告!!!!

2002/04/24(Wed)
以下の順で書き込みを行っています。
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。

①産土さま(うぶすなさま)
②七福神
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)
④お稲荷さん(おいなりさん)
⑤八幡さま(はちまんさま)
⑥庚申さま(こうしんさま)
⑦山の神
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)
⑩天神さま(てんじんさま)
⑪火の神々
⑫白山神(はくさんさま)
⑬熊野権現(くまのごんげん)
⑭日吉神(ひえさま)
⑮賀茂神(かもさま)
⑯鹿島神(かしまさま)
⑰不動明王(おふどうさま)
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)
 道開き at 2002/04/24(Wed) 14:45 

⑤八幡神(八幡さま)

2002/04/24(Wed)
●宇佐神宮が総本宮
お稲荷さんと並んで、日本人に最もしんこうされている八幡さま。神社の数も全国に約二万五千社が勧請(かんじょう)されているほどです。
全国八幡宮の総本宮は、古代の大陸と日本列島の接点であったと思われる北九州地方は大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮です。そして、ご祭神の特徴としては、

① その発祥がさだかではないこと
『古事記』、『日本書紀』などの神典には宇佐八幡とその御祭神については、全くふれられてはおらず、古代朝鮮半島の巫道(ふどう、巫術、シャ-マニズム)・道教・仏教と神道が融合しその中から生まれたこと。

② 歴史上、数々の託宣を下されているこ

③ 神仏習合の先駆けであること
神仏習合とは、大陸から仏教が伝来し日本古来の神道との融合が起きた。その際、仏教側から神道の神々の説明が行われた。
神々を仏の権現(ごんげん、つまり、神とは仏がかりそめに現れた存在)であるとする説。ただし、これはあくまでも仏教側の説である。


●巫道・道教・仏教と神道が融合して生まれた神  ―大陸との接点に生まれた神―
八幡宮は、明治維新の神仏分離令以後、純然たる神社となりました。しかし、それまではすべてにおいて古代朝鮮の巫道(シャ-マニズム)・道教・仏教とが複雑に結びついた神仏習合の神社であったのです。それも、日本で初めて神仏習合に先鞭をつけた神社でした。
というのも、冬至の宇佐地方は、瀬戸内海交通の要衝(ようしょう)であり、畿内と朝鮮を結ぶ海上ル-トの中継地として、百済(くだら)、新羅(しら ぎ)などからさまざまな文化や技術が流入されていたのでした。その主な担い手は、シャ-マン(神のことばを取り次ぐ者)の家筋の辛島(からしま)氏と、宇 佐の国造(こくぞう)でウサツヒコ・ウサツヒメを祀る宇佐(うさ)氏でした。これらの氏族がつかさどっていた相当に高い“豊国文化”は六世紀まで続きまし た。その中から五世紀末に雄略(ゆうりゃく)天皇の病を治したとされる「豊国奇巫(とよくにのあやしきかんなぎ)」(やはりシャ-マンの一種)や、それに 続く「豊国法師(とよくにほうし)」(仏教僧の一種だが、やはりシャ-マンとしての高い能力を持っていたらしい)が生まれたりもしました。したがって、八 幡神が出現するまでには、古代宇佐地方において、こうしたさまざまな信仰が複雑に絡み合っていたのです。

★ “巫部(かんなぎべ)神道”と教派神道十三派の一つ「神理教(しんりきょう)」
巫部神道とは、天孫(てんそん)・饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天つ神より天璽十種神宝(あまつしるしとくさのかんだから)を始め、諸々の神術を授 かり河内の国(現在の大阪府)斑鳩(いかるが)の峰に天降りして、大いに神法・神術を伝えたことに始まる。その子孫には、神術に達して神と通う場に至った 人も多く居られたようである。その十世孫で五十音(ごじゅうおん)の言霊を明らかにしたとされる五十言宿祢(いそことすくね)。履中(りちゅう)天皇の御 世に、諸国に疫病が流行したことにより、廷議一決のもと、天皇よりその神術を以て諸国の病気鎮滅、国民救済を仰せつけられたことで有名な物部伊美伎連(も ののべいみきのむらじ)。彼は「国中に天在諸神(てんにますもろもろのかみ)を祀り」、「神理を諭し(しんりをさとし)」、「患者を呪い(まじない、禁 厭)」、「御神水をあたえて人々を癒した」という。そして、雄略(ゆうりゃく)天皇の病を癒したとされるが『姓氏禄(しょうじろく)』に豊国奇巫(とよく にのあしきかんなぎ)とあり、宇佐地方とも係わりの深い巫部兄久志宿祢(かんなぎべえくしすくね)である。
やがて、巫部家は佐野と改称する。そ して、明治になり、饒速日命(にぎはやひのみこと)から七十七代にあたる佐野経彦(さのつねひこ)は、代々伝わる御教えを奉じ、「鎮魂(行法)・禁厭(ま じない)・祈祷(きとう、祈り)・太占(ふとまに、占い)を旨とする神理教」を開くこととなる。(現在でも福岡県企救郡に本庁を置き、三十万人程の信徒を 抱える中堅的教団として存在している。)
経彦は明治三十九年、七十三才で帰幽したが、その際に贈られた神号は、「天津神理誠之道知部経彦命(あまつみことわり、まことのみちしるべ、つねひこのみこと)である。実に相応しい神号である。
“三直道人“とも号した経彦の神歌の一つに次のようなものがある。

