平等」とも呼べる教育環境で育った子供たちも、一端、実社会にでてしまうと、生き馬の目を抜くような国際競争にさらされるのです。それを思うと、余りにも教育界と実社会とのギャップがありすぎると、しわ寄せが総て子供達にゆくことになります。

教育には、頭の中だけでこしらえた理想よりも、できるだけ現実に即した理想を掲げていってもらいたいものです。もう少し、現実とのバランスを考えてもらいたいです。


[67] 映画『劔岳 点の記』&『八甲田山 死の彷徨』 Name:道開き Date:2009/10/22(木) 13:10 
共に、新田次郎原作の作品です。『劔岳(つるぎだけ)』では、『八甲田山』で撮影監督を務めた木村大作さんが、初監督をなさったようです。

映画『劔岳 点の記』の主人公となる、明治の測量官・柴崎芳太郎と山案内人・宇治長治郎(日本版デルス・ウザーラのような人物)たちの辿った足跡を、“現代の”測量士と山岳ガイドたちで実際に探し当ててみようといった試みを取り扱った、HV特集『日本の名峰 劔岳測量物語 明治40年点の記』という番組を見る機会を得ました。

番組中、幾度と無く、天空に高くそびえ立つ劔岳の姿が映し出されるのですが、その度に、感動で涙が溢れ出そうになってしまいます。自分でも意味が分かりません。
おそらくは、私の守護霊さんか、私自身の前世の魂の記憶が感動していたのでしょう。以前、江原さんから、私の守護霊であるという山岳修行の行者さんからのメッセージを伝えていただいたことがありました。13年も前のことです。

その前人未踏の山だとされてきた劔岳の山頂に、柴崎たち測量団一行が、命懸けの試行錯誤を繰り返し、やっとの思いで辿り着いた際に、或る不思議な物を発見します。錆びた鉄製の「剣」と銅製の「錫杖(しゃくじょう)頭」でした。
奈良時代後期から平安前期頃に作られた物らしく、何と、既に1,200年前には、山伏たちが劔岳の山頂に登頂しており、山の神さまに対してお供え物を捧げていたというのです。

映画も見てみたいと思い、早速、DVDレンタル店に足を運んでみましたところ、12月11日がこの作品のレンタル開始日だと聞かされ、落胆して帰ってきました。まだ一月半もあります。

さて、話は、映画『八甲田山 死の彷徨(ほうこう)』に変わります。この作品は、学生の頃に映画館で見ました。当時、学部は違っていましたが、青森出身の女子学生を「八甲田山」とニックネームを付けて呼んでいた友人の一団がおりました。ここでは、その事の善し悪しは論じませんが、それ程までに強烈なインパクトを世に与えていた映画だったように記憶します。
私も、この作品から、人生における様々な教訓を与えてもらったような感じもしています。

一つは、物事に取り組む際には、周到な準備を重ね、幾度と無くシュミレーションを繰り返し、用心深く行っていかなければならないということ。

そして、どんなに用意周到で緻密な計画を机上で立ててみても、現場を知った者、経験を積み重ねてきた者の存在を抜きにしては、成功が叶わないということ。
映画の中に出てくる、案内役を務めた秋吉久美子さん演じる土地の娘っこの“土地勘”には、長期に渡って訓練を積み重ねてきた屈強な軍人たちも叶わないのでした。

更には、そういったものを全部揃えて事に当たったとしても、現実を無視した上層部の誤った命令一つで、大惨事を招いてしまうということ。第二次世界大戦中の「インパール作戦」なんかはまさにそれです。

これらのことは、軍事のみに限った事ではなく、世の中のあらゆる人の営み万事に、そのまま当てはまる教訓のようにも思えます。

[66] ●『ゾマホンのほん』 Name:道開き Date:2009/09/29(火) 13:47 
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テレビ番組『そこが変だよ、日本人』と云えば、どうしても思い起こされるが、あの早口でしゃべりまくる、愛すべきベナン人のゾマホン・ルフィンさんです。
そのゾマホンが本を出したということで、すぐに本屋へと足を運び、買って読んでみました。その本の題名はというと、そのものズバリ、『ゾマホンのほん』でした。

当時のゾマホンさんは、アフリカの小国・ベナンの未来を背負って、日本にやって来ていた留学生でした。過去の日本に当てはめたなら、おそらくは、明治期の夏目漱石、森鴎外、新渡戸稲造、野口英世のようにも成り得る存在です。

