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2002/06/06(Thu)
以下の順で書き込みを行っています。
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。
①産土さま(うぶすなさま)
②七福神
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)
④お稲荷さん(おいなりさん)
⑤八幡さま(はちまんさま)
⑥庚申さま(こうしんさま)
⑦山の神
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)
⑩天神さま(てんじんさま)
⑪火の神々
⑫白山神(はくさんさま)
⑬熊野権現(くまのごんげん)
⑭日吉神(ひえさま)
⑮賀茂神(かもさま)
⑯鹿島神(かしまさま)
⑰不動明王(おふどうさま)
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)
ここの時点では、⑮賀茂神(かもさま) までの打ち込みを終えています。
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①産土さま(うぶすなさま)
②七福神
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)
④お稲荷さん(おいなりさん)
⑤八幡さま(はちまんさま)
⑥庚申さま(こうしんさま)
⑦山の神
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)
⑩天神さま(てんじんさま)
⑪火の神々
⑫白山神(はくさんさま)
⑬熊野権現(くまのごんげん)
⑭日吉神(ひえさま)
⑮賀茂神(かもさま)
⑯鹿島神(かしまさま)
⑰不動明王(おふどうさま)
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)
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道開き at 2002/06/06(Thu) 10:10
⑮賀茂神(かもさま)
2002/06/06(Thu)
●二つの神社からなる賀茂大社
もと官幣大社(朝廷から直接お供え物が献ぜられた、最も高い旧社格)で、“山城国一の宮”の賀茂大社は二つの神社から成ります。
・賀茂別雷(わけいかづち)神社〔上賀茂社〕 賀茂別雷(わけいかづち)大神
・賀茂御祖(みおや)神社〔下鴨社〕 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)西殿
玉依媛命(たまよりひめのみこと)東殿
両社を総称して賀茂大社といい、皇室との関係からかっては「賀茂神宮」とか、「賀茂皇大神宮」とも呼ばれていました。
●御祭神に関わる『神話』
★賀茂建角身(かもたけつぬみのみこと)
- 八咫烏(やたがらす)化身して神武天皇をたすける -
この神は、人皇(じんのう)初代・神武(じんむ)天皇(神倭伊波礼比古命〈かんやまといわれひこ〉命)の東征(とうせい)に功のあった八咫烏として有名で あり、父母の名前は明らかではないが、造化三神(ぞうかさんじん)の一柱・神産巣日神(かみむすびのかみ)の孫とされている。
日向(ひむか)の 地を後にし、東征の途についた神武天皇一行は海路、難波(なにわ、大阪)を経て蓼津(たでつ)に上陸し、大和に入ろうとしたところ、饒速日命(にぎはやひ のみこと)を奉じた土地の土地の豪族・長髄彦(ながすねひこ)に阻まれた。一軍を指揮していた伊波礼比古の兄・五瀬命(いつせのみこと)も戦傷する有り様 であった。
この敗戦の原因を深く反省した五瀬命は、「日の神の子孫である我々は、日に向かって戦った為に利あらず、今より道をかえ、日を背負って戦うべし」との策を立てて、一行は熊野沖に向かったのであったが、その途中で、五瀬命は亡くなった。
辛苦の末、熊野についた伊波礼比古一行は、土地の悪神どもの差し向けた大熊の毒気に当たって危ういところを、天照大御神と高皇産霊神(たかみむすびのか み)が武神・建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)に命じ、高倉下(たかくらじ)という者を仲介にして届けさせた太刀の霊力によって、その難から逃れる ことができました。
そのうち、高皇産霊神は、雲の上から神倭伊波礼比古命に向かって、「天の御子よ、ここから奥へ決して行ってはいけません。こ の向こうには悪神たちがたくさんいます。今これから私が八咫烏(やたがらす)を差し下すので、その後についておいでなさい。」とお諭しになりました。そし て、八咫烏の導きのもと、行く先々で降ってくる悪神を従えたり、八十梟師(やそたける)などを討伐したりしながら一行は、ついに長髄彦と対決することと なったのでした。
長髄彦の激しい抵抗により、戦いはいつ果てるともなく続きました。その最中、一天にわかにかき曇り、激しい風雨となりまし た。そのとき、どこからともなく、金色の鵄(とび)が飛んできて、伊波礼比古命の弓の先に止まった。そして、その金色の鵄は稲妻のように光り輝いたので、 長髄彦の軍勢は眼がくらんで戦意を失ってしまい敗走することとなりました。
やがて、同じく天の御子で、伊波礼比古命より先にこの地に来ていた饒速日命(にぎはやひのみこと)が長髄彦に降伏することを勧めたが、従わなかった為に長髄彦を討ち、その軍勢を率いて伊波礼比古命に降った。
そして、大和の橿原宮(かしはらのみや)で、伊波礼比古命は神武(じんむ)天皇として初代天皇の位に就かれたのでした。
※八咫烏(やたがらす)
太陽の中に住んでいるといわれる三本足の赤い鳥。熊野神社で発行している“牛王宝印(ぎゅうおうほういん)”というお札に、模様化された鳥の絵が描かれているが、それが八咫烏(やたがらす)である。
★建玉依媛命(たけたまよりひめのみこと)
- 処女懐胎伝説 -
大和平定の後、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)はこの大和の地に定住する。ここで伊賀古夜比売(いがこやひめ)をめとり、建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依媛命(たけたまよりひめのみこと)の二子をもうける。
息子の建玉依比古命の一族は、代々の賀茂県主(かものあがたぬし〈大和朝廷時代の県の統治者のこと〉)
賀 茂のあたりの小川のほとりを散歩していた建玉依媛命は、美しい丹塗り(にぬり)の矢が流れてくるのを見つけ、まことに美しい矢であったので、拾い持ち帰っ て自分の床の近くにさし、朝に夕にながめていました。すると、不思議なことに、建玉依媛命はまもなく妊娠し、男子が生まれました。この御子神が賀茂別雷命 (かもわけいかづちのみこと)です。
丹塗りの矢は、日吉大社や松尾大社の伝承では、大山咋神(おおやまぐいのかみ)であるとされ、『山城国風土記(やましろのくにふどき)』逸文によれば「乙訓郡(おとくにのこうり)の向(むこう)神社の火雷命(ほのいかづちのみこと)であったという。
★賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)
- 古代の山城・丹波地方を拓いた神さま -
その子が成人した時、祖父の賀茂建角身命は一族の神々を招いて、七日七夜の盛大な祝宴を催した。この時、賀茂建角身命は、この子に向かって、「父と思う者 がこの中にいるか、いたらその者にこの酒を注ぎなさい」というと、杯を捧げ持った御子は、天に向かって祈った。すると、この御子は猛然と屋根を突き破って 天に昇ってしまった。この出来事により、賀茂建角身命はこの御子に、自分の名にちなんで賀茂別雷命と命名した。