聞き直し  見直しつつも  宣(の)り直し 世を良き方に  なすがこの道


●主祭神・応神(おうじん)天皇〈誉田別命(ほんだわけのみこと)〉説
説 話によると、「宇佐八幡は、はじめ身体は一つだが頭は八つもある、まるで八岐大蛇(やまたのおろち)のような翁(おきな)で、彼に近づこうとする者の大半 は死亡した。ところが大神比義(おおがのひぎ)というシャ-マンがいて、この男が見に行くと翁の姿はみえず、翁は金色の鷹、ついで金色の鳩に変身し、比義 の袖に止まったという。
これを神の変身であると感じた比義が、三年間、山中で修行していると、翁は菱形池の辺に三歳の小児の姿となって現れ、「我は日本人皇(じんのう)第十六代誉田天皇広幡八幡麿(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり」と名のったという。
すなわち、誉田天皇とは応神天皇のことである。ここからその母である神功皇后(じんぐうこうごう)も祀られるようになり、他に比売(ひめ)大神(宗像三女神-福岡県・宗像大社の御祭神)も祀られた。


●神仏習合による八幡信仰の広がり
昔、八幡さまといえば、“八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)”の名で広く信仰されていた。これは明らかに神仏習合によるものだ。
① はじめ八幡神は“弥勒菩薩(みろくぼさつ)”であるとされた
仏 教でいう如来(にょらい)は、すでに悟りを開き、仏と成っている存在。それに対して菩薩(ぼさつ)は悟りを求めて修行中の身をさします。本来なら如来にな れる身なのに、成仏してこの世におられない仏に代わって人々を救うという誓いをたてて、いろいろな御利益を授けてくださるという存在。中でも弥勒菩薩はお 釈迦さまの後を継ぐと約束されており、現在は釈迦もこの世に生まれる前にいたという「兜卒天(とそつてん)」というところで修行中で、やがて釈迦がなく なってから五十六億七千万年後に下生(げしょう)する救世主とされる菩薩。

②続いて“釈迦如来(しゃかにょらい)”であると考えられた
※いわゆるお“釈迦さま”のこと

③平安中期には、八幡神は“阿弥陀如来(あみだにょらい)”であると考えられた
阿弥陀如来とは、「南無阿弥陀仏(なむあみぼだつ)」(「阿弥陀さまを心から敬って帰依します」という意味)と、繰り返し唱えれば、死後西方(さいほ う)にあるとされる極楽浄土に連れていってくだされると言われている仏。よって、八幡神も「南無八幡大菩薩」という名号が多くの人々に唱えられたのでし た。


●武の神から“出世開運”の神へ
こうして八幡神は仏教と結びつき、民衆の間に深く浸透していったのでした。しかし、その一方では武士を中心に“武門鎮護(ぶもんちんご)の神”としても信仰されました。その理由は、

①応神(おうじん)天皇といえば、その母の神功皇后(じんぐうこうごう)は、言い伝えによると、応神天皇を出産後すぐに三韓との戦いに勝利を得るという大業を成した方で、この故事にちなみ、奈良朝から八幡神を戦いの神とする信仰がありました。

②八幡神が清和(せいわ)天皇の氏神として、京都の石清水(いわしみず)八幡宮に勧請(かんじょう)されると、やがて清和天皇から出た源氏が、八幡神を敬うようになり、次第に「源氏の氏神」と仰がれるようになった。
とりわけ、源義家はこの石清水の社頭で元服し、“八幡太郎”と名のったことはあまりに有名な話で、やがて頼朝の代になると、その分霊を鎌倉の鶴岡八幡宮に勧請したりもしました。

現在の八幡信仰は、この武の神ということから「勝利祈願」、「武道上達祈願」、また、その神威による「受験合格」、「出世開運」、「厄除け」の神として多くの人々から仰がれている。


●“託宣”の数々
★神号の由来
前述の通り、古代宇佐地方は大陸からの文化の流入する先進地であった。従って、八幡神が渡来神(とらいしん)ではないかとする説もあります。例えば、神宮の菱形池に三歳の小児となって託宣された際に、
「辛国(からくに)の城に八流の幡(旗)を天降して、吾は日本の神となり・・」
と語られたと伝えられています。すなわち、“八幡”という神号はここから発しているとされているのですが、「辛国(唐国)」とあるように、ここでは自らが「渡来神」であることを語られています。

★大仏建立と八幡神
宇佐八幡は“鉱産・鍛冶(かじ)の守護神”として、大陸からの渡来人からも信仰されていました。そして、745年、“奈良東大寺の大仏”建立の際、大神朝臣杜女(おうがあそんもりめ)というシャ-マンに、
「天神地祇(てんじんちぎ、天地の神々の意)を率い誘いて鋳造に協力する」
との託宣が下されたと言います。
このため、749年、宇佐八幡の神霊が奈良東大寺の大仏建立を助けるため、天皇と同じ紫錦の輿に乗って、堂々と入京したのでした。これによって八幡神の名が、一躍中央の人々の知るところとなりました。
このとき東大寺の守護神として勧請されたのが手向山(たむけやま)八幡宮です。