本の内容はというと、私が学生の頃から心配し続けてきた事と全く同じ内容の事柄が、そのまま書かれていました。
つまり、アフリカ大陸に入ってきた西洋文明が、アフリカの精神文化、経済等の社会の仕組みの総てを根こそぎ破壊してしまったこと。それは日本でも、スピードの違いこそ有れ、同じような動きが確実に進行しているということ。しかし、どうにか踏みとどまっている日本には、何とかして頑張り続けてもらいたいこと。・・・・

我々のような日本文化の担い手としましては、古代の地中海で起こり、全ヨーロッパ、そして、アメリカ大陸、アフリカ大陸へと広がった大波に飲み込まれないよう、よほど気を引き締めていかなければならないのでしょう。

とにかく、今日のように、メディアが発達を遂げ、IT革命が起きてしまった社会といったものは、もはや、情報や思想、価値観が強大な組織によって一元的に発信される時代ではなく、多元的に、幾重にもシンクロされたものとなっているようです。つまり、多神教的、アジア的なものにとっては非常に有利な社会になっているとも言えます。
問題となるのは、そういった事実をしっかりと把握できているのかどうかにあるのだとも考えられます。


[65] ●布留部神業(ふるべのかんわざ) Name:道開き Date:2009/09/26(土) 20:57 
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「布留(フル)のヤシロ」と呼ばれて来た奈良県の石上(いそのかみ)神宮こそが、物部(もののべ)氏の氏神社です。古くより伝わる「鎮魂法」は布留部神業(ふるべのかんわざ)として今日でも伝わっております。神社本庁でも、神職が修養すべき行法として認可しています。その中の、

「ふるへ ゆらゆらと ふるへ」

という唱え言葉は「布留(フル)の言(こと)」といって、「十種の神寶(とくさのかんだから)」の御名とともに唱えられます。

10年ほど以前になりますが、当時、“現代の陰陽師”こと和田さんという方が、スタジオの50〜100人の外国人に白い紙のようなものを渡し、掌に挟ませた状態で手を組ませ、この「布留(フル)の言(こと)」を唱えたところ、半数近くの人が神憑り状態になってしまったところを、あるテレビ番組(おそらくは、北野タケシさんの『そこが変だよ、日本人』だったと記憶する)で見たことがあります。

あの批判精神旺盛な外国人たちが、集団でのヤラセに応じるはずもなく、やはり、その際には「鎮魂」が「帰神」にまで至ってしまったが所以の出来事だったのだと理解しています。

この話は以前にも取り上げたことがあるのですが、当時、あの外国人たちの掌に挟まれた白い紙というのは、「剣先符(けんさきふ)」なのかとも考えていましたが、最近になって考えられるのは、おそらくは「十種の神寶(とくさのかんだから)」が記された紙だったのではなかろうかということです。

私的経験から言うと、「十種の神寶(とくさのかんだから)」の御名を唱える方が、憑いているモノの霊的活動は活発になります。
と云うか、自分の霊魂も他者の霊魂も旺盛に活動し始めるのです。

江戸期の著名な儒学者で、「垂加(すいか)神道」を創唱した山崎闇斎なども、両掌に「十種の神寶」を記した符を蔵して鎮魂の業を行っていたことが伝えられています。


余談になりますが、当地野蒜は、平成15年の市町村合併以前までは、桃生郡鳴瀬町の一部でした。桃生郡の「桃生(ものう)」は「もののふ」からきている名称であるとされています。
当社の前を流れる鳴瀬川の対岸には石上(いしがみ)神社という神社があり、当社でもお祀りしている沖の明神岩を御祭神として拝しています。
私、20代の頃には県内の某神社に、現在の石上神宮の森宮司さんと5年ほど一緒に奉職していました。訳あって家まで来ていただいて、祖母に輸血までしてもらったこともあります。その数年後には、石上神宮の社務所に泊めていただいて、ご夫妻に案内していただき、奈良の“超田舎チック”な夜を堪能させていただきました。
何か、やたらと「もののべ」との関係が深いような気がしてならないのです。


[64] ●古代祭祀 Name:道開き Date:2009/08/26(水) 14:16 
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相変わらず、古代におこなわれていた祭祀に対し、特に、物部(もののべ)氏、忌部(いんべ)氏などの古代氏族に伝わっていた神道祭祀について、非常に興味を感じています。

これは私的経験による見解なのですが、“モノノケ”的なもの、“魑魅魍魎(ちみもうりょう)”的なものに対しては、これら古代氏族の祭祀が非常に有効で、かなりの威力を発揮してくれます。