この賀茂別雷命は、古代の山城・丹波地方(現在の京都府)を開拓した業績の高い神であるため、またの名を分土神(わけつちのかみ)ともいう。
●葵(あおい)祭〈賀茂祭〉 - ミアレ神事(しんじ) -
『賀茂縁起(えんぎ)』によると、昇天した賀茂別雷命を慕い悲しんだ母神に対して、御子神より夢の知らせがあり、「もし自分に会いたいと思うならば、天羽 衣(あめのはごろも)、天羽装(あめのはしょう)をつくり、火を焚き、鉾(ほこ)をつなぎ、走馬を飾り、奥山の榊(さかき)を取って阿礼(あれ)を立て、 いろいろに染めた帛(はく、薄い絹)を垂れよ、また葵楓(あおいかえで)を造り厳かに飾って持てばわれは必ずそこに来るであろう」と教えたという。
ここに、現在の“御生(ミアレ)神事”と賀茂祭における「走馬」や「葵楓(あおいかえで)」・「楓蘰(かえでかつら)」の由緒が述べられています。この賀 茂祭で一番大事な“御生(ミアレ)神事”であるが、上賀茂社の北西約一キロのところにある神山の山中に四間四方の榊で造った“神籬(ひもろぎ)”〈神霊の 降臨なされる依代(よりしろ)〉を立て、葵の蔓(つる)を挿した宮司以下神職が秘儀を行い、闇の中で「阿礼木(あれぎ)」という榊の枝をもった神人が立砂 (たてすな)〈円錐状の独特の盛り砂〉を三周した後、神遷し
を行うもの。
いわゆる葵祭で知られる賀茂祭は、この御阿礼(みあれ)神事か ら始まり、かつては石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の南祭(なんさい)に対し北祭(ほくさい)と称し、国祭として行われました。行装(ぎょうそ う)の美しく典雅であるため、これを街頭で見物する賑わいの特に著しかったことなどにより、王朝時代にはただ祭りというだけでこの賀茂祭を指したほどで す。
同じく下鴨社でも、比叡山麓に鎮座する御蔭(みかげ)神社から建玉依媛命の神霊を遷す同種の神事があります。
●賀茂氏 - 大和地方に強大な力を誇った古代氏族 -
現在、賀茂社は二社から成りますが、奈良時代の初期頃までは、賀茂社といえば上賀茂のみを指していたらしいのです。すなわち、大和から山城にかけての賀茂 氏の移動にともない、山城盆地が開拓されていき、農耕に水を供給してくれる水神として、農耕神として、雷神が祀られていたというのです。
その賀茂社も最初の鎮座地、葛城山(かつらぎさん)から少しずつ移動し、現在の上賀茂の地に鎮座したのでした。その祭祀者が、賀茂建角身命を遠祖にもつ「賀茂建主(かもあがたぬし)」を長と仰いだ賀茂氏でした。
やがて、文武天皇の時代(697-707)に、賀茂社(上賀茂)の遙拝所(ようはいじょ)が、下社として独立し、下賀茂社が創建されたといわれます。
※修験道開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)
修験道の開祖として有名な“役行者”こと役小角(えんのおづぬ)の出自の役氏(えんし)は、正式には「賀茂の役(えだち)の氏」といい、賀茂氏発祥の地ともいうべき葛城山周辺で、神事部門で宗家の賀茂氏に仕えた分家の氏の家柄だったといいます。
●王城の鎮護神
賀茂の上・下社は、平安遷都以前から山城の国の鎮守神として、その神威を示し、平安遷都(794)後は、“王城の鎮護神”として朝廷の篤い崇敬を受けました。
その社格は高く、「二十二社の制」では石清水八幡宮に次ぐ「上七社」の第二位に甘んじたが、それ以外では官社、諸社の筆頭として伊勢神宮に準ずる扱いを受けました。すなわち、天皇の皇女が斎王として奉仕したり、二十一年ごとの遷宮などが行われて来たわけです。
神武天皇ゆかりの神社ということもあり、「賀茂神宮」、「賀茂皇大(こうたい)神宮」などと呼ばれたりもしました。
●烏伝神道(うでんしんとう、からすづたえしんとう)
賀茂規清(梅辻規清〈うめつじのりきよ〉)〈1798~1861〉。上賀茂社の社家の出身。十二ヶ年に渡って、三十三カ国の深山幽谷を遍歴修行の後、曾祖 父の岡本清茂が再興した、遠祖・賀茂建角身命(八咫烏)に由来する“賀茂神道”を基盤に、独自の神秘的神道説を加味した“烏伝神道”を創始した。
江戸の池之端(いけのはた)に居を構えて瑞烏園(ずいうえん)と号した。天文・暦学・建築学にも通じ、水戸学の大家・藤田東湖をして当代一流の学者と、高い評価をせしめたが、江戸幕府からは弾圧を受ける。
もと官幣大社(朝廷から直接お供え物が献ぜられた、最も高い旧社格)で、“山城国一の宮”の賀茂大社は二つの神社から成ります。
・賀茂別雷(わけいかづち)神社〔上賀茂社〕 賀茂別雷(わけいかづち)大神
・賀茂御祖(みおや)神社〔下鴨社〕 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)西殿
玉依媛命(たまよりひめのみこと)東殿
両社を総称して賀茂大社といい、皇室との関係からかっては「賀茂神宮」とか、「賀茂皇大神宮」とも呼ばれていました。
●御祭神に関わる『神話』
★賀茂建角身(かもたけつぬみのみこと)
- 八咫烏(やたがらす)化身して神武天皇をたすける -
この神は、人皇(じんのう)初代・神武(じんむ)天皇(神倭伊波礼比古命〈かんやまといわれひこ〉命)の東征(とうせい)に功のあった八咫烏として有名で あり、父母の名前は明らかではないが、造化三神(ぞうかさんじん)の一柱・神産巣日神(かみむすびのかみ)の孫とされている。
日向(ひむか)の 地を後にし、東征の途についた神武天皇一行は海路、難波(なにわ、大阪)を経て蓼津(たでつ)に上陸し、大和に入ろうとしたところ、饒速日命(にぎはやひ のみこと)を奉じた土地の土地の豪族・長髄彦(ながすねひこ)に阻まれた。一軍を指揮していた伊波礼比古の兄・五瀬命(いつせのみこと)も戦傷する有り様 であった。
この敗戦の原因を深く反省した五瀬命は、「日の神の子孫である我々は、日に向かって戦った為に利あらず、今より道をかえ、日を背負って戦うべし」との策を立てて、一行は熊野沖に向かったのであったが、その途中で、五瀬命は亡くなった。
辛苦の末、熊野についた伊波礼比古一行は、土地の悪神どもの差し向けた大熊の毒気に当たって危ういところを、天照大御神と高皇産霊神(たかみむすびのか み)が武神・建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)に命じ、高倉下(たかくらじ)という者を仲介にして届けさせた太刀の霊力によって、その難から逃れる ことができました。
そのうち、高皇産霊神は、雲の上から神倭伊波礼比古命に向かって、「天の御子よ、ここから奥へ決して行ってはいけません。こ の向こうには悪神たちがたくさんいます。今これから私が八咫烏(やたがらす)を差し下すので、その後についておいでなさい。」とお諭しになりました。そし て、八咫烏の導きのもと、行く先々で降ってくる悪神を従えたり、八十梟師(やそたける)などを討伐したりしながら一行は、ついに長髄彦と対決することと なったのでした。
長髄彦の激しい抵抗により、戦いはいつ果てるともなく続きました。その最中、一天にわかにかき曇り、激しい風雨となりまし た。そのとき、どこからともなく、金色の鵄(とび)が飛んできて、伊波礼比古命の弓の先に止まった。そして、その金色の鵄は稲妻のように光り輝いたので、 長髄彦の軍勢は眼がくらんで戦意を失ってしまい敗走することとなりました。
やがて、同じく天の御子で、伊波礼比古命より先にこの地に来ていた饒速日命(にぎはやひのみこと)が長髄彦に降伏することを勧めたが、従わなかった為に長髄彦を討ち、その軍勢を率いて伊波礼比古命に降った。
そして、大和の橿原宮(かしはらのみや)で、伊波礼比古命は神武(じんむ)天皇として初代天皇の位に就かれたのでした。
※八咫烏(やたがらす)
太陽の中に住んでいるといわれる三本足の赤い鳥。熊野神社で発行している“牛王宝印(ぎゅうおうほういん)”というお札に、模様化された鳥の絵が描かれているが、それが八咫烏(やたがらす)である。