★道鏡の偽託宣事件
東大寺の大仏建立によって、八幡神は託宣の神として一躍その名を知られるところとなりました。その宇佐八幡の霊験をさらに天下にとどろかせたのが、769年の偽託宣事件です。
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、時の女帝・称徳(しょうとく)天皇に取り入って、太政大臣、禅師、法王の地位を独占した上、さらに皇位をうかがおうとし て、太宰府の主神(かむづかさ)・中臣習宣阿曽麻呂(なかとみのあげあそまろ)と手を組み、「道鏡をして皇位に就かしめれば天下泰平ならん」という偽りの 宇佐八幡の神託を天皇に奏上するという有名な事件が生じた。
天皇はその真偽を確かめるため、和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐に派遣し、
「わが国は開闢(かいびゃく)このかた君臣のこと定まれり、臣をもって君となす未だこれあらず。天つ日嗣(あまつひつぎ、皇位のこと)は必ず皇緒を立てよ。無道の者はよろしく早く掃き除くべし」
との神教を授かりました。
これに怒った道鏡は清麻呂の名を穢麻呂(きたなまろ)と改名させ、足の筋を切り、大隅国(現在の鹿児島)に流しました。だが、光仁(こうにん)天皇が即位すると、道鏡は失脚し、清麻呂は奈良に戻された。
この事件により、宇佐八幡神の神託は朝廷の中でも大きな位置を占めるようになっていき、以来、国家鎮護の神として篤く信仰されていきました。

★伝教大師・最澄と宇佐八幡
日 本の天台宗の開祖・最澄が天台仏教をさらに深めるために、延暦23(804)年、遣唐使の還学生として中国に渡る際、その渡航に先立ち、九州の神々に航海 の無事を祈っている。そして、宇佐八幡宮に御参りし、神のお告げを受けて筑紫の香春神宮院に祈ったエピソ-ドが伝わっている。香春神に天台の最高教典『法 華教』を講じ、その代わりに航海の無事を約束されたという。   

★朝野の信仰を集めた石清水八幡宮
八五九年、奈良大安寺の僧・行教(ぎょうきょう)の奏請により、山城の国(現在の京都府八幡市)の男山の山頂に、石清水八幡宮が勧請されました。鎮座地にちなみ男山八幡宮とも呼ばれています。行教が宇佐八幡を訪れた時、
「都の近くに移り座し、国家を鎮護せん」
さらに、
「移り座すべき処は石清水男山の峯なり」
との神託を受けたからといいます。
やがて、“石清水皇(すめ)大神”との別名を持ち、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟(そうびょう)として為政者や貴族のみならず、広く庶民にも信仰されまし た。そして、足利氏、徳川氏も源氏の流れを汲むところから、鎌倉、室町、江戸時代を通じ、武門の守護神として八幡信仰は一段と普及したのでした。
 道開き at 2002/04/24(Wed) 14:45 

④稲荷神(お稲荷さん)

2002/04/24(Wed)
●全国で最も数が多い稲荷社
お稲荷さんは、日本中で最も広く信仰されている神さまです。「全国の神社の三分の一」は、この稲荷社で占められているほどです。それは、五穀豊穣・家内安全・大漁守護等々、数多くの現世利益に結びついているため、庶民の人気を集めているというわけです。


●伏見稲荷大社
総本社・伏見稲荷大社の起源は古く、711年、深草の長者・伊呂具秦公(いろぐはたのきみ)が三柱の神を祀ったのが始まりとされています。三柱の神とは、 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)・佐田彦大神(さだひこのおおかみ)・大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)です。
そして、平安末期に なって田中大神(たなかのおおかみ、大己貴神〈おおなむちのかみ〉、つまり、大国主神〈おおくにぬしのかみ〉の別名)と四大神(五十猛命〈いそたけるのみ こと〉、大屋姫〈おおやひめ〉、抓津姫〈つまつひめ〉、事八十神〈ことやそのかみ〉)の二座を加えて“稲荷五社明神”としたのでした。

※愛知の豊川稲荷などは、仏教のダキニ天を稲荷神としてお祀りしています。


●主祭神・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
○五穀と蚕桑(さんそう)をつかさどる穀霊(こくれい)神とされます。

○宇迦(うか)は、食物の古代語「ウケ・ウカ」から派生しており、よってウカノミタマとは、食物の霊を意味します。とりわけ「稲の霊」として崇めてきました。

○「稲荷」という呼称も、「稲成り(いねなり)」から来ており、収穫の上は肩に荷なって神に捧げたので、「稲を荷う」という文字を用いました。

○ 「ウカ」とは伊勢神宮の外宮(げぐう)に祀られている豊受大神(とようけおおかみ)の「ウケ」と同一語。延喜式祝詞(えんぎしきのりと)の大穀祭の祝詞に 「豊受気姫是稲霊也(とようけひめこれいなだまなり)。俗謂宇賀能美多麻(ぞくにうかのみたまという)」とあり、ウカノミタマの神とトヨウケの神とは同神 とされてきました。