6世紀、仏教の受け入れに際し、親仏派だった蘇我(そが)氏と激しく対立したのは物部氏でしたが、政争に敗れてからは中央政治の舞台から姿を消すことになりました。
「武士」を意味する古語「もののふ」の語源は「物部(もののべ)」からきていると言われているように、古代の軍事を掌握していた氏族であったとされていますが、古語の「カミ」と「モノ」はほとんど同義と解されているように、中臣(なかとみ)氏、忌部(いんべ)氏、卜部(うらべ)氏、猿女(さるめ)氏同様、古代の朝廷祭祀に奉仕した神祇(じんぎ)氏族としての一面も持っていたようです。よって、独自の神道祭祀を伝え残しています。

「大化改新」が始まり、中臣(藤原)鎌足らによって蘇我氏が滅ぼされ、藤原氏が旺盛を極める時代となり、祭祀面では中臣氏(=藤原氏)が力を強めることになります。
国家の正史とされる『古事記』、『日本書紀』が編纂された当時は藤原氏が力を持っていたので、中臣氏こそが祭祀を司っていた氏族の中心であったかのように書かれています。
その事に対して反感を抱いていた古代祭祀氏族たちは、後に正史から漏れた古伝承や祭祀についての書を著します。忌部氏からは『古語拾遺(しゅうい)』が、物部氏からは『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ・略して「旧事紀(くじき)」とも言う)』が編纂されました。

これら氏族の埋没しそうになっていた古代祭祀は、幸運にも、後の1,025年に、宮中の祭祀を司り、天皇家の霊性を守ることを第一の目的として創設された白川神祇伯王家(しらかわじんぎはくおうけ)の“伯家(はっけ)神道”の中に流れ込むことになります。明治2年までの、823年間に渡り継承されました。

江戸時代の文献を見ると、これらの宮中で行われていた古代祭祀の一部が全国の多くの社家にも伝わっていたり、民間にも広まっていたりで、結構盛んに「古代祭祀の業(わざ)」が行われていたようです。さらに江戸期には、「国学」が興り、“儒家神道”や、“復古神道”も隆盛を極め、伊勢参宮も盛んになったり、黒住、天理、金光などの神憑りの教祖たちによって創唱された民衆宗教も盛んとなりました。

その後、「明治維新」となり、“王政復古”の大号令の元、“祭政一致”の原則が宣言され、神祇官が再興されたりと、明治政府による表向きのイデオロギー政策だけは立派???でしたが、吉田家・白川家の神職支配を廃止したり、神仏判然令が出されたり、神社の世襲廃止令が出されたりと、「“不信心な”猫の目行政」により、神社界は、信仰的には大打撃を受けることになりました。
明治17年には、創設されたばかりの教導職制度も全廃され、「神社は宗教にあらず」という行政的解釈により、“政府の対神社政策の基調”が定まったようです。

(この辺の経緯については、神社新報社が出している神社本庁研修所編『わかりやすい神道の歴史』に詳しく書かれていますので参考になります。)

明治期、吉田家・白川家の神職支配の廃絶以降も、全国の多くの神職の間には、江戸期までに伝わっていた古代祭祀の多くが残っていたようです。しかし、時代を経るに従い、少しずつ埋没し、形骸化が進んだようで、その多くは神道系の新宗教へと流れ込みます。

★結局のところ、私としましては、明治政府の神道政策によって散り散りにされてしまった古代祭祀の再評価、つまりは、「神道版ルネサンス(古代復興)」のような動きが強まっていくことを期待して止まないのです。今後の神社界はいつまでも、明治期に創られた官制の強い、非宗教的な神道を引きずる必要はないと考えるのです。


[63] ●神は人からの祭祀を受けて“威”を増す Name:道開き Date:2009/08/25(火) 17:35 
思わず畏敬の念をいだかされるような、全く手つかずの大自然の近寄りがたさといったものがあります。それでも、人に対しては、水資源などのさまざまな恩恵をもたらしてくれています。
それに対して、幾分かでも人からの関与を受けた自然、つまり、里山だとか、田園風景だとかいった、人と折り合いよく馴染んでいるような状態の自然も、また違った形で、人に対して様々な恩恵を与えてくれます。

“神観念”についても同じようなことが言えます。
神々は、人からの働きかけの有る無しに関わらず、常時、人に対して恩恵を与え続けてくれている存在ですが、人からの祭祀を受け、感謝の念が捧げられると、様々な形で手を差し伸べてくれるようになります。
それは、ダイヤモンドの原石が、人の手が加わることによって光り輝き出すようなものとも言えそうです。

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