★建玉依媛命(たけたまよりひめのみこと)
- 処女懐胎伝説 -
大和平定の後、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)はこの大和の地に定住する。ここで伊賀古夜比売(いがこやひめ)をめとり、建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依媛命(たけたまよりひめのみこと)の二子をもうける。
息子の建玉依比古命の一族は、代々の賀茂県主(かものあがたぬし〈大和朝廷時代の県の統治者のこと〉)
賀 茂のあたりの小川のほとりを散歩していた建玉依媛命は、美しい丹塗り(にぬり)の矢が流れてくるのを見つけ、まことに美しい矢であったので、拾い持ち帰っ て自分の床の近くにさし、朝に夕にながめていました。すると、不思議なことに、建玉依媛命はまもなく妊娠し、男子が生まれました。この御子神が賀茂別雷命 (かもわけいかづちのみこと)です。
丹塗りの矢は、日吉大社や松尾大社の伝承では、大山咋神(おおやまぐいのかみ)であるとされ、『山城国風土記(やましろのくにふどき)』逸文によれば「乙訓郡(おとくにのこうり)の向(むこう)神社の火雷命(ほのいかづちのみこと)であったという。
★賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)
- 古代の山城・丹波地方を拓いた神さま -
その子が成人した時、祖父の賀茂建角身命は一族の神々を招いて、七日七夜の盛大な祝宴を催した。この時、賀茂建角身命は、この子に向かって、「父と思う者 がこの中にいるか、いたらその者にこの酒を注ぎなさい」というと、杯を捧げ持った御子は、天に向かって祈った。すると、この御子は猛然と屋根を突き破って 天に昇ってしまった。この出来事により、賀茂建角身命はこの御子に、自分の名にちなんで賀茂別雷命と命名した。
この賀茂別雷命は、古代の山城・丹波地方(現在の京都府)を開拓した業績の高い神であるため、またの名を分土神(わけつちのかみ)ともいう。
●葵(あおい)祭〈賀茂祭〉 - ミアレ神事(しんじ) -
『賀茂縁起(えんぎ)』によると、昇天した賀茂別雷命を慕い悲しんだ母神に対して、御子神より夢の知らせがあり、「もし自分に会いたいと思うならば、天羽 衣(あめのはごろも)、天羽装(あめのはしょう)をつくり、火を焚き、鉾(ほこ)をつなぎ、走馬を飾り、奥山の榊(さかき)を取って阿礼(あれ)を立て、 いろいろに染めた帛(はく、薄い絹)を垂れよ、また葵楓(あおいかえで)を造り厳かに飾って持てばわれは必ずそこに来るであろう」と教えたという。
ここに、現在の“御生(ミアレ)神事”と賀茂祭における「走馬」や「葵楓(あおいかえで)」・「楓蘰(かえでかつら)」の由緒が述べられています。この賀 茂祭で一番大事な“御生(ミアレ)神事”であるが、上賀茂社の北西約一キロのところにある神山の山中に四間四方の榊で造った“神籬(ひもろぎ)”〈神霊の 降臨なされる依代(よりしろ)〉を立て、葵の蔓(つる)を挿した宮司以下神職が秘儀を行い、闇の中で「阿礼木(あれぎ)」という榊の枝をもった神人が立砂 (たてすな)〈円錐状の独特の盛り砂〉を三周した後、神遷し
を行うもの。
いわゆる葵祭で知られる賀茂祭は、この御阿礼(みあれ)神事か ら始まり、かつては石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の南祭(なんさい)に対し北祭(ほくさい)と称し、国祭として行われました。行装(ぎょうそ う)の美しく典雅であるため、これを街頭で見物する賑わいの特に著しかったことなどにより、王朝時代にはただ祭りというだけでこの賀茂祭を指したほどで す。
同じく下鴨社でも、比叡山麓に鎮座する御蔭(みかげ)神社から建玉依媛命の神霊を遷す同種の神事があります。
●賀茂氏 - 大和地方に強大な力を誇った古代氏族 -
現在、賀茂社は二社から成りますが、奈良時代の初期頃までは、賀茂社といえば上賀茂のみを指していたらしいのです。すなわち、大和から山城にかけての賀茂 氏の移動にともない、山城盆地が開拓されていき、農耕に水を供給してくれる水神として、農耕神として、雷神が祀られていたというのです。
その賀茂社も最初の鎮座地、葛城山(かつらぎさん)から少しずつ移動し、現在の上賀茂の地に鎮座したのでした。その祭祀者が、賀茂建角身命を遠祖にもつ「賀茂建主(かもあがたぬし)」を長と仰いだ賀茂氏でした。
やがて、文武天皇の時代(697-707)に、賀茂社(上賀茂)の遙拝所(ようはいじょ)が、下社として独立し、下賀茂社が創建されたといわれます。
※修験道開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)
修験道の開祖として有名な“役行者”こと役小角(えんのおづぬ)の出自の役氏(えんし)は、正式には「賀茂の役(えだち)の氏」といい、賀茂氏発祥の地ともいうべき葛城山周辺で、神事部門で宗家の賀茂氏に仕えた分家の氏の家柄だったといいます。
●王城の鎮護神
賀茂の上・下社は、平安遷都以前から山城の国の鎮守神として、その神威を示し、平安遷都(794)後は、“王城の鎮護神”として朝廷の篤い崇敬を受けました。
その社格は高く、「二十二社の制」では石清水八幡宮に次ぐ「上七社」の第二位に甘んじたが、それ以外では官社、諸社の筆頭として伊勢神宮に準ずる扱いを受けました。すなわち、天皇の皇女が斎王として奉仕したり、二十一年ごとの遷宮などが行われて来たわけです。
神武天皇ゆかりの神社ということもあり、「賀茂神宮」、「賀茂皇大(こうたい)神宮」などと呼ばれたりもしました。
●烏伝神道(うでんしんとう、からすづたえしんとう)
賀茂規清(梅辻規清〈うめつじのりきよ〉)〈1798~1861〉。上賀茂社の社家の出身。十二ヶ年に渡って、三十三カ国の深山幽谷を遍歴修行の後、曾祖 父の岡本清茂が再興した、遠祖・賀茂建角身命(八咫烏)に由来する“賀茂神道”を基盤に、独自の神秘的神道説を加味した“烏伝神道”を創始した。
江戸の池之端(いけのはた)に居を構えて瑞烏園(ずいうえん)と号した。天文・暦学・建築学にも通じ、水戸学の大家・藤田東湖をして当代一流の学者と、高い評価をせしめたが、江戸幕府からは弾圧を受ける。
道開き at 2002/06/06(Thu) 10:10
⑭日吉神(ひえさま、ひよしさま)
2002/06/06(Thu)
●日吉(ひよし)大社
もと官幣(かんぺい)大社(朝廷から直接お供え物が献ぜられた、最も高い旧社格)で、“近江(おうみ)国一の宮”の日吉大社は全国三千八百余の「日吉(日枝、〈ひよし、ひえ〉)・
山王(さんのう)系の神社の総本社」と仰がれています。
比叡(ひえい)山麓に鎮座し、平安遷都後、その山上に延暦寺(えんりゃくじ)が開かれると、“天台宗の守護神”としての性格が強まりました。しかし、もともとは『古事記』にも記載される神代起源の古社なのです。
御祭神は、
・大山咋神(おおやまぐいのかみ) 東本宮
又の名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)という。
・大己貴神(おおなむちのかみ) 西本宮
出雲大社の大国主神、奈良の大神神社の大物主神とは同神
その創祀は古く、『古事記』によれば、大年(おおとしの)神の御子(みこ)神の系譜の中に、
「次に大山咋神、亦(また)の名は山末之大主神。此の神は近淡海国(近江国)の日枝山(比叡山)に坐す。亦葛野(かづぬ)の松尾(松尾大社)に坐す鳴鏑(なりかぶら)に成りませる神なり」
とあります。つまり、この大山咋神は、もともと「日枝山の山末(山麓)の牛尾山(八王子山)に妃(きさき)神・建玉依媛神(たけたまよりひめのかみ)と共に鎮座していた神」であり、「葛野の松尾(まつのお)大社でお祀りしている神」であるというのです。