○ 『古事記』の大宜都比売神(おおげつひめのかみ)、『日本書紀』の保食神(うけもちのかみ)などはすべて同一神とされ、五穀(こめ・むぎ・あわ・きび・まめ)と蚕桑(さんそう)をつかさどる女神とされてきました。



○宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と大市比売(おおいちひめ、大山津見神の子)との間に生まれた神で、大年神(おおとしのかみ)の妹。
市(流通)の神である大市比売、植物などの一年間の生育の神である大年神、そして、食物霊である宇迦之御魂神と、その一族神は人間の生活にとって根源的な食の生活と流通を支える神々なのです。

※商売繁盛など商工業の守り神としても仰がれているのは、秦氏(はたし)がその後商工業の方面でも活躍したことにも関係があるようです。


●“お塚”信仰
伏見稲荷大社の鳥居は、さすが「千本鳥居」といわれるだけあってすき間なく林立する鳥居が、さながらトンネルのように“稲荷山”に向かって続いています。 そのトンネルの鳥居をくぐりぬけると、山のあちこちに大小一万基の「お塚」とその眷属(けんぞく、神の使いのこと)のキツネ像が祀られています。しかも、 「お塚」は不規則に散在しているのではなく、「一の峯」、「二の峯」、「三の峯」を中心に取り囲むようにストン・サ-クル状に建てられています。「お塚」 のひとつひとつには渦巻き状に番号が付されており、全国の信者やその集団(講〈こう〉)によって建立されたものなのです。
参拝者たちのあいだで は、この「お塚」に詣でることを「お山する」といいます。そして、古来、日本神道において、神々が降臨する際の「依代(よりしろ)」となる石などを「磐境 (いわさか)」といいますが、この「お塚」は、ウカノミタマの神が降臨する際の「依代(よりしろ)」ではないかとされています。


●初午(はつうま)の祭り
お稲荷さんのお祭りの中でも、全国的に有名なのが二月に行われる「初午の祭り」です。その由来には二つの説があります。
①伏見稲荷大社が711年2月7日壬午(みずのえうま)の日に鎮座されたこと。

② 早くから稲作の発達した日本では、二月は播種の月とされ、各地で斎行される祭りも多かった。「特に春のはじめには、“山の神”を迎えて“田の神”とする農 耕儀礼」が各地で行われていました。この時、「山の神を迎えるために馬を連れて山に登っていくことが行われ、それで“午(うま)”の日を選んだとも言われ ています。

※初午の日の稲荷詣で(もうで)は昔から人気を呼んだようで、清少納言の『枕草子』にも、二月の午の日の早暁(そうぎょう)に家を出発し伏見稲荷に参詣したことが記されています。

★験(しるし)の杉
初午の稲荷詣でには、昔から杉をかざして帰ることが一つの習わしとなっています。これを“験(しるし)の杉”といい、家に持ち帰って、木が根付けば福となるとされているのです。


●キツネは稲荷の神使(しんし、眷属〈けんぞく〉)
昔からキツネは稲荷神の使い(神使〈しんし〉・眷属〈けんぞく〉)とされて来ました。全国の稲荷社には、狛犬(こまいぬ)ならぬキツネの像が神前をにぎわ し、“朱塗り(しゅぬり)の鳥居”と“正一位の幟(のぼり)”と共に稲荷信仰の重要なシンボルと成っています。このため、最近では稲荷明神をキツネの神と 信じている人もいるくらいです。

★キツネが宇迦之御魂神の神使となった理由
①一般には、ウカノミタマの神の別名が「御饌津神(みけつかみ)」であったことからミケツの「ケツ」に対しキツネの古名「ケツ」が想起され、「三狐津(みけつ)神」の字を当てたとされる。

②根本的には、キツネを田の神の“先触れ(さきぶれ)”と見たから。
も ともとキツネは、鹿などと共に人里近くに現れ、かつては人々に親しまれた獣でした。キツネが山から降りてきて、稲田の近くに食物をあさり、子ギツネを養お うとしたのは、ちょうど稲の稔った時期から冬にかけてである。昔は、山の神が春を下って田の神となり、秋には山に戻って山の神になると信じられていただけ に、秋の稲田でキツネの姿を見たり、声を聞いた者は、何かしらの神霊観をおぼえ、山にいる神霊の先駆けとみたのです。ちなみに、キツネは全国的に「ミサ キ」「オサキ」と呼ばれていますが、このミサキ・オサキは先鋒(せんぽう)を意味します。
「尊い神は容易に姿を見せることはなく、この使いを通さなければ、神霊を伺うことはできないと考えられていました。」「そこから、キツネが御祭神と共に祀られる必要が生まれました。」