そして、日枝山の山末の八王子山に鎮座する八王子社が「日吉大社の奥宮(元からあったお宮)」であり、全国の八王子社も「日吉・山王系の神社」ということになります。
又、『古事記』のこの記述から、京都の嵐山に鎮座する松尾大社は、本来は日枝山の山神の分祠(ぶんし)だったらしいと言うことがわかります。この松尾大社は帰化氏族・秦(はた)氏の氏神でした。日吉大社と同様の「処女懐胎(しょじょかいたい)伝説」が伝わっています。
京都の賀茂(かも)大社を氏神と仰ぐ古代氏族・賀茂氏と秦氏とは、その出自は違っていますが、両氏はきわめて密接な関係にあったようです。つまり、「日 吉、賀茂、松尾の各大社は、比叡山系の山々を水源とする分水嶺(ぶんすいれい)からの水の恵みを通して、神々の恵みを感受し、崇拝されてきた“水分(みく まり)信仰”と、同様に、天より雨水を供給してくれる鳴神(なるかみ〈雷神〉)を崇拝してきた“雷神信仰”に発した神社と言えるからです。
●大山咋神
ヤマタノオロチ退治でも有名な英雄神・須佐之男命(すさのおのみこと)の子神・大年神(おおとしのかみ)は年月の神であると同時に、国土開発に尽力した神としても知られています。その大年の神の子、大山咋神もやはり“国土建設の神”として有名です。
古伝によれば、「太古の丹波国は湖水であったが、大山咋神がその湖水を切り拓き、国土とした。鋤(すき)をもって神体とし、祠(ほこら)を建てて祀ったのが丹波国(たんば)
の浮田(うきた)明神である」という。
その妃(きさき)神は建玉依比売命(たけたまよりひめのみこと)といい、京都の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨社)の御祭神です。〈同じく下鴨社の御祭神 で、神武東征(じんむとうせい)の際に八咫烏(やたがらす)に化身して活躍した神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の娘にあたります。〉
御子神は賀茂別雷命(かもわけいかづち)といい、賀茂別雷(わけいかづち)神社(上鴨社)の御祭神として祀られています。
★神話
大山咋神が山に鳥獣を求めて狩りに行ったとき、獲物に向かって放った矢が瀬見の小川に落ちてしまった。矢は川下に流され、おりから賀茂のあたりの小川のほ とりを散歩していた建玉依媛命は、美しい丹塗り(にぬり)の矢が流れてくるのを見つけ、まことに美しい矢であったので、拾い持ち帰って自分の床の近くにさ し、朝に夕にながめていました。すると、不思議なことに、建玉依媛命はまもなく妊娠し、男子が生まれました。この御子神が賀茂別雷命です。
●大己貴神
天智六年(六六七)、天智天皇が近江の国(滋賀県)の大津宮(おおつのみや)に遷都した翌年、比叡の山に、大和朝廷の守護神だった“大和国一の宮”の大三輪神社(おおみわじんじゃ、大神神社)の御分霊を勧請(かんじょう)し、「大津京の守護神」とした。
この大神神社の御祭神は大物主神だが、古来、大物主神=大国主神=大己貴神とされており、日吉では西本宮の御祭神として大己貴神を祀ったのでした。
ところが、当時は、比叡山の地神である大山咋神を祀った東本宮よりも、勧請神で大和朝廷の守護神であった大己貴神の西本宮の方が上位に考えられ、大山咋神の東本宮は摂社(せっしゃ、神社の主祭神と縁故のる神さまを祀った社)とみられました。
その反動からか、明治四年、官幣大社に列せられたときには、『古事記』の記載により大山咋神が主祭神とされ、今度は大己貴神の西本宮が大神神社と改称され て、逆に摂社とされました。しかし、昭和三年には、二神をまったく同格の二座の主祭神に復して、現在の日吉大社となったのでした。
●山王権現(日吉権現) -延暦寺との関係-
六世紀頃より、日本に仏教が伝来するに従って、神道は仏教と分かちがたく結びつくことになりました。国家鎮護の目的で仏教が採用されることにより、“神仏 習合“が進み、仏教側から日本の神は仏が仮に姿を現したものであるとする「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が唱えられるようになったからです。
そうした状況のもと、天台宗の開祖・最澄(さいちょう)が比叡山に延暦寺を創建するにあたり、山麓に祀られていた“日吉大神”こと大山咋神、そして大己貴 神を“日吉山王(ひえさんのう)”として祀ったとされます。が、実際には、その弟子の円珍上人(えんちんしょうにん)のときから、日吉社の神を“天台宗の 護法(ごほう)神”として祀ったという説もあります。
★山王信仰のル-ツ
日本の天台宗の本家筋に当たる中国の天台山国清(こくせい)寺には山王祠(さんのうし)が祀られていました。その山王祠にちなんで、日吉神を祀る社を“山王社”というようになったと言われています。
インドには、釈迦が最高の教えである「法華経」を説いたという“霊鷲山(りょうじゅせん)山王説”があり、天台宗の根本教典である法華経を広めるところには必ず山王が現れて、それを守護するという信仰です。ちなみに山王とは“山の主(ぬし)”を意味します。
また、鎌倉時代の伝承に、「最澄が比叡山で修行中のある夜、突如、三つの光臨(こうりん)が現れた。それは釈迦如来(しゃかにょらい)、薬師如来(やくし にょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)だったという。その三尊は天台宗の守護と人々の救済ために飛来したといい、そこで最澄は、釈迦如来を大比叡神 (おおひえのかみ、西本宮)、薬師如来を小比叡神(おびえのかみ、東本宮)、阿弥陀如来を宇佐宮(うさのみや、聖真子権現〈しょうしんじごんげん〉)の本 体に定めた」とされています。
権現とは、「仏が仮初めに神の姿をとって現れたことをいう仏教用語」ですが、平安時代に入ると、延暦寺の勢力拡大とともに“山王権現”の崇敬も広まりました。ですから、各地に天台寺院が建立されると、その鎮守神として山王権現が必ずといっていい程に勧請されました。
★伝教大師・最澄
弘法大師・空海と双璧をなす日本仏教界史上の大天才です。近江国に帰化人系の有力な農民の子として生まれました。奈良仏教の腐敗のなかで、東大寺の奥深く に蔵された、かって鑑真(がんじん)和尚が唐からもたらした天大仏教の経典にめぐりあい、比叡山に籠もった。やがて桓武天皇の親任をうけるようになり、延 暦寺を開山する。
すべての人間には平等に仏性があり、善行を積めば、いくたびか生まれ変わるうちには、必ず成仏できると説く。それどころか、はるか人間を越えたあらゆる生きと生きるもの、さらにはこの世界に存在するすべてのものが、仏になれると説きます。
「山河草木悉皆成仏(さんせんそうもくしつかいじょうぶつ)」
これは、私たち日本人がはるかな古代から、大自然より感じとってきた「人間も動植物も、山や川さえも、すべて神性を帯びている」という古神道的自然観、生 命観を、日本仏教の中心思想に鍛え上げたものでした。つまり、仏という文字を神に置き換えればそのまま神道的なものになります。だからこそ神仏習合が容易 におこなわれることができたのでしょう。
●山王神道
それまでの天台宗式の神道が、“山王神道”として確立されたのは、元寇(げんこう)によって神国日本の思潮が最高点に達した鎌倉時代のことでした。そのような中で書き著された『耀天記(ようてんき)』には、山王神道の由緒が記され、
「山王は日本無双の霊社、天下一の明神。諸神の中には根本、万社の間には起因なり」
とあり、山王社が日本最高の神社とまで説いています。
「山王神道の中心は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の考え方に基づき、“日吉神”の信仰と天台密教の教義が結合されたところにあります。」