●厄除け(やくよけ)・招福(しょうふく)の神
信仰は時代と共に変化します。近世に入って、稲荷神は厄除け・招福の神として崇められるようになったのです。これは、真言密教(しんごんみっきょう、弘法 大師・空海が開祖)の影響によるもので、稲荷信仰のキツネが仏典に出てくるだ茶吉尼(ダキニ)天と結びついたからです。
このダキニ天とは、もと もとはヒンズ-教の女神カ-リ-がひきつれる女鬼の一人。摩訶不思議な力を持っていて、半年前から人の死を知り、その肉を食らうという恐ろしい夜叉(や しゃ)の仲間とされ、その神通力の強さゆえ、これを祀る者は福を得るといわれていました。しかし、インドのダキニ天信仰は、キツネとは何ら関わりがありま せん。では、どうしてそのダキニ天と稲荷のキツネが結びついたのか。
それは、当時、キツネがしばしば人間に憑依したため、真言密教では、恐ろしい神通力を持つダキニ天をキツネの霊と考えたため、庶民の間ではこのダキニ天の霊力にあやかり、福を受けようとする信仰が広まったからなのです。

※愛知県の「豊川稲荷」や岡山県の「最上(もがみ)稲荷」は、このダキニ天を稲荷神とする仏教系の稲荷社である。


●弘法大師・空海と稲荷神
伏見稲荷の当初の鎮座地は稲荷山“三箇峯(さんがみね)”とされており、稲荷山西麓にある現在の場所へは、弘法大師・空海により東寺(とうじ、真言密教の 道場)の鎮守神として祀られました。当時、伏見稲荷が御所(ごしょ)の東南に位置していたことから「巽(たつみ)の鎮神(しずめがみ)」とも呼ばれていま した。
稲荷大神が稲を荷なう老翁(おきな)に化して、東寺南大門の前で空海と出会い、真言密教を守護すると「神約」したという伝えもあります。


●流行神となつた稲荷神
江戸時代、「町内に(まちうちに) 伊勢屋 稲荷に 犬の糞(ふん)」という川柳(せんりゅう)が生まれました。これは、江戸の街に伊勢屋という屋号の店 や、犬の糞と同じくらいにたくさん、稲荷の祠(ほこら)が祀られていたことをいいます。このように、稲荷信仰が江戸の街をはじめ各地に広まったのは、当 時、キツネが人間にしばしば憑依し、災いをもたらしたため、これを祀る塚や祠があちこちに生まれ、そこに先のダキニ天信仰と結びついて、厄除け、招福の神 ともてはやされていったからです。
特に江戸では、“屋敷神”として祀られるようになりました。特に田沼意次の出世は、その屋敷内の稲荷の祠の霊 験と伝えられ、武家がそれにならって屋敷神として小祠を設け、町家商人もまたこれにならうといつたぐあいに広がっていったのでした。江戸末期の翁稲荷、太 郎稲荷、三国稲荷、妻恋稲荷、瘡守稲荷、真崎稲荷などは、かなりの霊験があったようで、一代の流行神までになりました。


●稲荷大明神像と霊狐(れいこ)
近世に入り、キツネを従えた稲荷明神の像が広く一般に流布されだしました。ただし、この像には二つのタイプがあります。
①伏見系-稲束を荷なった老翁(おきな)でキツネを伴った形
(空海と神約を交わした稲荷明神を描いている)

②豊川系-白狐(びゃっこ)に乗った女神の形
(真言密教のダキニ天を表している)

★命婦神(みょうふしん)
ウカノミタマの神とは別に、キツネの神を命婦神(みょうふしん)と呼びます。命婦とは、五位相当の女官の名称ですが、これを霊狐に対して用いたのです。伏見稲荷の奥宮の北に鎮座する「白狐社(びゃっこしゃ)」がこれに当たります。


●民間のキツネ信仰
★狐塚
キツネは田の神とされていたので、これを祀る祠(ほこら)が各地にできた。これが、いわゆる「キツネ塚」です。

★キツネと託宣
また、キツネを通じて神から託宣を聞こうとする行為も各地によく見かけられる風習です。人間にある種の霊が憑くというのは、洋の東西を問わず昔からある現 象です。日本では稲荷の“先走り”であるキツネが、神霊の託宣のために人間に取り憑くと考えられて来ました。“イナリオロシ”、“イナリサゲ”とも言いま す。
大和地方では、憑かれる人を“ダイサン”と呼び、願い事を頼みたい、あるいは託宣を聞きたいという時は、このダイサンに頼みました。依頼を 受けたダイサンは、三方に盛った米に御幣(ごへい)を立てて拝むと、その人に霊が降りてきて託宣するという。その時、ダイサンは、あたかもキツネのような 形相になり、家人とともに語り、踊り、また食べるといいます。
また、九州福岡では、お稲荷さんが憑いて人の禍福を予言し、病気を治すことを“トリイダシ”という。これは“野狐(やこ)使い”ともいい、医者の見放した病人をトリイダシをして治した話が多く残っています。

★鳴き声
キツネの鳴き声で吉凶を占うというもの。

★寒施行(かんせぎょう)
冬の寒中にキツネに食物を与えてまわる習慣。地域の稲荷講(いなりこう)の人々が、“狐塚”や“狐穴”にお供えの「赤飯」と「油揚げ」をセットにして供えます。“穴施行(あなせぎょう)”とも言います。

★キツネ狩り
小正月の頃、七歳から十二歳の男の子が、ワラで作ったキツネを青竹の上につけ、それを先頭に太鼓をたたきながら村中を巡り、手に持った御幣(ごへい)を振りつつ、「福キツネ」を迎えてくるというもの。

◆狐憑き
憑依は、古い時代には、「“神の使い”である動物の霊」を呼んで、神の言葉をきくという至極まじめな信仰だったのですが、仏教の教えが広がるにつれて、託宣としての様相が薄れ、その後は呪術とむすびつた邪宗という印象が強くなってしまいました。
憑きものは、特定の人、家に憑くと信じられ、これらの“憑きもの落とし”などに活躍するのが陰陽師や密教僧などの行者や祈祷師で、憑きもの信仰の主たる担い手でした。憑きものには他に、蛇(長縄、ながなわ)、狸、猿(猿神)、犬(犬神)があると言われています。
 道開き at 2002/04/24(Wed) 14:40 

告!!!!!

2002/04/17(Wed)
以下の順で書き込みを行っています。
ご利用の方は、どうぞ、コピ-なり、加工なりして、ご自由に編集し御活用下さい。

①産土さま(うぶすなさま)
②七福神
③天照大御神(あまてらすおおみかみ、お伊勢さん)
④お稲荷さん(おいなりさん)
⑤八幡さま(はちまんさま)
⑥庚申さま(こうしんさま)
⑦山の神
⑧大国主神(おおくにぬしのかみ)
⑨須佐之男神(すさのおのかみ)
⑩天神さま(てんじんさま)
⑪火の神々
⑫白山神(はくさんさま)
⑬熊野権現(くまのごんげん)
⑭日吉神(ひえさま)
⑮賀茂神(かもさま)
⑯鹿島神(かしまさま)
⑰不動明王(おふどうさま)
⑱蔵王権現(ざおうごんげん)
 道開き at 2002/04/17(Wed) 18:20 

天照大御神(あまてらすおおみかみ)

2002/04/17(Wed)
●日本の総氏神
昔から、多くの人々に「お伊勢さん」の名で親しまれてきた伊勢神宮。その規模と貴さは、まさしく日本一です。何しろ、神社といっ ても、約六キロの距離を隔てて、内宮と外宮があり、この両大神宮を中心にして、十四の別宮、四十三の摂社、そして末社、所管社合わせて百二十五もの社を総 称して神宮と呼ぶのだから凄いという他はありません。

◎内宮=皇大神宮(こうたいじんぐう)
・天照大御神(あまてらすおおみかみ)をご祭神にする
〈伊勢・宇治の五十鈴川の川上に鎮座〉

◎外宮=豊受大神宮(とようけだいじんぐう)
・天照大御神の食事神・豊受大御神をご祭神にする
〈伊勢・山田に鎮座〉

“皇室の祖神”であり、ひいては“国民の大御祖(おおみおや)の神”をご祭神とすることから、“日本国民の総氏神”として、また日本神道の“本宗”として、今日まで人々の厚い信仰を集めてきました。


●御祭神・天照大御神

★最高神であり太陽神である天照大神
◇ ご祭神・天照大神は、「天の岩戸隠れ(あめのいわとがくれ)の神話」で知られる女神です。国生み、神生みをなされた伊邪那岐(いざなぎ)神が禊(みそぎ) をした際に生まれた最も貴き神霊なのです。そして、伊邪那岐神より高天の原(たかまのはら)を治めるよう申し渡され、最高神となりました。
◇『日 本書紀』では、伊邪那岐神の神生みのくだりにおいて、「日神を生む、大日孁貴(おおひをめのむち)と号す」と記してあり、つまり、天照大神はもと大日孁貴 と呼ばれていました。この名前は、天照大神が“日”を祀る(まつる)女神であったことをも意味します。つまり、このことは、日神を斎き(いつき)祀る巫女 (シャ-マン)が、その優れた霊能ゆえか、日神と共に祀られるようになったことを意味しているようです。

★天照大神が祖神(おやがみ)と仰がれる理由
「八百万の神々」が存在するにもかかわらず、今日まで天照大神が日本の大御祖神(おおみおやのかみ)であり、最高神として仰がれてきた理由は何であったのでしょうか。それは、
① 天照大神が稲米を自ら収穫されて「人々の食いて生くべきもの」と言あげされたその功績によること。
② 万物の生命の根源である太陽神であるということ。

つまり、稲(いね)は日本人の生命の根源、「いのちの根」であり、その稲の生育にもっとも関係の深いのが太陽であったからです。万物の生命の根源を太陽に見いだして、これを日神「天に照り輝く貴い神」を意味する天照大神と称え仰いだのです。

★皇室で祀られていた天照大神
今でこそ伊勢の皇太神宮(こうたいじんぐう・内宮)でお祀りされている天照大神ですが、しかし、その昔は皇室の殿内、すなわち、天皇と同床同殿にてお祀りされていたのです。ちなみに天照大神が皇室の祖神とされる理由は、言うまでもなく「天孫降臨」の神話に由来します。
※ 「天孫降臨」 皇孫(こうそん)ニニギの命が多くの神々を伴って中津国
(この世、日本国)に降臨されたという神話。
ところが、第十代崇神(すじん)天皇の時代(BC93年)、疫病が流行し、多くの人民が亡くなった。そこで天皇は宮中でお祀りしていた天照大神と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の神威をかしこみ、同居を改め、天照大神を朝廷の外でお祀りすることにしたのでした。