その後、“吉田神道”や“伊勢神道”の影響を受け、「日吉神と天照大御神が同一神であると見られるようにもなり」ました。その一方で、「天台宗の念仏の守 護神である“摩多羅神(またらじん)”とも結びつきました。摩多羅神とは、円珍上人(えんちんしょうにん)が唐から帰日する際、上人に向かって空中から呼 びかけた神と言われています。
★“山王”の文字の神秘的解釈
山王神道で興味をそそられるのは、“山王”という文字を秘教的に解 釈する点です。「山王」という字は「山」にしても「王」にしても皆、三本と一本の線から出来ています。つまり「山」は縦が三本で横が一本、「王」は横が三 本で縦が一本である。天台の観想(かんそう、心の動揺を止め、物事の真理について深く観ること)の方法として「三諦一実(さんていいちじつ)」という教え があり、その「三諦一実」を「山王」という字が文字通りに表しているというのです。
さらに、この「三諦一実」は、生死や煩悩(ぼんのう)の域を脱して悟りの境地に達するという「一心三観(いっしんさんかん)の悟り」、あるいは人の日常の心がそのまま全宇宙であるという「一念三千(いちねんさんぜん)」をも象徴していると説く。
やがて鎌倉時代に入り、吉田神道が勢力を拡張するにつれてこれら密教系神道を激しく攻撃したにも関わらず、比叡山延暦寺が確固たる基盤を持っていたため、 その支配下にあった山王神道もまたそうとうな力を有していたようです。比叡山の僧兵が日吉山王社の神輿をかついで京都に乱入し、強訴するといつた事件はあ まりにも有名です。
●山王一実神道
織田信長の比叡山焼き討ちで、日吉山王社も焼失しましたが、山王神道は絶えることなく、社殿は豊臣秀吉、徳川家康らによって再興されます。
特に江戸時代の初頭、その教説は、徳川家康の腹心でもあり、上野の寛永寺を創始した天台宗の天海僧正によって大きく復興されました。山王一実神道の「山王 一実」という名称も、天海僧正が「山王」に、天台宗の「円頓一実戒(えんとんいちじつかい)」や法華経の「一実乗(いちじつじょう)」からの「一実」を合 体させて作った造語とされています。
天海は「日吉神と天照大御神と大日如来(だいにちにょらい)は一体であり、神仏の元は天照大御神である」と説き、江戸幕府の力を背景にして山王一実神道を大いに宣揚しました。
徳川家康の死去にともない、家康本人の意もあって、幕府公認の神道家元たる「吉田神道」によって、家康に“明神(みょうじん)”号を贈ることとして、一端 は駿府の久能山に神葬した。そのことについて天海は、豊臣秀吉がやはり同じ明神号だったにも関わらず、結局は自らの神威を発揮できなかったことをあげ、明 神号は不吉だとして、“権現(ごんげん)”の神号に決定させ、結局、山王一実神道の様式で祭祀を執り行い、日光東照宮社殿中央にその御霊(ミタマ)を「東 照大権現(とうしょうだいごんげん)」として祀り、左には「天台宗の念仏の守護神・摩多羅神(またらじん)」、右には「日吉山王神」を祀った。
山王一実神道はその後も、延暦寺を中心とする天台系の寺院勢力を背景に根強く存続しましたが、明治維新の際の神仏分離令によって強制的に廃絶されました。 但し、第二次世界大戦後は、神仏習合時代の信仰形態も一部復活し、現在の“日吉山王祭”では古式通り、比叡山延暦寺の僧による読経と奉幣(ほうへい)も行 われるようになりました。
もと官幣(かんぺい)大社(朝廷から直接お供え物が献ぜられた、最も高い旧社格)で、“近江(おうみ)国一の宮”の日吉大社は全国三千八百余の「日吉(日枝、〈ひよし、ひえ〉)・
山王(さんのう)系の神社の総本社」と仰がれています。
比叡(ひえい)山麓に鎮座し、平安遷都後、その山上に延暦寺(えんりゃくじ)が開かれると、“天台宗の守護神”としての性格が強まりました。しかし、もともとは『古事記』にも記載される神代起源の古社なのです。
御祭神は、
・大山咋神(おおやまぐいのかみ) 東本宮
又の名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)という。
・大己貴神(おおなむちのかみ) 西本宮
出雲大社の大国主神、奈良の大神神社の大物主神とは同神
その創祀は古く、『古事記』によれば、大年(おおとしの)神の御子(みこ)神の系譜の中に、
「次に大山咋神、亦(また)の名は山末之大主神。此の神は近淡海国(近江国)の日枝山(比叡山)に坐す。亦葛野(かづぬ)の松尾(松尾大社)に坐す鳴鏑(なりかぶら)に成りませる神なり」
とあります。つまり、この大山咋神は、もともと「日枝山の山末(山麓)の牛尾山(八王子山)に妃(きさき)神・建玉依媛神(たけたまよりひめのかみ)と共に鎮座していた神」であり、「葛野の松尾(まつのお)大社でお祀りしている神」であるというのです。
そして、日枝山の山末の八王子山に鎮座する八王子社が「日吉大社の奥宮(元からあったお宮)」であり、全国の八王子社も「日吉・山王系の神社」ということになります。
又、『古事記』のこの記述から、京都の嵐山に鎮座する松尾大社は、本来は日枝山の山神の分祠(ぶんし)だったらしいと言うことがわかります。この松尾大社は帰化氏族・秦(はた)氏の氏神でした。日吉大社と同様の「処女懐胎(しょじょかいたい)伝説」が伝わっています。
京都の賀茂(かも)大社を氏神と仰ぐ古代氏族・賀茂氏と秦氏とは、その出自は違っていますが、両氏はきわめて密接な関係にあったようです。つまり、「日 吉、賀茂、松尾の各大社は、比叡山系の山々を水源とする分水嶺(ぶんすいれい)からの水の恵みを通して、神々の恵みを感受し、崇拝されてきた“水分(みく まり)信仰”と、同様に、天より雨水を供給してくれる鳴神(なるかみ〈雷神〉)を崇拝してきた“雷神信仰”に発した神社と言えるからです。
●大山咋神
ヤマタノオロチ退治でも有名な英雄神・須佐之男命(すさのおのみこと)の子神・大年神(おおとしのかみ)は年月の神であると同時に、国土開発に尽力した神としても知られています。その大年の神の子、大山咋神もやはり“国土建設の神”として有名です。
古伝によれば、「太古の丹波国は湖水であったが、大山咋神がその湖水を切り拓き、国土とした。鋤(すき)をもって神体とし、祠(ほこら)を建てて祀ったのが丹波国(たんば)
の浮田(うきた)明神である」という。
その妃(きさき)神は建玉依比売命(たけたまよりひめのみこと)といい、京都の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨社)の御祭神です。〈同じく下鴨社の御祭神 で、神武東征(じんむとうせい)の際に八咫烏(やたがらす)に化身して活躍した神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の娘にあたります。〉
御子神は賀茂別雷命(かもわけいかづち)といい、賀茂別雷(わけいかづち)神社(上鴨社)の御祭神として祀られています。
★神話
大山咋神が山に鳥獣を求めて狩りに行ったとき、獲物に向かって放った矢が瀬見の小川に落ちてしまった。矢は川下に流され、おりから賀茂のあたりの小川のほ とりを散歩していた建玉依媛命は、美しい丹塗り(にぬり)の矢が流れてくるのを見つけ、まことに美しい矢であったので、拾い持ち帰って自分の床の近くにさ し、朝に夕にながめていました。すると、不思議なことに、建玉依媛命はまもなく妊娠し、男子が生まれました。この御子神が賀茂別雷命です。
●大己貴神
天智六年(六六七)、天智天皇が近江の国(滋賀県)の大津宮(おおつのみや)に遷都した翌年、比叡の山に、大和朝廷の守護神だった“大和国一の宮”の大三輪神社(おおみわじんじゃ、大神神社)の御分霊を勧請(かんじょう)し、「大津京の守護神」とした。
この大神神社の御祭神は大物主神だが、古来、大物主神=大国主神=大己貴神とされており、日吉では西本宮の御祭神として大己貴神を祀ったのでした。
ところが、当時は、比叡山の地神である大山咋神を祀った東本宮よりも、勧請神で大和朝廷の守護神であった大己貴神の西本宮の方が上位に考えられ、大山咋神の東本宮は摂社(せっしゃ、神社の主祭神と縁故のる神さまを祀った社)とみられました。
その反動からか、明治四年、官幣大社に列せられたときには、『古事記』の記載により大山咋神が主祭神とされ、今度は大己貴神の西本宮が大神神社と改称され て、逆に摂社とされました。しかし、昭和三年には、二神をまったく同格の二座の主祭神に復して、現在の日吉大社となったのでした。
●山王権現(日吉権現) -延暦寺との関係-
六世紀頃より、日本に仏教が伝来するに従って、神道は仏教と分かちがたく結びつくことになりました。国家鎮護の目的で仏教が採用されることにより、“神仏 習合“が進み、仏教側から日本の神は仏が仮に姿を現したものであるとする「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が唱えられるようになったからです。
そうした状況のもと、天台宗の開祖・最澄(さいちょう)が比叡山に延暦寺を創建するにあたり、山麓に祀られていた“日吉大神”こと大山咋神、そして大己貴 神を“日吉山王(ひえさんのう)”として祀ったとされます。が、実際には、その弟子の円珍上人(えんちんしょうにん)のときから、日吉社の神を“天台宗の 護法(ごほう)神”として祀ったという説もあります。
★山王信仰のル-ツ
日本の天台宗の本家筋に当たる中国の天台山国清(こくせい)寺には山王祠(さんのうし)が祀られていました。その山王祠にちなんで、日吉神を祀る社を“山王社”というようになったと言われています。
インドには、釈迦が最高の教えである「法華経」を説いたという“霊鷲山(りょうじゅせん)山王説”があり、天台宗の根本教典である法華経を広めるところには必ず山王が現れて、それを守護するという信仰です。ちなみに山王とは“山の主(ぬし)”を意味します。
また、鎌倉時代の伝承に、「最澄が比叡山で修行中のある夜、突如、三つの光臨(こうりん)が現れた。それは釈迦如来(しゃかにょらい)、薬師如来(やくし にょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)だったという。その三尊は天台宗の守護と人々の救済ために飛来したといい、そこで最澄は、釈迦如来を大比叡神 (おおひえのかみ、西本宮)、薬師如来を小比叡神(おびえのかみ、東本宮)、阿弥陀如来を宇佐宮(うさのみや、聖真子権現〈しょうしんじごんげん〉)の本 体に定めた」とされています。
権現とは、「仏が仮初めに神の姿をとって現れたことをいう仏教用語」ですが、平安時代に入ると、延暦寺の勢力拡大とともに“山王権現”の崇敬も広まりました。ですから、各地に天台寺院が建立されると、その鎮守神として山王権現が必ずといっていい程に勧請されました。
★伝教大師・最澄
弘法大師・空海と双璧をなす日本仏教界史上の大天才です。近江国に帰化人系の有力な農民の子として生まれました。奈良仏教の腐敗のなかで、東大寺の奥深く に蔵された、かって鑑真(がんじん)和尚が唐からもたらした天大仏教の経典にめぐりあい、比叡山に籠もった。やがて桓武天皇の親任をうけるようになり、延 暦寺を開山する。
すべての人間には平等に仏性があり、善行を積めば、いくたびか生まれ変わるうちには、必ず成仏できると説く。それどころか、はるか人間を越えたあらゆる生きと生きるもの、さらにはこの世界に存在するすべてのものが、仏になれると説きます。
「山河草木悉皆成仏(さんせんそうもくしつかいじょうぶつ)」
これは、私たち日本人がはるかな古代から、大自然より感じとってきた「人間も動植物も、山や川さえも、すべて神性を帯びている」という古神道的自然観、生 命観を、日本仏教の中心思想に鍛え上げたものでした。つまり、仏という文字を神に置き換えればそのまま神道的なものになります。だからこそ神仏習合が容易 におこなわれることができたのでしょう。
●山王神道
それまでの天台宗式の神道が、“山王神道”として確立されたのは、元寇(げんこう)によって神国日本の思潮が最高点に達した鎌倉時代のことでした。そのような中で書き著された『耀天記(ようてんき)』には、山王神道の由緒が記され、
「山王は日本無双の霊社、天下一の明神。諸神の中には根本、万社の間には起因なり」
とあり、山王社が日本最高の神社とまで説いています。
「山王神道の中心は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の考え方に基づき、“日吉神”の信仰と天台密教の教義が結合されたところにあります。」
その後、“吉田神道”や“伊勢神道”の影響を受け、「日吉神と天照大御神が同一神であると見られるようにもなり」ました。その一方で、「天台宗の念仏の守 護神である“摩多羅神(またらじん)”とも結びつきました。摩多羅神とは、円珍上人(えんちんしょうにん)が唐から帰日する際、上人に向かって空中から呼 びかけた神と言われています。
★“山王”の文字の神秘的解釈
山王神道で興味をそそられるのは、“山王”という文字を秘教的に解 釈する点です。「山王」という字は「山」にしても「王」にしても皆、三本と一本の線から出来ています。つまり「山」は縦が三本で横が一本、「王」は横が三 本で縦が一本である。天台の観想(かんそう、心の動揺を止め、物事の真理について深く観ること)の方法として「三諦一実(さんていいちじつ)」という教え があり、その「三諦一実」を「山王」という字が文字通りに表しているというのです。
さらに、この「三諦一実」は、生死や煩悩(ぼんのう)の域を脱して悟りの境地に達するという「一心三観(いっしんさんかん)の悟り」、あるいは人の日常の心がそのまま全宇宙であるという「一念三千(いちねんさんぜん)」をも象徴していると説く。
やがて鎌倉時代に入り、吉田神道が勢力を拡張するにつれてこれら密教系神道を激しく攻撃したにも関わらず、比叡山延暦寺が確固たる基盤を持っていたため、 その支配下にあった山王神道もまたそうとうな力を有していたようです。比叡山の僧兵が日吉山王社の神輿をかついで京都に乱入し、強訴するといつた事件はあ まりにも有名です。
●山王一実神道
織田信長の比叡山焼き討ちで、日吉山王社も焼失しましたが、山王神道は絶えることなく、社殿は豊臣秀吉、徳川家康らによって再興されます。
特に江戸時代の初頭、その教説は、徳川家康の腹心でもあり、上野の寛永寺を創始した天台宗の天海僧正によって大きく復興されました。山王一実神道の「山王 一実」という名称も、天海僧正が「山王」に、天台宗の「円頓一実戒(えんとんいちじつかい)」や法華経の「一実乗(いちじつじょう)」からの「一実」を合 体させて作った造語とされています。
天海は「日吉神と天照大御神と大日如来(だいにちにょらい)は一体であり、神仏の元は天照大御神である」と説き、江戸幕府の力を背景にして山王一実神道を大いに宣揚しました。
徳川家康の死去にともない、家康本人の意もあって、幕府公認の神道家元たる「吉田神道」によって、家康に“明神(みょうじん)”号を贈ることとして、一端 は駿府の久能山に神葬した。そのことについて天海は、豊臣秀吉がやはり同じ明神号だったにも関わらず、結局は自らの神威を発揮できなかったことをあげ、明 神号は不吉だとして、“権現(ごんげん)”の神号に決定させ、結局、山王一実神道の様式で祭祀を執り行い、日光東照宮社殿中央にその御霊(ミタマ)を「東 照大権現(とうしょうだいごんげん)」として祀り、左には「天台宗の念仏の守護神・摩多羅神(またらじん)」、右には「日吉山王神」を祀った。
山王一実神道はその後も、延暦寺を中心とする天台系の寺院勢力を背景に根強く存続しましたが、明治維新の際の神仏分離令によって強制的に廃絶されました。 但し、第二次世界大戦後は、神仏習合時代の信仰形態も一部復活し、現在の“日吉山王祭”では古式通り、比叡山延暦寺の僧による読経と奉幣(ほうへい)も行 われるようになりました。
道開き at 2002/06/06(Thu) 10:05
告!!!!