★皇居から伊勢の地へ
①崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)が、斎主(いつきのみこ・斎宮)となって付き従い、大和の笠縫邑(からぬいむら・奈良県櫻井市)に祀られました。
〈※斎宮とは、天皇に代わって天照大神に仕えた未婚の皇女のこと。〉
② 八十五年後の垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代、皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が神意に従い、各地を遷幸(せんこう)し、ついに伊勢の国の五十鈴 川の川上に遷されました。その際の大神から倭姫命への託宣が、「この神風の伊勢の国は 常世(とこよ)の浪の重波(しきなみ)の帰する国なり この国にい らむとおもう」です。


●天照大神の食事神(みけつかみ)・豊受(とようけ)大神
外宮のご祭神・豊受大神は、はじめは丹波の国に祀られていました。それが、五世紀の雄略(ゆうりゃく)天皇の時代、天照大神の「御饌津神(みけつかみ)」(食事神)として伊勢の地に祀られるようになりました。
豊受大神は“食物の神”であると共に、百穀発生の元素をつかさどり、天下の人民に衣食住を給したまう“産業の神”でもあります。“お稲荷さん”こと宇迦之 御魂神(うかのみたまのかみ)、『古事記』の大宜都比売(おおげつひめ)、『日本書紀』の保食神(うけもちのかみ)などは総て同一神とされます。


●国家鎮護の神から民衆の神へ
① までは「私幣禁断(しへいきんだん)」といって、私ごとの願いでは幣帛(へいはく、神さまへのお供え物)を奉る(たてまつる)ことは固く禁じられていました。幣帛を捧げることの出来るのは天皇のみとされ、皇太子といえども天皇の許可が必要とされました。
また、天皇でさえ、皇家の私的な祭祀(さいし)にかかわる行為ではなく、国家を代表する存在として、公的な立場から国家の泰平について幣帛を奉ることに限られていてた。つまり、国家神としてあがめられていたのでした。
②中世には、源頼朝のように神官を通して寄進し、祈祷(きとう)してもらう者も出てきました。そして、荘園領主の中からも、同じように寄進する者も目立ち始めました。
③さらに時代が下がると、一般の人々でも神官を通して、幣帛として米や品々を献じることができるようになってゆきました。

◆十二月を“師走(しわす)”という理由
取り次ぎの神官“御師(おし)”やその手代(てだい)は、「旦那回り(だんなまわり)」といって、毎年定期的に自分の持ち分の地域を廻る。「旦那回り」に は、“御祓い”(おはらい、現在でいう“神宮大麻”)の他、土産の品、伊勢暦を持参する。これに対し、檀家の人々は御初穂(おはつほ)という形で代金を渡 していた。
伊勢へのお参りはね檀家の人々が御師ごとに集団(“伊勢講”)をつくり、交替でお参りしました。その際、御師は“伊勢参り”に来た人々を自分の家に泊め、案内役を務めました。
十二月を師走というのは、この御師が“御祓い”を持って全国を走り回った月だからとされています。


●お陰参り(おかげまいり)の大流行
現在、伊勢神宮への年間参拝者数は約六百万人にのぼります。人口三千万人の江戸時代に、年間四百万人以上にのぼる人々が参宮した年があります。これを「お 陰参り」といって、二十年に一度の遷宮の翌年で、六十年間の干支の一回りする「お陰年」に行われる伊勢参宮をいいます。
お陰参りは、“神のお 陰、人のお陰で伊勢神宮に参拝できる”という意味です。お陰参りに行くときは、お金を持たずに出かけても、お伊勢参りと一言いえば、どこの村々へ行っても 宿泊や食料を無料で提供してもらえたほど優遇されました。つまり、お伊勢参りという非常に尊い行為を手助けすることも、とても尊い御神行と考えられていた からのことでしょう。

◎抜け参り(ぬけまいり)
家の父母兄弟に無断で伊勢参りをしたり、奉公人が突然勤め先を抜け出して勝手に伊勢参宮に出かけることをいいます。秩序の厳しい封建時代にもかかわらず、この抜け参りだけはね帰ってきてからも何ら罰せられない習わしだったと言います。

◎“ええじゃないか”
幕末の動乱期には、「ええじゃないか」という歌と踊りで伊勢へと向かう人々で溢れかえりましたが、そこにはお伊勢さんに対し、“世直し”を求める民衆の強い思いが働いたようです。


●神社は伊勢につながる
全国には天照大神・豊受大神を祀った“神明”系の神社が一万八千社もあります。これらの神明宮は、御師たちの手によって、伊勢神宮の遙拝所として創建され ました。伊勢講の多くはこのような神明宮を拠点としました。さらに、神明宮の中には、幕末期、お陰参りに参加した人が記念のために造ったものもあります。 もちろん、庶民にとって、神宮の遙拝所であろうとなかろうと、神社はすべて霊的に伊勢神宮とつながっているのです。