2002/05/31(Fri)
以下の順で書き込みを行っています。
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。
①産土さま(うぶすなさま)
②七福神
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)
④お稲荷さん(おいなりさん)
⑤八幡さま(はちまんさま)
⑥庚申さま(こうしんさま)
⑦山の神
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)
⑩天神さま(てんじんさま)
⑪火の神々
⑫白山神(はくさんさま)
⑬熊野権現(くまのごんげん)
⑭日吉神(ひえさま)
⑮賀茂神(かもさま)
⑯鹿島神(かしまさま)
⑰不動明王(おふどうさま)
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)
ここの時点では、⑬熊野権現(くまのごんげん) までの打ち込みを終えています。
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。
①産土さま(うぶすなさま)
②七福神
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)
④お稲荷さん(おいなりさん)
⑤八幡さま(はちまんさま)
⑥庚申さま(こうしんさま)
⑦山の神
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)
⑩天神さま(てんじんさま)
⑪火の神々
⑫白山神(はくさんさま)
⑬熊野権現(くまのごんげん)
⑭日吉神(ひえさま)
⑮賀茂神(かもさま)
⑯鹿島神(かしまさま)
⑰不動明王(おふどうさま)
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)
ここの時点では、⑬熊野権現(くまのごんげん) までの打ち込みを終えています。
道開き at 2002/05/31(Fri) 17:45
⑬熊野権現(くまのごんげん)
2002/05/31(Fri)
●「山」-神聖なる“場”
我が国では古くから、山が神霊の降臨(こうりん)される処、又は、神々の棲まわれる聖地として崇められてきました。現在でも日本を訪れる外国人は、自然、特に山に対する信仰が生きている事に強い印象を受けるといいます。
① 山頂には、「磐座(いわくら)」と呼ばれる巨大な岩石が祀られ、神々が憑(かか)られる“ご神体”として、祭りが行われてきました。やがて、時代がさがる と山麓に社殿を造り、山の神をお祀りするようにもなりました。これを神奈備山(かんなびやま)信仰といい、山そのものを神と仰ぐのです。
②さらに山は、農業にとって最も重要な水を供給してくれる、水源を支配する“水分神(みくまりのかみ)”と見なされ、「農業の神」、「豊饒(ほうじょう)の神」、「福の神」とされました。
③山は、「死者の霊魂が帰っていく場所」ともされて来ました。つまり、山が「死者の棲み家(すみか)」、或いは「死者の国への通路」と考えられたのです。
④ こうした「日本古来の山岳信仰」と、大陸から伝わってきた深山を聖地とする「道教」、そして、仏教の「密教(みっきょう)」が融合されたところに「修験道 (しゅげんどう)」も生まれました。やがて、数多くの山々が霊山として、諸神諸仏、祖霊が棲まわれる聖域となったのでした。
●“日本の原郷”・熊野
太古の面影を今もなほそのままに残しつつ、ただひっそりと神々たちの息づくところがあります。それが熊野です。現在の和歌山県、かつては「紀(き)の国」 と呼ばれ、つまり常緑の樹木が鬱蒼と茂った「木の国」に位置します。熊野の「くま」は「カム(神)」であり、熊野とは「神々の住まう聖なる地域」を意味し ます。
熊野では、川の神、海の神、山の神、日の神、そして、火、石、水、木の神といったように、もっとも素朴で根元的な様々な神祀りが行われて おり、日本民族の信仰の古層を幾重にも濃厚に残しています。熊野と「縄文時代」の信仰を結びつける学者も非常に多い。だからこそ、、熊野は“日本の原郷” と呼ばれたりもしています。
すぐそばを世界最大の黒潮・日本海流が流れ、その海流に乗って伝わったとされる、遠くはインドなどの大陸からの文化、信仰の名残も見られると言います。
●熊野大社(熊野三山)
◎熊野本宮――家津御子(けつみこ)神=スサノオ
創 祀は崇神(すじん)天皇の六十五年(BC33)奉斎したのは天孫ニニギの命(みこと)の兄にあたる饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫とされる熊野国造 (こくぞう)家、つまり物部(もののべ)系の家筋である。よって古代の熊野には日神信仰もあり、初代神武天皇を熊野から大和に導いた熊野大神の神使・“八 咫烏(三足烏)”〈やたがらす〉は太陽に住んでいるとされます。
◎熊野速玉(新宮〈しんぐう〉)――速玉之男(はやたまのお)神
創祀は景行(けいこう)天皇の五十八年(一世紀頃)。神武天皇が熊野灘(なだ)から上陸したとき、突然現れた大きな熊の毒気にあてられ、多くの軍勢が倒れ たという熊野神邑(くまののかみむら)とはこの熊野川口地域のこと。近くには蓬莱山(ほうらいさん)があり、秦の始皇帝の命によって日本に来たという除福 (じょふく)伝説の発祥の地でもある。
◎熊野那智(なち)――熊野夫須美(くまのふすみ)神
仁徳朝の創祀と伝えられる(三世紀 頃)。那智はサンスクリット語の“河・江”の意。那智山から発する大滝を御神体とした飛瀧(ひろう)神社から今日のような立派な社殿が建立された。「夫須 美(ふすみ)」は「むすび」、すなわち「産霊(むすび)」の義。よって御祭神も多くの島々や神々を産んだイザナミ神と同神とされる。
イザナミ神は火の神カグツチを産み、その時の火傷によって黄泉(よみ)の国に赴くこととなった。そのイザナミ神を葬り祀ったのが、同じ熊野の有馬村に鎮座する日本最古の神社とされる“花の窟(いわや)神社”であるという。
●修験道
日 本古来の原始山岳信仰と、②大陸より伝わった深山を聖地とする神仙思想の道教と、③仏教でも特に神秘性の強い密教とが融合して出来上がった呪術的実践宗 教、それが修験道です。始祖とされるのは七世紀の飛鳥時代の人で、役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で知られる役君小角(えんのきみおづぬ)とされま す。『日本霊異記』、『今昔物語』、『三宝絵詞(さんぽうえことば)』にその伝説が記載されています。
役行者を始め、多くの山林修行者たちは“ 金の御嶽(かねのみたけ)”と呼ばれた奈良の吉野の金峰山(きんぶせん)を中心に修行をおこない、やがて隣接する紀州の熊野にまで修行の場が広がりまし た。平安時代頃には吉野・熊野に渡る大峯(おおみね)山系一帯が修験道の一大拠点となっていったのでした。
これらの山岳修行者たちは、山で得た 験力(げんりき)をもとに里に下り、加持祈祷(かじきとう)を行い、その効力あらたかなるところから篤い信仰を集めました。彼らは、山の霊なる力を修行の 験(あかし)として現せたところから、“修験者”、あるいは山で寝起きすることから“山伏(やまぶし)”と呼ばれました。やがて、彼らを通じて修験道が全 国に広がっていったのでした。
※当山派(とうざんは)-真言系、吉野の金峰山(きんぶせん)に拠点を置く一派。
本山派(ほんざんは)-天台系、熊野三山を拠点とする一派。
★神仏習合による三社-三山の関係
(神社) 〈御祭神〉 (本地仏)
本宮(ほんぐう) 家津御子(けつみこ)神 阿弥陀如来(あみだにょらい)
新宮(しんぐう) 速玉之男(はやたまのお)神 薬師如来(やくしにょらい)
那智(なち) 熊野夫須美(くまのふすみ)神 千手観音(せんじゅかんのん)
我が国では古くから、山が神霊の降臨(こうりん)される処、又は、神々の棲まわれる聖地として崇められてきました。現在でも日本を訪れる外国人は、自然、特に山に対する信仰が生きている事に強い印象を受けるといいます。
① 山頂には、「磐座(いわくら)」と呼ばれる巨大な岩石が祀られ、神々が憑(かか)られる“ご神体”として、祭りが行われてきました。やがて、時代がさがる と山麓に社殿を造り、山の神をお祀りするようにもなりました。これを神奈備山(かんなびやま)信仰といい、山そのものを神と仰ぐのです。
②さらに山は、農業にとって最も重要な水を供給してくれる、水源を支配する“水分神(みくまりのかみ)”と見なされ、「農業の神」、「豊饒(ほうじょう)の神」、「福の神」とされました。
③山は、「死者の霊魂が帰っていく場所」ともされて来ました。つまり、山が「死者の棲み家(すみか)」、或いは「死者の国への通路」と考えられたのです。
④ こうした「日本古来の山岳信仰」と、大陸から伝わってきた深山を聖地とする「道教」、そして、仏教の「密教(みっきょう)」が融合されたところに「修験道 (しゅげんどう)」も生まれました。やがて、数多くの山々が霊山として、諸神諸仏、祖霊が棲まわれる聖域となったのでした。
●“日本の原郷”・熊野
太古の面影を今もなほそのままに残しつつ、ただひっそりと神々たちの息づくところがあります。それが熊野です。現在の和歌山県、かつては「紀(き)の国」 と呼ばれ、つまり常緑の樹木が鬱蒼と茂った「木の国」に位置します。熊野の「くま」は「カム(神)」であり、熊野とは「神々の住まう聖なる地域」を意味し ます。
熊野では、川の神、海の神、山の神、日の神、そして、火、石、水、木の神といったように、もっとも素朴で根元的な様々な神祀りが行われて おり、日本民族の信仰の古層を幾重にも濃厚に残しています。熊野と「縄文時代」の信仰を結びつける学者も非常に多い。だからこそ、、熊野は“日本の原郷” と呼ばれたりもしています。
すぐそばを世界最大の黒潮・日本海流が流れ、その海流に乗って伝わったとされる、遠くはインドなどの大陸からの文化、信仰の名残も見られると言います。
●熊野大社(熊野三山)
◎熊野本宮――家津御子(けつみこ)神=スサノオ
創 祀は崇神(すじん)天皇の六十五年(BC33)奉斎したのは天孫ニニギの命(みこと)の兄にあたる饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫とされる熊野国造 (こくぞう)家、つまり物部(もののべ)系の家筋である。よって古代の熊野には日神信仰もあり、初代神武天皇を熊野から大和に導いた熊野大神の神使・“八 咫烏(三足烏)”〈やたがらす〉は太陽に住んでいるとされます。
◎熊野速玉(新宮〈しんぐう〉)――速玉之男(はやたまのお)神
創祀は景行(けいこう)天皇の五十八年(一世紀頃)。神武天皇が熊野灘(なだ)から上陸したとき、突然現れた大きな熊の毒気にあてられ、多くの軍勢が倒れ たという熊野神邑(くまののかみむら)とはこの熊野川口地域のこと。近くには蓬莱山(ほうらいさん)があり、秦の始皇帝の命によって日本に来たという除福 (じょふく)伝説の発祥の地でもある。
◎熊野那智(なち)――熊野夫須美(くまのふすみ)神
仁徳朝の創祀と伝えられる(三世紀 頃)。那智はサンスクリット語の“河・江”の意。那智山から発する大滝を御神体とした飛瀧(ひろう)神社から今日のような立派な社殿が建立された。「夫須 美(ふすみ)」は「むすび」、すなわち「産霊(むすび)」の義。よって御祭神も多くの島々や神々を産んだイザナミ神と同神とされる。
イザナミ神は火の神カグツチを産み、その時の火傷によって黄泉(よみ)の国に赴くこととなった。そのイザナミ神を葬り祀ったのが、同じ熊野の有馬村に鎮座する日本最古の神社とされる“花の窟(いわや)神社”であるという。
●修験道
日 本古来の原始山岳信仰と、②大陸より伝わった深山を聖地とする神仙思想の道教と、③仏教でも特に神秘性の強い密教とが融合して出来上がった呪術的実践宗 教、それが修験道です。始祖とされるのは七世紀の飛鳥時代の人で、役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で知られる役君小角(えんのきみおづぬ)とされま す。『日本霊異記』、『今昔物語』、『三宝絵詞(さんぽうえことば)』にその伝説が記載されています。
役行者を始め、多くの山林修行者たちは“ 金の御嶽(かねのみたけ)”と呼ばれた奈良の吉野の金峰山(きんぶせん)を中心に修行をおこない、やがて隣接する紀州の熊野にまで修行の場が広がりまし た。平安時代頃には吉野・熊野に渡る大峯(おおみね)山系一帯が修験道の一大拠点となっていったのでした。
これらの山岳修行者たちは、山で得た 験力(げんりき)をもとに里に下り、加持祈祷(かじきとう)を行い、その効力あらたかなるところから篤い信仰を集めました。彼らは、山の霊なる力を修行の 験(あかし)として現せたところから、“修験者”、あるいは山で寝起きすることから“山伏(やまぶし)”と呼ばれました。やがて、彼らを通じて修験道が全 国に広がっていったのでした。
※当山派(とうざんは)-真言系、吉野の金峰山(きんぶせん)に拠点を置く一派。
本山派(ほんざんは)-天台系、熊野三山を拠点とする一派。
★神仏習合による三社-三山の関係
(神社) 〈御祭神〉 (本地仏)
本宮(ほんぐう) 家津御子(けつみこ)神 阿弥陀如来(あみだにょらい)
新宮(しんぐう) 速玉之男(はやたまのお)神 薬師如来(やくしにょらい)
那智(なち) 熊野夫須美(くまのふすみ)神 千手観音(せんじゅかんのん)
道開き at 2002/05/31(Fri) 17:40