●近代における様々な天照大御神像
近代において成立した2、3の神道系教団で説かれている天照大神像を取り上げてみます。
★黒住教  -黒住宗忠が説いた天照大神信仰-
文化年間、岡山の今村宮という神社に代々神職を務める黒住家に生まれた宗忠は、やがて、労咳(ろうがい、肺結核のこと)を患うが、三十五才の冬至の朝、日 拝の最中に、その病のどん底で起死回生の天照大御神よりの「天命直授(てんめいじきじゅ)」の神秘体験を得る。以後、講話と禁厭(まじない)によって布教 を行い、数々の奇跡を現す。
人はもともと太陽神・天照大御神の分霊(わけみたま)であり、心は「日神の御陽気(ごようき)」がこごってできたも のだから、「人欲を去り、正直に明らかなれば日神と同じ心」に他ならない。人の主人は心であって、肉体や、これは我だと思いこむ我執(がしゅう)は家来に すぎない。形を去り、昼夜ありがたいと喜び、心に陽気を満たして、何事も天にまかせて面白く楽しく暮らすなら、その人の生はそのまま日神の生であり、ほか のいずれかの場所を求めなくとも、今生きているその場その時が「神代(かみよ)」なのだと説いた。

★金光教  -『金光大神覚(こんこうだいじんおぼえ)』に記された天照大御神-
宗忠の帰幽(きゆう)後十一年目の、安政六年に神秘的回心を体験して金神と一体化し、後に「生き神・金光大神(こんこうだいじん)」と呼ばれるようになったのが金光教の創始者・川手文治郎である。
初めは、「金神七殺(こんじんななさつ)」の祟りにより、身内に不幸が相次いだという。やがて、四十二歳の厄年を迎え、ノドケ(扁桃腺炎)を患い、医者に もさじを投げられ明日をも知れぬ重態となった時、身内の者が寄祈祷(よりぎとう)を行った。その時に石槌(いしづち)の神が憑り、その原因が金神の祟りで ある事と、どうすれば助かることができるのかを語ったという。
その後、金神自身が文治郎に憑るようになり、さまざまに不思議な体験をさせ、ピタ リピタリと当たる予言を与えたりもしたのであった。そして、金神の命に従って書き上げた『金光大神覚(おぼえ)』(これが金光教の第一の教典となる)の安 政五年九月二十三日のくだりに、金神と天照大御神との間の文治郎をめぐるやり取りが記されている。
この日、金神が天照大神に、「戌(いぬ)の年 の氏子(文治郎のこと)を私にくださいませ」と頼んだ。天照大御神は、一度は、「はい、あげましょう」と答えたので、金神は文治郎に向かい、「戌の年よ、 金乃神(かねのかみ)がお前をもらったから、金乃神の一の弟子にいたすぞ」と語った。ところがそれを聞いた天照大神は、「文治のような氏子は他にはいませ ん。やっぱりさしあげることはできません」と申された。そこで金神は、「一度やるといったものを、やらないというのは偽りになりましょう。是非もらいうけ ます。それほど惜しいとおっしゃるのなら、かわりに文治郎の倅(せがれ)の巳(み)の年(浅吉のこと)が成長したら、皇大神様の御広前(おひろまえ)に参 らせますから文治郎を下さい」と重ねて天照大御神に頼み込み、やっとお許しを得、これで文治郎は晴れて金神の一の弟子になったという。以来、帰幽するまで 二十四年間を自宅の神殿の六畳一間に座り続け、ひたすら金神と人との取り次ぎによる人助け、つまり「御広前の勤め(おひろまえのつとめ)」を行った。
ちなみに「天地金乃神(てんちかねのかみ)」とは、「金神」(文治郎は地に満つ多数の金神の意味で「八百八金神(はっぴゃくやこんじん)」とも呼ぶ)に 「太陽神(日天子・にってんし)」と「月神(月天子・がってんし)」二柱(ふたはしら、神さまの数をかぞえるときの単位)の天神を加えての総称であり、あ らゆる神々の中でも最も根源に位置する最古不滅の神であるという。よって、天照大御神像は、記紀神話にでてくる天照大御神とも、黒住宗忠が語った天照大神 とも、かなりニュアンスの異なった神となっている。

★十言の神咒(とことのかじり)
「アマテラスオオミカミ」の十言(とこと) の神咒(かじり)奉唱は、古神道系教団・「神道天行居(しんとうてんこうきょ)」の創始者であり、神道霊学の大家でもある友清歓真(ともきよよしざね) が、一般向けの公開神法の一つとして提唱した言霊行(ことだまぎょう)である。
いうまでもなく十言とは、高天の原の主宰神・天照大御神の御名そのものであるが、同時に奇霊(くしび)極まる神咒(かじり)なのであるという。この神の御名を至誠を込めて、何百何千回と奉唱すれば、広大無辺の神徳をいただくことができるという。

※他にも、記紀神話と同様に、天照大御神を最高神と仰ぐ教団は現在でも非常に多い。
 道開き at 2002/04/17(Wed) 18:15